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⑪葛藤

 新幹線が東京駅を出て、ゆっくりと速度を上げていく。

 美月は窓側の席に座ったまま、しばらく外を見ていた。

 東京のビルが流れていく。

 さっきまで神谷と一緒に歩いていた街が、少しずつ遠ざかっていく。

 美月はぼおっとしていた。

 神谷はお土産まで持たせてくれた。

 スマートフォンを手に取る。

 画面には、神谷から届いたばかりのメッセージがあった。

『今日はお疲れさま。気をつけて帰ってね』

 それだけだった。

 美月は何度もその短い文章を読み返した。

(……神谷さん)

 心の中で名前を呟く。

 今日、初めて会った。

 電話では何度も話していた。

 声は知っていた。

 話し方も知っていた。

 笑うときに少しだけ声が低くなることも知っていた。

 けれど――顔を見て話すのは、今日が初めてだった。

 実際に会った神谷は、思っていたよりずっと落ち着いていた。

 そして、優しかった。

 持ち込みの間も、階下で美月を待ってくれていた。

 美月が一人で向き合うべき場所だと分かっていたのだろう。

 戻ってきた美月が泣いてしまったときも、何も急かさなかった。

 ただ隣にいてくれた。

「私……頑張ったのに」

 そう言ったとき。

 神谷は、

「うん。頑張ったね」

 と、静かに言った。

 その言葉を思い出した瞬間、美月の胸が少し熱くなった。

(……ずるいな)

 心の中で呟く。

 結果は散々だった。

 自分には才能がないのかもしれないと思った。

 それでも、今日は嫌な一日ではなかった。

 むしろ――

 会えてよかった。

 そう思っている自分に、美月は少し戸惑った。

 今まで神谷は、スマートフォンの向こう側にいる人だった。

 でも今日からは違う。

 顔を知っている。

 歩いている姿も知っている。

 隣にいるときの体温まで、なんとなく覚えている。

 美月は窓に映った自分の顔を見る。

 頬が少し赤い。

(……私、何考えてるんだろ)

 ふと、今日の神谷の横顔を思い出した。

 街を歩いているとき。

 信号待ちをしていたとき。

 美月が人混みに戸惑っていると、少し歩く速度を落としてくれた。

 何気ないことだった。

 でも、そういう小さなことが妙に心に残っている。

 そして――

 神谷が自分を見ていた瞬間も。

 一瞬だけ、目が合った。

 そのときの神谷の表情を思い出して、美月はドキドキした。

 窓の外を見る。

 もう東京の街並みは見えなくなっていた。

 新幹線は静かに西へ向かっている。

 美月は今日一日のことを、何度も頭の中で繰り返した。

 持ち込みで言われたこと。

 悔しくて泣いたこと。

 神谷に励ましてもらったこと。

 一緒に歩いたこと。

 そして、最後に別れたとき。

『またね』

 そう言われた。

 たった3文字だった。

 なのに。

 その言葉が、今になって胸の奥に残っている。

(……また、会えるのかな)

 けれど、胸の中には小さな期待が残っていた。

 また会いたい。

 そう思ってしまった。

 電話で話すだけではなく。

 もう一度、直接会いたい。

 一緒に歩きたい。

 今日みたいに、隣にいてほしい。

 美月はその気持ちを否定しようとして――やめた。

 今はまだ、ただ「会えて嬉しかった」というだけでいい。

 それ以上の意味を持たせる必要はない。

 神谷には家庭がある。

 そのことは、ちゃんと知っている。

 美月は目を閉じた。

 そして、胸の中で小さく言った。

 ――今日は、嬉しかった。

 それだけでいい。

 新幹線は、静かに夜の街を走っていた。

 会えてよかった。



 翌朝。

 美月は、いつもより少し早く目を覚ました。

 カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。

 まだ眠気の残る頭で、ぼんやり天井を見つめる。

 そして――

 昨日のことを思い出した。

 東京。

 持ち込み。

 編集者との話。

 そしてーーーー神谷。

 美月は布団の中で、枕に顔を埋めた。

(……会ったんだ)

 電話の向こうにいた人に、昨日初めて会った。

 それなのに、ずっと前から知っているような、不思議な感覚だった。

 声を聞けば安心する。

 話をすれば落ち着く。

 でも、実際に会ってみると――

 思っていたより、ずっと近かった。

 歩いているときの横顔。

 話を聞くときの表情。

 自分が泣いたときの、あの優しい声。

 一つ一つが、頭の中に残っている。

 美月は枕から顔を上げた。

(……だめだ)

 そう思った。

 何が「だめ」なのか、自分でもよく分からない。

 ただ、昨日までとは何かが違ってしまった。

 スマートフォンを見る。

 神谷から連絡はまだない。

 美月は画面を見つめる。

 そして、自分でも気づかないうちに少しだけ期待していた。

 ――おはよう。

 いつものように、そう連絡してくれるかもしれない。

 けれど、連絡はまだない。

「……まだ朝だもんね」

 自分に言い聞かせる。

 時計を見る。

 まだ神谷が仕事を始めるには早い時間だった。

 美月はスマートフォンを伏せた。

 けれど、数秒後にはまた手に取っている。

 そして、また伏せる。

(私、何してるんだろ……)

 昨日までは、神谷から連絡が来るのを楽しみにする自分を、なんとなくごまかせていた。

 でも今は違う。

 実際に会ってしまったことで、自分の中にあるものが、少しだけはっきりしてしまった。

 会いたい。

 昨日会ったばかりなのに。

 また会いたい。

 美月はその気持ちに気づいて、胸が苦しくなった。

 神谷には妻がいる。

 子どももいる。

 それを美月は知っている。

 しかも神谷は別に何も悪いことをしていない。

 昨日だって、必要以上に近づいてきたわけではない。

 むしろ、ちゃんと距離を取っていた。

 それなのに。

 美月の心が勝手に近くなってしまったようだ。

(……好きに、なったのかな)

 意識した瞬間、美月は固まった。

 自分で思った言葉なのに、怖くなった。

 慌てて首を振る。

(違う……)

 でも、否定するには心が追い付いていなかった。

 しばらくして、スマートフォンが鳴った。

 美月の心臓が跳ねる。

 画面を見る。

 神谷からだった。

「おはよう。昨日は疲れたでしょう。今日はゆっくりしてね」

「おはようございます。昨日はありがとうございました」

「こちらこそ。美月さんがまた書くって言ってくれたのが嬉しかったよ」

 昨日、編集者から言われたことを思い出す。

 物語の構成。

 主人公の気持ち。

 まだまだ足りない。

 でも、足りないなら書けばいい。

 美月はベッドから起き上がった。

 机の前に座る。

 昨日までとは、少し違う気持ちだった。

 神谷に褒めてもらうためではない。

 神谷に「頑張ったね」と言ってもらうためでもない。

 昨日、自分自身で「もう一回書きます」と言った。

 だから――

 書こう」

 美月はPCに向かった。

 そのとき、ふと昨日の神谷の顔が浮かんだ。

 また会いたい。

 その気持ちは、まだ消えない。

 けれど今は、その気持ちを胸の奥にそっとしまった。

 そして

「次は……もっと面白い小説にする」

 そう決心して、美月は書き始めた。


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