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⑩初めての対面

 結果は散々だった。

 10位にさえ入れていなかった。

 美月は画面を何度も見返した。

(……そっか)


 悔しい。

 もちろん悔しい。

 あれほど頑張った。

 朝ご飯を食べるのも忘れて、何時間も机に向かった。

 ジェラート ピケのルームウェアを着て、神谷が応援してくれていると思いながら描いた。

 自分には、応援してくれる人がいる。

 だから頑張れる。

 そう思っていた。

 それなのに、結果は10位以下。

 美月はしばらく動けなかった。

 するとスマートフォンが鳴った。

 神谷だった。

「結果、少し残念だったね・・じゃあ、次は持ち込みに行こうか」

「……持ち込み?」

「美月さん持ち込み以前も行ったと言っていたよね。又持ち込むのはどうかな?美月さんが望むなら付き添いするよ。」

 胸の奥が、少しだけ熱くなった。

「……行きたい」

「じゃあ、東京で会おう」

 その言葉を聞いた瞬間、美月の心臓が大きく跳ねた。

 東京。

 神谷と会う。

 画面の向こうではなく。

 電話の向こうでもなく。

 初めて、東京で。


 当日。

 東京駅に着いた美月は、人の多さに圧倒されていた。

 行き交う人。

 大きなキャリーケース。

 聞き慣れない話し声。

 人目が気になって仕方がない。

 いつもの美月なら、すぐに俯いてしまうところだった。

 けれど今日は、神谷に会える。

「大丈夫」

 自分に言い聞かせる。

 約束の場所へ向かう。

 何度もスマートフォンを確認する。

『着いたよ』

 神谷から通知が来た。

 美月は顔を上げた。

 その瞬間だった。

 少し離れたところに、一人の男性が立っていた。

 落ち着いた服装。

 穏やかな表情。

 スマートフォンを見ていたが、美月に気づくと顔を上げた。

 そして、微笑んだ。

「美月さん?」

 声を聞いた瞬間、分かった。

 神谷だった。

 電話で何度も聞いた声。

 毎晩のように聞いていた声。

 なのに――

 目の前にいる。

「……神谷さん」

 美月の声は、思ったより小さかった。

「初めまして」

 神谷がそう言った。

 美月は一瞬、戸惑った。

 毎日話しているのに。

 何でも話しているのに。

 こうして実際に会うと、初対面のようだった。

「……初めまして」

 美月も小さく頭を下げた。

 二人とも少し笑った。

「なんだか不思議ですね」

 美月が言った。

「そうだね」

 神谷も笑った。

「電話では毎日のように話しているのに」

「はい……」

 美月は神谷を見た。

 画面越しに想像していたよりも、ずっと落ち着いた人だった。

 声だけで想像していた人が、目の前にいる。

 それだけなのに、胸がいっぱいになる。

 神谷は美月の手元に目を向けた。

「原稿、持ってきた?」

「はい」

 美月は大事そうに抱えていたファイルを見せた。

「何度も読み返しました」

「そっか」

「でも……10位以下だったので」

「うん」

 そして、穏やかに言った。

「それでも、ここまで描いたことはなくならないよ」

 美月が顔を上げる。

「結果は一つの評価でしかないからね」

「……はい」

「今日は結果を変えるためじゃなくて、次の一歩を探しに来たんだと思えばいい」

 美月は頷いた。

「……神谷さんが一緒なら、心強いです」

 その言葉を聞いた神谷は、一瞬だけ黙った。

 そして、優しく笑った。

「じゃあ、行こうか」

 二人は並んで歩き始めた。

 美月は何度も周囲を気にしていた。

 けれど、不思議だった。

 いつもなら、人の視線ばかり気になって仕方がないのに。

 今日は隣に神谷がいる。

 それだけで、少しだけ周りの景色を見ることができた。

「神谷さん」

「うん?」

「私、頑張ります」

 神谷は美月を見た。

「うん。頑張って」

 そして、少しだけ間を置いてから続けた。

「でも、頑張ることと、無理をすることは違うからね」

 美月は笑った。

「……はい」

 その笑顔を見ながら、神谷はふと思った。

 この子は、自分が思っていたよりずっと強い。

 自分が支えなければ何もできない子ではない。

 ただ、自分の力を信じるきっかけが、まだ少ないだけなのかもしれない。

 そう思った。


 編集部の入っているビルの前まで来ると、美月の足が止まった。

「……ここ?」

「うん」

 大きなガラス張りの建物を見上げる。

 10位以下だった原稿をプロの編集者に見てもらう。

 そう考えただけで、急に手のひらに汗がにじんだ。

「どうしよう……」

「緊張してきた?」

「はい……」

 美月は原稿を抱きしめるように持った。

「何を言われるんでしょう」

「分からないね」

「もし、全然ダメだって言われたら……」

 神谷は少し考えた。

「そのときは、ダメだったところを聞いてみよう」

「……聞く?」

「うん。『何がダメでしたか』って」

「そんなこと、聞けるかな……」

「聞けなくてもいいよ」

 神谷は笑った。

「今日は、美月さんが一歩踏み出した。それだけでも十分だから」

 その言葉に、美月は少しだけ肩の力を抜いた。

「……行ってきます」

「うん。僕はここで待ってるよ」

「え?」

 美月が驚いた顔をする。

「一緒に来てくれないんですか?」

「持ち込みをするのは美月さんだからね」

 神谷は穏やかに言った。

「僕が隣にいたら、編集者さんも美月さんに話しにくいだろう?」

「あ……」

「それに、僕がいることで美月さんが安心しすぎるのも、あまりよくない」

 美月は少し寂しそうに笑った。

「……そうですね」

「大丈夫。終わったらここで待ってるから」

「本当に?」

「うん」

 美月は何度も頷いた。

 そして、エレベーターへ向かった。

 扉が閉まる直前、振り返る。

 神谷はそこに立っていた。

 小さく手を上げる。

 美月も手を振った。

 扉が閉まる。

 一人になった瞬間、美月の心臓が激しく鳴った。

「……大丈夫」

 自分に言い聞かせる。

 神谷さんが待っている。

 そう思うだけで、少し勇気が出た。



 一時間ほどした。

 エレベーターの扉が開いた。

 美月が出てくる。

 その顔を見た瞬間、神谷は立ち上がった。

「どうだった?」

 美月は何も言わなかった。

 ただ、神谷のところまで歩いてくる。

 そして――

「……厳しかったです」

 ぽつりと言った。

「そうか」

「アイデアはいいけどまだまだだって。。」

「うん」

「主人公の気持ちが伝わりにくいって」

 美月の声が少し震えた。

「私……頑張ったのに」

 神谷は黙って聞いていた。

 美月の目に涙が浮かぶ。

「でもね」

 神谷が静かに言った。

「美月さん、今の話を聞いていて、僕は少し嬉しいよ」

「……嬉しい?」

「うん」

「どうして?」

「ちゃんと作品を読んでもらえたんだね」

 美月は目を瞬いた。

「10位以下という結果だけなら、ただダメだったという話で終わる。でも今日は、何が足りないのか教えてもらえた」

「……はい」

「それは次に描くための材料になる」

 美月は黙った。

「悔しい?」

「……悔しいです」

「うん」

「すごく悔しい」

「それでいいと思う」

 神谷は微笑んだ。

「悔しいと思えるくらい、本気で描いたってことだから」

 美月の目から、涙が一粒落ちた。

「……神谷さん」

「うん?」

「私、もう一回書きます」

「うん」

「もっと面白い小説にします」

「うん」

「今度は……1位になるように」

 神谷は笑った。

「それは、僕には約束できないな」

「え?」

「選ばれるかどうかは、僕には決められないから」

 美月は少し驚いた顔をした。

「でも」

 神谷は続けた。

「美月さんが、前よりいい小説を描くことなら応援できる」

 その言葉に、美月は笑った。

「……はい」

 二人はビルを出た。

 東京の街は、相変わらず人でいっぱいだった。

 美月は歩きながら、何度も周囲を気にした。

 けれど、今日は少し違った。

 人の目が怖い。

 それでも歩ける。

 隣に神谷がいる。

 そのことが、美月の背中を押してくれていた。

 しばらく歩いたところで、美月が言った。

「神谷さん」

「うん?」

「今日、会えてよかったです」

 神谷は美月を見る。

「僕もだよ」

 その瞬間、美月の胸が高鳴った。

 電話では何度も聞いた言葉だった。

 なのに、目の前で言われると全然違う。

「……また会いたいです」

 美月はそう言いかけて、口を閉じた。

 けれど神谷には、その言葉の続きが分かったような気がした。

「今日は、少し東京を歩いて帰ろうか」

 神谷が言った。

「はい」

 二人は並んで歩いた。

 その距離は、ほんの少しだった。

 けれど神谷は、そのとき初めて気づいた。

 電話の向こうにいる美月と、目の前を歩いている美月は、同じ人なのに違って見える。

 笑ったときの表情。

 歩く速さ。

 少し緊張すると袖口を触る癖。

 何かを話すときに、ほんの少し首を傾ける仕草。

 そんなものが、一つひとつ目に入ってくる。

 そして――

「……綺麗だな」

 その思いが、一瞬だけ胸をよぎった。

 神谷はすぐに視線を前へ戻した。

 自分の中に生まれたその感情を、見なかったことにはしなかった。

 けれど、追いかけることもしなかった。

 まだ名前をつけるには早い感情だった。

 ただ一つ分かったのは、

 自分はもう、美月の作品だけを見ているわけではない。

 そのことだった。


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