⑫神谷の気遣い
「最近、着る服がなくなっちゃって……」
その日の夜、いつものように電話で話していた美月が、困ったように笑った。
「前に着ていた服が、なんだかきつくなってしまって。少し太っちゃったみたいです」
神谷は、すぐには答えなかった。
美月は自分の体型を気にしているのだろう。明るく話してはいるけれど、その声の奥には、ほんの少しの恥ずかしさが混じっていた。
「そうなんだ」
神谷は、いつもと変わらない穏やかな声で答えた。
「だから最近、家にいるときは同じ服ばかり着てるんです。新しい服を買いたいけど、何を着たらいいかも分からないし……」
「美月さんは、どんな服が好きなの?」
「えっ?」
美月は少し驚いた。
「どんな服って……」
「普段、どんな服を着たいと思っているのかなって」
美月は少し考えてから答えた。
「かわいい服が好きです。でも、あんまり高いものは買えないし。私には似合わないかなって思うこともあるし……」
「かわいい服が好きなんだね」
「はい。でも、今は体型も変わっちゃったから」
美月は、また困ったように笑った。
神谷は、その笑い方が少し気になった。
太ってしまったことそのものよりも、好きな服を着ることまで諦めようとしているのが、もったいないと思った。
「体型が変わったからって、好きな服を諦めなくてもいいんじゃないかな」
「……そうですか?」
「うん。今の美月さんに合う服を探せばいいんだよ」
神谷は、それ以上、体型について何かを言うことはしなかった。
痩せたほうがいいとも、気にする必要はないとも言わなかった。
美月が自分の体をどう感じているのかは、美月自身の問題だ。
ただ、好きなものまで手放してほしくはなかった。
その夜、電話を切ったあと、神谷は少し考えた。
美月に似合いそうな服を贈ったら、喜んでくれるだろうか。
以前、ジェラート ピケのルームウェアを贈ったとき、美月は本当に嬉しそうだった。
自分が選んだものを、あんなに喜んでくれた。
けれど、今度はサイズが問題になる。
せっかく贈っても、着られなかったら残念だ。
神谷は、いくつかのブランドを見比べながら、美月が好きそうなデザインを探した。
そして、ある小さなブランドのジャンパースカートに目が留まった。
派手すぎず、けれど地味でもない。
シルエットがきれいで、どこか柔らかい雰囲気がある。
一着は落ち着いた色合い。
もう一着は、少し明るく、かわいらしい印象のものだった。
どちらも、以前、美月が好きだと話していた小説の世界観に、どこか通じるものがあった。
「……美月さん、こういうのが好きそうだな」
神谷は、二着を選んだ。
フリーサイズであることも確認した。
もちろん、フリーサイズだからといって、誰にでも必ず合うわけではない。それでも、デザインとサイズの両方を考えたうえで、今の美月が着やすそうなものを選んだつもりだった。
数日後。
美月のもとに、荷物が届いた。
送り主の名前を見た瞬間、美月は目を丸くした。
「……神谷さん?」
何か頼んだ覚えはない。
不思議に思いながら箱を開けると、丁寧に包まれた衣類が入っていた。
一着目を取り出す。
「えっ……かわいい!」
思わず声が出た。
次に、もう一着。
「うそ……こっちもかわいい……」
美月は、二着を並べて眺めた。
どちらも、自分の好みにぴったりだった。
かわいらしいけれど、子どもっぽくはない。
上品なのに、気取りすぎてもいない。
まさに、こんな服が欲しかったと思えるデザインだった。
タグを見て、少し驚く。
有名な高級ブランドというわけではないけれど、若い女性に人気のある、かわいらしい服を扱う小さなブランドだった。
美月が以前、インターネットで見かけて、いいなと思っていたブランドでもあった。
けれど、値段を見て、買うのを諦めたことがある。
美月は二着を抱えたまま、しばらく動けなかった。
自分が好きそうな服を選んでくれたこと。
しかも、一着ではなく二着も。
神谷は、どうしてこんなに自分の好みを分かってくれるのだろう。
嬉しかった。
嬉しかったけれど、同時に、少し不思議でもあった。
美月は、すぐにスマートフォンを手に取った。
『神谷さん、今、お電話してもいいですか?』
ほどなくして、神谷から電話がかかってきた。
「もしもし、美月さん?」
「神谷さん! あの、荷物が届きました!」
声が弾んでいるのが、自分でも分かった。
「届いたんだね」
「はい! ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
「そんなに喜んでもらえたなら、よかった」
神谷の声も、どこか嬉しそうだった。
「でも、どうして二着も……。それに、これ、私が好きそうな服ばかりで……!」
「美月さんが好きそうだなと思って選んだんだ」
「すごくかわいいです。私、こういう服、本当に好きなんです!」
「それなら、よかった」
神谷は、少し間を置いてから続けた。
「サイズも気になっていたんだけど、フリーサイズだったから、着られるんじゃないかなと思って」
その言葉に、美月は一瞬、黙った。
着られるんじゃないかな。
神谷は、きっと何気なく言ったのだろう。
美月が体型を気にしていることを知っていて、少しでも着やすそうなものを選んでくれたのだ。
それが分かったからこそ、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……着られるといいな」
美月は、小さな声で言った。
「うん。もしサイズが合わなかったら、無理して着なくていいからね。服に体を合わせなきゃいけないわけじゃないんだから」
「……はい」
「美月さんが気に入ってくれたことが、僕は一番嬉しいよ」
美月は、手元にある二着のジャンパースカートを見つめた。
自分が太ってしまったと話したとき、神谷は笑わなかった。
体型のことをあれこれ言うこともなかった。
ただ、どんな服が好きなのかを聞いてくれた。
そして、自分の好みに合う服を選んでくれた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
「神谷さん……本当にありがとうございます。大切にします」
「ありがとう。でも、できれば大切にしまっておくんじゃなくて、たくさん着てほしいな」
「えっ?」
「せっかく美月さんに似合いそうだと思って選んだんだから。着てもらえたら、僕も嬉しいよ」
美月は、思わず笑った。
「はい。いっぱい着ます」
「うん」
電話を切ったあと、美月はさっそく一着を手に取った。
鏡の前で、そっと体に当ててみる。
かわいい。
本当に、自分の好きな服だった。
けれど、実際に着られるかどうかは、まだ分からない。
美月は少し緊張しながら、着替えてみた。
そして、鏡の前に立った。
「……あ」
思っていたより、ずっと自然だった。
もちろん、以前の自分と体型は変わっている。
それでも、服はちゃんと自分の体に沿っていた。
美月は横を向いたり、少し回ってみたりした。
鏡の中の自分を、いつもより長く見つめる。
「……かわいい」
小さく呟いた。
自分のことを、少しだけ好きになれた気がした。
美月はスマートフォンを手に取り、鏡に映った姿を写真に撮った。
神谷に送ろうか。
そう思って、指が止まる。
こんな写真を送ったら、困らせてしまうだろうか。
少し考えたあと、服全体が分かるように撮った写真を一枚だけ送った。
『神谷さん、着られました! すごくかわいいです。本当にありがとうございます!』
送信してから、美月はどきどきしながら画面を見つめた。
やがて、返信が届いた。
『よかった。とても似合っているね』
美月は、何度もその言葉を読み返した。
そして、鏡の中の自分をもう一度見た。
神谷が選んでくれた服。
神谷が、似合うと思ってくれた服。
それを着た自分。
胸の中に、温かなものが広がっていく。
誰かにかわいいと思ってもらえることが、こんなに嬉しいなんて。
美月は、ジャンパースカートの裾をそっとつまんだ。
(……神谷さんに、会いたいな)
そう思って、はっとした。
そして、その気持ちを胸の奥にしまうように、思った。
(……今度、これを着て出かけよう)
神谷に会うためではなく。
自分が好きな服を着て、自分の足で外へ出るために。
そう思おうとした。
けれど、心のどこかでは、いつかまた神谷に会えたとき、この服を着ていたら、どんな顔をしてくれるだろうと考えていた。
ジャンパースカートを着るようになってから、美月は以前より少しだけ外に出るのが楽しみになった。
鏡を見るたびに、神谷が選んでくれた服だと思う。
そのたびに、あの日のやりとりを思い出す。
『とても似合っているね』
たったそれだけの言葉なのに、美月は何度も嬉しくなった。
そして、いつからか考えるようになっていた。
また、神谷に会いたい。
電話で話すだけではなく、直接会いたい。
隣を歩いて、同じものを見て、同じ時間を過ごしたい。
東京で初めて会った日のことを思い出す。
持ち込みの結果は厳しかったけれど、神谷と一緒に歩いた時間は、忘れられない思い出になっていた。
もちろん、神谷には家庭がある。
妻も、幼い子どももいる。
だから、会いたいという気持ちを、そのまま口にすることにはためらいがあった。
けれど、ある日、美月は思い切って電話で切り出した。
「神谷さん、私、また東京に持ち込みに行こうと思うんです」
「そうなんだ。いいと思うよ。前回、編集者の方からいろいろ教えてもらえたんだよね」
「はい。あのとき言われたことを考えて、もう一度描き直してみたんです」
「うん」
神谷の声が、少し弾んだ。
「美月さんが、自分で次に進もうとしているのが嬉しいよ」
その言葉を聞いて、美月は勇気を出した。
「あの……もし、ご都合がよかったらなんですけど」
「うん?」
「また、会ってもらえませんか?」
言ってしまった。
電話の向こうが、ほんの少し静かになった気がした。
美月は慌てて付け加えた。
「もちろん、お忙しかったら大丈夫です! 持ち込みが終わる時間も分からないですし……」
「美月さん」
神谷が、穏やかに呼んだ。
「日程が分かったら教えてくれるかな。僕の予定も確認してみるよ」
「……はい!」
嬉しさが声に出てしまった。
電話を切ったあと、美月はスマートフォンを胸に抱いた。
また会えるかもしれない。
そのことだけで、次の原稿を描くのが楽しみになった。
持ち込みの日程を決めると、美月は神谷に連絡した。
神谷も都合を調整してくれ、二人は東京で会う約束をした。
美月は、せっかく東京まで行くのだから、一泊することにした。
持ち込みの時間が延びる可能性もあるし、神谷と会える時間も、少しは長くなるかもしれない。
本当は、そのことが一番嬉しかった。
けれど、美月には大きな問題があった。
お金がない。
交通費だけでも負担になる。
宿泊費はできるだけ安く抑えたかった。
インターネットで探し、ようやく手頃なゲストルームを見つけた。
ところが、予約を済ませて詳細を確認していたとき、美月はあることに気づいた。
個室ではあるけれど、部屋に鍵がついていないらしい。
「……え?」
何度も説明を読み返す。
共用スペースがあり、個室の扉には鍵がない。
宿泊者は自分以外にもいる。男性客もいるだろう。
鍵がない部屋で一晩過ごすことには不安があった。
どうしよう。
キャンセルして、別の場所を探そうか。
けれど、鍵のあるホテルは高い。
悩んだ末、美月は神谷に相談することにした。
「神谷さん、ちょっと相談してもいいですか?」
「どうしたの?」
美月は予約したゲストルームについて説明した。
「すごく安かったので予約したんですけど、部屋に鍵がないみたいなんです。今になって気づいて……。でも、ほかのホテルは高くて」
神谷の声が、少しだけ低くなった。
「鍵がないの?」
「はい。個室ではあるんですけど……」
「美月さん、それはやめておこう」
いつも穏やかな神谷が、珍しくはっきりと言った。
「えっ?」
「女性が一人で泊まるんでしょう。鍵がかからない部屋は、やっぱり心配だよ。何かあってからでは遅いからね」
「でも、ホテルって高いじゃないですか……」
「うん。だから悩んでいるんだよね」
神谷は、美月の事情を否定しなかった。
お金に余裕がないことも、できるだけ節約したいことも分かっている。
それでも、安全を犠牲にしてほしくはなかった。
「少し待っていてくれる?」
「はい?」
「僕が、鍵のかかるビジネスホテルを探してみるよ」
「えっ、でも……」
「美月さんが一人で安心して休める場所を確保することは、大事だからね」
しばらくして、神谷から連絡があった。
手頃な料金のビジネスホテルを見つけ、予約してくれたという。
美月は驚いた。
「神谷さん、ホテルまで取ってくれたんですか?」
「うん。もちろん、僕が勝手に決めた場所だから、気になることがあれば遠慮なく言ってね」
「でも、そんな……」
「安全に泊まれる場所が見つかった。それでいいんじゃないかな」
神谷は、そこで少し笑った。
「その代わり、ちゃんと鍵をかけて寝ること。知らない人を部屋に入れないこと。約束できる?」
「……はい」
「よし。それなら安心だ」
美月は、電話を切ってからもしばらく画面を見つめていた。
どうして、こんなに優しいのだろう。
そう思う一方で、神谷に頼りすぎているのではないかという気持ちもあった。
それでも今は、素直に嬉しかった。
東京に行くのが、ますます楽しみになった。
持ち込み当日。
美月は出版社の受付で名前を告げ、担当者との面談に臨んだ。
前回よりも、落ち着いて話せた。
もちろん緊張はしていた。
自分の書いた小説を読んでもらうのは、いつだって怖い。
けれど、今回は作品の構成を見直し、主人公の気持ちが伝わるように何度も書き直してきた。
編集者は原稿を読み終えると、しばらく考えてから言った。
「前回より、かなりよくなっていますね」
美月は顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。まだ改善できるところはあります。ただ、主人公が何を考えていて、何に傷ついているのかが、前より伝わってきます」
その言葉を聞いた瞬間、美月の胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます……!」
「今後も作品を見ていきたいと思っています。担当として、次の作品についても相談しながら進めていきませんか」
美月は、すぐには返事ができなかった。
担当。
自分に、担当編集者がつく。
ずっと憧れていたことだった。
「……はい! お願いします!」
頭を下げたとき、目の奥が熱くなった。
出版社を出ると、美月は真っ先にスマートフォンを取り出した。
神谷に伝えたい。
早く、伝えたい。
けれど、待ち合わせの時間までは、まだ少しあった。
美月は何度も時計を確認した。
嬉しい。
自分の作品を、ちゃんと見てくれる人がいた。
まだ何者でもない自分の作品を、これからも読んでくれる人がいる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
そして、もう一つ。
この喜びを、神谷と分かち合いたかった。
「最近、着る服がなくなっちゃって……」
その日の夜、いつものように電話で話していた美月が、困ったように笑った。
「前に着ていた服が、なんだかきつくなってしまって。少し太っちゃったみたいです」
神谷は、すぐには答えなかった。
美月は自分の体型を気にしているのだろう。明るく話してはいるけれど、その声の奥には、ほんの少しの恥ずかしさが混じっていた。
「そうなんだ」
神谷は、いつもと変わらない穏やかな声で答えた。
「だから最近、家にいるときは同じ服ばかり着てるんです。新しい服を買いたいけど、何を着たらいいかも分からないし……」
「美月さんは、どんな服が好きなの?」
「えっ?」
美月は少し驚いた。
「どんな服って……」
「普段、どんな服を着たいと思っているのかなって」
美月は少し考えてから答えた。
「かわいい服が好きです。でも、あんまり高いものは買えないし。私には似合わないかなって思うこともあるし……」
「かわいい服が好きなんだね」
「はい。でも、今は体型も変わっちゃったから」
美月は、また困ったように笑った。
神谷は、その笑い方が少し気になった。
太ってしまったことそのものよりも、好きな服を着ることまで諦めようとしているのが、もったいないと思った。
「体型が変わったからって、好きな服を諦めなくてもいいんじゃないかな」
「……そうですか?」
「うん。今の美月さんに合う服を探せばいいんだよ」
神谷は、それ以上、体型について何かを言うことはしなかった。
痩せたほうがいいとも、気にする必要はないとも言わなかった。
美月が自分の体をどう感じているのかは、美月自身の問題だ。
ただ、好きなものまで手放してほしくはなかった。
その夜、電話を切ったあと、神谷は少し考えた。
美月に似合いそうな服を贈ったら、喜んでくれるだろうか。
以前、ジェラート ピケのルームウェアを贈ったとき、美月は本当に嬉しそうだった。
自分が選んだものを、あんなに喜んでくれた。
けれど、今度はサイズが問題になる。
せっかく贈っても、着られなかったら残念だ。
神谷は、いくつかのブランドを見比べながら、美月が好きそうなデザインを探した。
そして、ある小さなブランドのジャンパースカートに目が留まった。
派手すぎず、けれど地味でもない。
シルエットがきれいで、どこか柔らかい雰囲気がある。
一着は落ち着いた色合い。
もう一着は、少し明るく、かわいらしい印象のものだった。
どちらも、以前、美月が好きだと話していた小説の世界観に、どこか通じるものがあった。
「……美月さん、こういうのが好きそうだな」
神谷は、二着を選んだ。
フリーサイズであることも確認した。
もちろん、フリーサイズだからといって、誰にでも必ず合うわけではない。それでも、デザインとサイズの両方を考えたうえで、今の美月が着やすそうなものを選んだつもりだった。
数日後。
美月のもとに、荷物が届いた。
送り主の名前を見た瞬間、美月は目を丸くした。
「……神谷さん?」
何か頼んだ覚えはない。
不思議に思いながら箱を開けると、丁寧に包まれた衣類が入っていた。
一着目を取り出す。
「えっ……かわいい!」
思わず声が出た。
次に、もう一着。
「うそ……こっちもかわいい……」
美月は、二着を並べて眺めた。
どちらも、自分の好みにぴったりだった。
かわいらしいけれど、子どもっぽくはない。
上品なのに、気取りすぎてもいない。
まさに、こんな服が欲しかったと思えるデザインだった。
タグを見て、少し驚く。
有名な高級ブランドというわけではないけれど、若い女性に人気のある、かわいらしい服を扱う小さなブランドだった。
美月が以前、インターネットで見かけて、いいなと思っていたブランドでもあった。
けれど、値段を見て、買うのを諦めたことがある。
美月は二着を抱えたまま、しばらく動けなかった。
自分が好きそうな服を選んでくれたこと。
しかも、一着ではなく二着も。
神谷は、どうしてこんなに自分の好みを分かってくれるのだろう。
嬉しかった。
嬉しかったけれど、同時に、少し不思議でもあった。
美月は、すぐにスマートフォンを手に取った。
『神谷さん、今、お電話してもいいですか?』
ほどなくして、神谷から電話がかかってきた。
「もしもし、美月さん?」
「神谷さん! あの、荷物が届きました!」
声が弾んでいるのが、自分でも分かった。
「届いたんだね」
「はい! ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
「そんなに喜んでもらえたなら、よかった」
神谷の声も、どこか嬉しそうだった。
「でも、どうして二着も……。それに、これ、私が好きそうな服ばかりで……!」
「美月さんが好きそうだなと思って選んだんだ」
「すごくかわいいです。私、こういう服、本当に好きなんです!」
「それなら、よかった」
神谷は、少し間を置いてから続けた。
「サイズも気になっていたんだけど、フリーサイズだったから、着られるんじゃないかなと思って」
その言葉に、美月は一瞬、黙った。
着られるんじゃないかな。
神谷は、きっと何気なく言ったのだろう。
美月が体型を気にしていることを知っていて、少しでも着やすそうなものを選んでくれたのだ。
それが分かったからこそ、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……着られるといいな」
美月は、小さな声で言った。
「うん。もしサイズが合わなかったら、無理して着なくていいからね。服に体を合わせなきゃいけないわけじゃないんだから」
「……はい」
「美月さんが気に入ってくれたことが、僕は一番嬉しいよ」
美月は、手元にある二着のジャンパースカートを見つめた。
自分が太ってしまったと話したとき、神谷は笑わなかった。
体型のことをあれこれ言うこともなかった。
ただ、どんな服が好きなのかを聞いてくれた。
そして、自分の好みに合う服を選んでくれた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
「神谷さん……本当にありがとうございます。大切にします」
「ありがとう。でも、できれば大切にしまっておくんじゃなくて、たくさん着てほしいな」
「えっ?」
「せっかく美月さんに似合いそうだと思って選んだんだから。着てもらえたら、僕も嬉しいよ」
美月は、思わず笑った。
「はい。いっぱい着ます」
「うん」
電話を切ったあと、美月はさっそく一着を手に取った。
鏡の前で、そっと体に当ててみる。
かわいい。
本当に、自分の好きな服だった。
けれど、実際に着られるかどうかは、まだ分からない。
美月は少し緊張しながら、着替えてみた。
そして、鏡の前に立った。
「……あ」
思っていたより、ずっと自然だった。
もちろん、以前の自分と体型は変わっている。
それでも、服はちゃんと自分の体に沿っていた。
美月は横を向いたり、少し回ってみたりした。
鏡の中の自分を、いつもより長く見つめる。
「……かわいい」
小さく呟いた。
自分のことを、少しだけ好きになれた気がした。
美月はスマートフォンを手に取り、鏡に映った姿を写真に撮った。
神谷に送ろうか。
そう思って、指が止まる。
こんな写真を送ったら、困らせてしまうだろうか。
少し考えたあと、服全体が分かるように撮った写真を一枚だけ送った。
『神谷さん、着られました! すごくかわいいです。本当にありがとうございます!』
送信してから、美月はどきどきしながら画面を見つめた。
やがて、返信が届いた。
『よかった。とても似合っているね』
美月は、何度もその言葉を読み返した。
そして、鏡の中の自分をもう一度見た。
神谷が選んでくれた服。
神谷が、似合うと思ってくれた服。
それを着た自分。
胸の中に、温かなものが広がっていく。
誰かにかわいいと思ってもらえることが、こんなに嬉しいなんて。
美月は、ジャンパースカートの裾をそっとつまんだ。
(……神谷さんに、会いたいな)
そう思って、はっとした。
そして、その気持ちを胸の奥にしまうように、思った。
(……今度、これを着て出かけよう)
神谷に会うためではなく。
自分が好きな服を着て、自分の足で外へ出るために。
そう思おうとした。
けれど、心のどこかでは、いつかまた神谷に会えたとき、この服を着ていたら、どんな顔をしてくれるだろうと考えていた。
ジャンパースカートを着るようになってから、美月は以前より少しだけ外に出るのが楽しみになった。
鏡を見るたびに、神谷が選んでくれた服だと思う。
そのたびに、あの日のやりとりを思い出す。
『とても似合っているね』
たったそれだけの言葉なのに、美月は何度も嬉しくなった。
そして、いつからか考えるようになっていた。
また、神谷に会いたい。
電話で話すだけではなく、直接会いたい。
隣を歩いて、同じものを見て、同じ時間を過ごしたい。
東京で初めて会った日のことを思い出す。
持ち込みの結果は厳しかったけれど、神谷と一緒に歩いた時間は、忘れられない思い出になっていた。
もちろん、神谷には家庭がある。
妻も、幼い子どももいる。
だから、会いたいという気持ちを、そのまま口にすることにはためらいがあった。
けれど、ある日、美月は思い切って電話で切り出した。
「神谷さん、私、また東京に持ち込みに行こうと思うんです」
「そうなんだ。いいと思うよ。前回、編集者の方からいろいろ教えてもらえたんだよね」
「はい。あのとき言われたことを考えて、もう一度描き直してみたんです」
「うん」
神谷の声が、少し弾んだ。
「美月さんが、自分で次に進もうとしているのが嬉しいよ」
その言葉を聞いて、美月は勇気を出した。
「あの……もし、ご都合がよかったらなんですけど」
「うん?」
「また、会ってもらえませんか?」
言ってしまった。
電話の向こうが、ほんの少し静かになった気がした。
美月は慌てて付け加えた。
「もちろん、お忙しかったら大丈夫です! 持ち込みが終わる時間も分からないですし……」
「美月さん」
神谷が、穏やかに呼んだ。
「日程が分かったら教えてくれるかな。僕の予定も確認してみるよ」
「……はい!」
嬉しさが声に出てしまった。
電話を切ったあと、美月はスマートフォンを胸に抱いた。
また会えるかもしれない。
そのことだけで、次の原稿を描くのが楽しみになった。
持ち込みの日程を決めると、美月は神谷に連絡した。
神谷も都合を調整してくれ、二人は東京で会う約束をした。
美月は、せっかく東京まで行くのだから、一泊することにした。
持ち込みの時間が延びる可能性もあるし、神谷と会える時間も、少しは長くなるかもしれない。
本当は、そのことが一番嬉しかった。
けれど、美月には大きな問題があった。
お金がない。
交通費だけでも負担になる。
宿泊費はできるだけ安く抑えたかった。
インターネットで探し、ようやく手頃なゲストルームを見つけた。
ところが、予約を済ませて詳細を確認していたとき、美月はあることに気づいた。
個室ではあるけれど、部屋に鍵がついていないらしい。
「……え?」
何度も説明を読み返す。
共用スペースがあり、個室の扉には鍵がない。
宿泊者は自分以外にもいる。男性客もいるだろう。
鍵がない部屋で一晩過ごすことには不安があった。
どうしよう。
キャンセルして、別の場所を探そうか。
けれど、鍵のあるホテルは高い。
悩んだ末、美月は神谷に相談することにした。
「神谷さん、ちょっと相談してもいいですか?」
「どうしたの?」
美月は予約したゲストルームについて説明した。
「すごく安かったので予約したんですけど、部屋に鍵がないみたいなんです。今になって気づいて……。でも、ほかのホテルは高くて」
神谷の声が、少しだけ低くなった。
「鍵がないの?」
「はい。個室ではあるんですけど……」
「美月さん、それはやめておこう」
いつも穏やかな神谷が、珍しくはっきりと言った。
「えっ?」
「女性が一人で泊まるんでしょう。鍵がかからない部屋は、やっぱり心配だよ。何かあってからでは遅いからね」
「でも、ホテルって高いじゃないですか……」
「うん。だから悩んでいるんだよね」
神谷は、美月の事情を否定しなかった。
お金に余裕がないことも、できるだけ節約したいことも分かっている。
それでも、安全を犠牲にしてほしくはなかった。
「少し待っていてくれる?」
「はい?」
「僕が、鍵のかかるビジネスホテルを探してみるよ」
「えっ、でも……」
「美月さんが一人で安心して休める場所を確保することは、大事だからね」
しばらくして、神谷から連絡があった。
手頃な料金のビジネスホテルを見つけ、予約してくれたという。
美月は驚いた。
「神谷さん、ホテルまで取ってくれたんですか?」
「うん。もちろん、僕が勝手に決めた場所だから、気になることがあれば遠慮なく言ってね」
「でも、そんな……」
「安全に泊まれる場所が見つかった。それでいいんじゃないかな」
神谷は、そこで少し笑った。
「その代わり、ちゃんと鍵をかけて寝ること。知らない人を部屋に入れないこと。約束できる?」
「……はい」
「よし。それなら安心だ」
美月は、電話を切ってからもしばらく画面を見つめていた。
どうして、こんなに優しいのだろう。
そう思う一方で、神谷に頼りすぎているのではないかという気持ちもあった。
それでも今は、素直に嬉しかった。
東京に行くのが、ますます楽しみになった。
持ち込み当日。
美月は出版社の受付で名前を告げ、担当者との面談に臨んだ。
前回よりも、落ち着いて話せた。
もちろん緊張はしていた。
自分の書いた小説を読んでもらうのは、いつだって怖い。
けれど、今回は作品の構成を見直し、主人公の気持ちが伝わるように何度も書き直してきた。
編集者は原稿を読み終えると、しばらく考えてから言った。
「前回より、かなりよくなっていますね」
美月は顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。まだ改善できるところはあります。ただ、主人公が何を考えていて、何に傷ついているのかが、前より伝わってきます」
その言葉を聞いた瞬間、美月の胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます……!」
「今後も作品を見ていきたいと思っています。担当として、次の作品についても相談しながら進めていきませんか」
美月は、すぐには返事ができなかった。
担当。
自分に、担当編集者がつく。
ずっと憧れていたことだった。
「……はい! お願いします!」
頭を下げたとき、目の奥が熱くなった。
出版社を出ると、美月は真っ先にスマートフォンを取り出した。
神谷に伝えたい。
早く、伝えたい。
けれど、待ち合わせの時間までは、まだ少しあった。
美月は何度も時計を確認した。
嬉しい。
自分の作品を、ちゃんと見てくれる人がいた。
まだ何者でもない自分の作品を、これからも読んでくれる人がいる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
そして、もう一つ。
この喜びを、神谷と分かち合いたかった。
「最近、着る服がなくなっちゃって……」
その日の夜、いつものように電話で話していた美月が、困ったように笑った。
「前に着ていた服が、なんだかきつくなってしまって。少し太っちゃったみたいです」
神谷は、すぐには答えなかった。
美月は自分の体型を気にしているのだろう。明るく話してはいるけれど、その声の奥には、ほんの少しの恥ずかしさが混じっていた。
「そうなんだ」
神谷は、いつもと変わらない穏やかな声で答えた。
「だから最近、家にいるときは同じ服ばかり着てるんです。新しい服を買いたいけど、何を着たらいいかも分からないし……」
「美月さんは、どんな服が好きなの?」
「えっ?」
美月は少し驚いた。
「どんな服って……」
「普段、どんな服を着たいと思っているのかなって」
美月は少し考えてから答えた。
「かわいい服が好きです。でも、あんまり高いものは買えないし。私には似合わないかなって思うこともあるし……」
「かわいい服が好きなんだね」
「はい。でも、今は体型も変わっちゃったから」
美月は、また困ったように笑った。
神谷は、その笑い方が少し気になった。
太ってしまったことそのものよりも、好きな服を着ることまで諦めようとしているのが、もったいないと思った。
「体型が変わったからって、好きな服を諦めなくてもいいんじゃないかな」
「……そうですか?」
「うん。今の美月さんに合う服を探せばいいんだよ」
神谷は、それ以上、体型について何かを言うことはしなかった。
痩せたほうがいいとも、気にする必要はないとも言わなかった。
美月が自分の体をどう感じているのかは、美月自身の問題だ。
ただ、好きなものまで手放してほしくはなかった。
その夜、電話を切ったあと、神谷は少し考えた。
美月に似合いそうな服を贈ったら、喜んでくれるだろうか。
以前、ジェラート ピケのルームウェアを贈ったとき、美月は本当に嬉しそうだった。
自分が選んだものを、あんなに喜んでくれた。
けれど、今度はサイズが問題になる。
せっかく贈っても、着られなかったら残念だ。
神谷は、いくつかのブランドを見比べながら、美月が好きそうなデザインを探した。
そして、ある小さなブランドのジャンパースカートに目が留まった。
派手すぎず、けれど地味でもない。
シルエットがきれいで、どこか柔らかい雰囲気がある。
一着は落ち着いた色合い。
もう一着は、少し明るく、かわいらしい印象のものだった。
どちらも、以前、美月が好きだと話していた小説の世界観に、どこか通じるものがあった。
「……美月さん、こういうのが好きそうだな」
神谷は、二着を選んだ。
フリーサイズであることも確認した。
もちろん、フリーサイズだからといって、誰にでも必ず合うわけではない。それでも、デザインとサイズの両方を考えたうえで、今の美月が着やすそうなものを選んだつもりだった。
数日後。
美月のもとに、荷物が届いた。
送り主の名前を見た瞬間、美月は目を丸くした。
「……神谷さん?」
何か頼んだ覚えはない。
不思議に思いながら箱を開けると、丁寧に包まれた衣類が入っていた。
一着目を取り出す。
「えっ……かわいい!」
思わず声が出た。
次に、もう一着。
「うそ……こっちもかわいい……」
美月は、二着を並べて眺めた。
どちらも、自分の好みにぴったりだった。
かわいらしいけれど、子どもっぽくはない。
上品なのに、気取りすぎてもいない。
まさに、こんな服が欲しかったと思えるデザインだった。
タグを見て、少し驚く。
有名な高級ブランドというわけではないけれど、若い女性に人気のある、かわいらしい服を扱う小さなブランドだった。
美月が以前、インターネットで見かけて、いいなと思っていたブランドでもあった。
けれど、値段を見て、買うのを諦めたことがある。
美月は二着を抱えたまま、しばらく動けなかった。
自分が好きそうな服を選んでくれたこと。
しかも、一着ではなく二着も。
神谷は、どうしてこんなに自分の好みを分かってくれるのだろう。
嬉しかった。
嬉しかったけれど、同時に、少し不思議でもあった。
美月は、すぐにスマートフォンを手に取った。
『神谷さん、今、お電話してもいいですか?』
ほどなくして、神谷から電話がかかってきた。
「もしもし、美月さん?」
「神谷さん! あの、荷物が届きました!」
声が弾んでいるのが、自分でも分かった。
「届いたんだね」
「はい! ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」
「そんなに喜んでもらえたなら、よかった」
神谷の声も、どこか嬉しそうだった。
「でも、どうして二着も……。それに、これ、私が好きそうな服ばかりで……!」
「美月さんが好きそうだなと思って選んだんだ」
「すごくかわいいです。私、こういう服、本当に好きなんです!」
「それなら、よかった」
神谷は、少し間を置いてから続けた。
「サイズも気になっていたんだけど、フリーサイズだったから、着られるんじゃないかなと思って」
その言葉に、美月は一瞬、黙った。
着られるんじゃないかな。
神谷は、きっと何気なく言ったのだろう。
美月が体型を気にしていることを知っていて、少しでも着やすそうなものを選んでくれたのだ。
それが分かったからこそ、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……着られるといいな」
美月は、小さな声で言った。
「うん。もしサイズが合わなかったら、無理して着なくていいからね。服に体を合わせなきゃいけないわけじゃないんだから」
「……はい」
「美月さんが気に入ってくれたことが、僕は一番嬉しいよ」
美月は、手元にある二着のジャンパースカートを見つめた。
自分が太ってしまったと話したとき、神谷は笑わなかった。
体型のことをあれこれ言うこともなかった。
ただ、どんな服が好きなのかを聞いてくれた。
そして、自分の好みに合う服を選んでくれた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
「神谷さん……本当にありがとうございます。大切にします」
「ありがとう。でも、できれば大切にしまっておくんじゃなくて、たくさん着てほしいな」
「えっ?」
「せっかく美月さんに似合いそうだと思って選んだんだから。着てもらえたら、僕も嬉しいよ」
美月は、思わず笑った。
「はい。いっぱい着ます」
「うん」
電話を切ったあと、美月はさっそく一着を手に取った。
鏡の前で、そっと体に当ててみる。
かわいい。
本当に、自分の好きな服だった。
けれど、実際に着られるかどうかは、まだ分からない。
美月は少し緊張しながら、着替えてみた。
そして、鏡の前に立った。
「……あ」
思っていたより、ずっと自然だった。
もちろん、以前の自分と体型は変わっている。
それでも、服はちゃんと自分の体に沿っていた。
美月は横を向いたり、少し回ってみたりした。
鏡の中の自分を、いつもより長く見つめる。
「……かわいい」
小さく呟いた。
自分のことを、少しだけ好きになれた気がした。
美月はスマートフォンを手に取り、鏡に映った姿を写真に撮った。
神谷に送ろうか。
そう思って、指が止まる。
こんな写真を送ったら、困らせてしまうだろうか。
少し考えたあと、服全体が分かるように撮った写真を一枚だけ送った。
『神谷さん、着られました! すごくかわいいです。本当にありがとうございます!』
送信してから、美月はどきどきしながら画面を見つめた。
やがて、返信が届いた。
『よかった。とても似合っているね』
美月は、何度もその言葉を読み返した。
そして、鏡の中の自分をもう一度見た。
神谷が選んでくれた服。
神谷が、似合うと思ってくれた服。
それを着た自分。
胸の中に、温かなものが広がっていく。
誰かにかわいいと思ってもらえることが、こんなに嬉しいなんて。
美月は、ジャンパースカートの裾をそっとつまんだ。
(……神谷さんに、会いたいな)
そう思って、はっとした。
そして、その気持ちを胸の奥にしまうように、思った。
(……今度、これを着て出かけよう)
神谷に会うためではなく。
自分が好きな服を着て、自分の足で外へ出るために。
そう思おうとした。
けれど、心のどこかでは、いつかまた神谷に会えたとき、この服を着ていたら、どんな顔をしてくれるだろうと考えていた。
ジャンパースカートを着るようになってから、美月は以前より少しだけ外に出るのが楽しみになった。
鏡を見るたびに、神谷が選んでくれた服だと思う。
そのたびに、あの日のやりとりを思い出す。
『とても似合っているね』
たったそれだけの言葉なのに、美月は何度も嬉しくなった。
そして、いつからか考えるようになっていた。
また、神谷に会いたい。
電話で話すだけではなく、直接会いたい。
隣を歩いて、同じものを見て、同じ時間を過ごしたい。
東京で初めて会った日のことを思い出す。
持ち込みの結果は厳しかったけれど、神谷と一緒に歩いた時間は、忘れられない思い出になっていた。
もちろん、神谷には家庭がある。
妻も、幼い子どももいる。
だから、会いたいという気持ちを、そのまま口にすることにはためらいがあった。
けれど、ある日、美月は思い切って電話で切り出した。
「神谷さん、私、また東京に持ち込みに行こうと思うんです」
「そうなんだ。いいと思うよ。前回、編集者の方からいろいろ教えてもらえたんだよね」
「はい。あのとき言われたことを考えて、もう一度描き直してみたんです」
「うん」
神谷の声が、少し弾んだ。
「美月さんが、自分で次に進もうとしているのが嬉しいよ」
その言葉を聞いて、美月は勇気を出した。
「あの……もし、ご都合がよかったらなんですけど」
「うん?」
「また、会ってもらえませんか?」
言ってしまった。
電話の向こうが、ほんの少し静かになった気がした。
美月は慌てて付け加えた。
「もちろん、お忙しかったら大丈夫です! 持ち込みが終わる時間も分からないですし……」
「美月さん」
神谷が、穏やかに呼んだ。
「日程が分かったら教えてくれるかな。僕の予定も確認してみるよ」
「……はい!」
嬉しさが声に出てしまった。
電話を切ったあと、美月はスマートフォンを胸に抱いた。
また会えるかもしれない。
そのことだけで、次の原稿を描くのが楽しみになった。
持ち込みの日程を決めると、美月は神谷に連絡した。
神谷も都合を調整してくれ、二人は東京で会う約束をした。
美月は、せっかく東京まで行くのだから、一泊することにした。
持ち込みの時間が延びる可能性もあるし、神谷と会える時間も、少しは長くなるかもしれない。
本当は、そのことが一番嬉しかった。
けれど、美月には大きな問題があった。
お金がない。
交通費だけでも負担になる。
宿泊費はできるだけ安く抑えたかった。
インターネットで探し、ようやく手頃なゲストルームを見つけた。
ところが、予約を済ませて詳細を確認していたとき、美月はあることに気づいた。
個室ではあるけれど、部屋に鍵がついていないらしい。
「……え?」
何度も説明を読み返す。
共用スペースがあり、個室の扉には鍵がない。
宿泊者は自分以外にもいる。男性客もいるだろう。
鍵がない部屋で一晩過ごすことには不安があった。
どうしよう。
キャンセルして、別の場所を探そうか。
けれど、鍵のあるホテルは高い。
悩んだ末、美月は神谷に相談することにした。
「神谷さん、ちょっと相談してもいいですか?」
「どうしたの?」
美月は予約したゲストルームについて説明した。
「すごく安かったので予約したんですけど、部屋に鍵がないみたいなんです。今になって気づいて……。でも、ほかのホテルは高くて」
神谷の声が、少しだけ低くなった。
「鍵がないの?」
「はい。個室ではあるんですけど……」
「美月さん、それはやめておこう」
いつも穏やかな神谷が、珍しくはっきりと言った。
「えっ?」
「女性が一人で泊まるんでしょう。鍵がかからない部屋は、やっぱり心配だよ。何かあってからでは遅いからね」
「でも、ホテルって高いじゃないですか……」
「うん。だから悩んでいるんだよね」
神谷は、美月の事情を否定しなかった。
お金に余裕がないことも、できるだけ節約したいことも分かっている。
それでも、安全を犠牲にしてほしくはなかった。
「少し待っていてくれる?」
「はい?」
「僕が、鍵のかかるビジネスホテルを探してみるよ」
「えっ、でも……」
「美月さんが一人で安心して休める場所を確保することは、大事だからね」
しばらくして、神谷から連絡があった。
手頃な料金のビジネスホテルを見つけ、予約してくれたという。
美月は驚いた。
「神谷さん、ホテルまで取ってくれたんですか?」
「うん。もちろん、僕が勝手に決めた場所だから、気になることがあれば遠慮なく言ってね」
「でも、そんな……」
「安全に泊まれる場所が見つかった。それでいいんじゃないかな」
神谷は、そこで少し笑った。
「その代わり、ちゃんと鍵をかけて寝ること。知らない人を部屋に入れないこと。約束できる?」
「……はい」
「よし。それなら安心だ」
美月は、電話を切ってからもしばらく画面を見つめていた。
どうして、こんなに優しいのだろう。
そう思う一方で、神谷に頼りすぎているのではないかという気持ちもあった。
それでも今は、素直に嬉しかった。
東京に行くのが、ますます楽しみになった。
持ち込み当日。
美月は出版社の受付で名前を告げ、担当者との面談に臨んだ。
前回よりも、落ち着いて話せた。
もちろん緊張はしていた。
自分の書いた小説を読んでもらうのは、いつだって怖い。
けれど、今回は作品の構成を見直し、主人公の気持ちが伝わるように何度も書き直してきた。
編集者は原稿を読み終えると、しばらく考えてから言った。
「前回より、かなりよくなっていますね」
美月は顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。まだ改善できるところはあります。ただ、主人公が何を考えていて、何に傷ついているのかが、前より伝わってきます」
その言葉を聞いた瞬間、美月の胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます……!」
「今後も作品を見ていきたいと思っています。担当として、次の作品についても相談しながら進めていきませんか」
美月は、すぐには返事ができなかった。
担当。
自分に、担当編集者がつく。
ずっと憧れていたことだった。
「……はい! お願いします!」
頭を下げたとき、目の奥が熱くなった。
出版社を出ると、美月は真っ先にスマートフォンを取り出した。
神谷に伝えたい。
早く、伝えたい。
けれど、待ち合わせの時間までは、まだ少しあった。
美月は何度も時計を確認した。
嬉しい。
自分の作品を、ちゃんと見てくれる人がいた。
まだ何者でもない自分の作品を、これからも読んでくれる人がいる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
そして、もう一つ。
この喜びを、神谷と分かち合いたかった。




