⑬ささやかなお返し
待ち合わせ場所に神谷の姿を見つけた瞬間、美月は思わず駆け寄りそうになった。
けれど、途中で歩く速度を落とした。
「神谷さん!」
「美月さん。お疲れさま」
神谷はいつものように穏やかに笑った。
その顔を見ただけで、美月の緊張がほどけていく。
「聞いてください!」
「うん。どうだった?」
「担当編集者さんが、ついてくれることになったんです!」
言い終わる前に、笑顔になっていた。
神谷は一瞬、目を見開いた。
それから、本当に嬉しそうに笑った。
「そうなんだ。よかったね、美月さん」
「はい!」
「前回言われたことを、ちゃんと考えて書き直したんだね」
「はい。何度も描き直しました。もう、どこを直せばいいのか分からなくなるくらい……」
「それでも、最後まで書いたんだ」
「……はい」
「おめでとう」
その一言に、美月の目が潤んだ。
前回、悪い結果だったときにも、神谷は励ましてくれた。
けれど今日は違う。
悔しさを慰めてもらうのではない。
自分が頑張ってきたことを、喜んでもらえる。
そのことが、こんなに嬉しいなんて。
「ありがとうございます……。神谷さんが、あのとき一緒にいてくれたから、また頑張れたんです」
言ってから、美月は少し恥ずかしくなった。
神谷は、静かに首を振った。
「頑張ったのは美月さんだよ。僕は、話を聞いただけだから」
「でも……」
「僕が応援したいと思ったのは確かだけど、原稿を書いたのも、編集者の方と話したのも、美月さん自身でしょう?」
美月は黙って頷いた。
「だから今日は、美月さんが自分でつかんだ結果を、ちゃんと喜ぼう」
「……はい!」
神谷は、そんな美月を見て微笑んだ。
「何か食べに行こうか。お祝いをしよう」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん」
二人は、出版社から少し離れた場所にある、手頃な中華料理店に入った。
高級店ではない。
店内は賑やかで、テーブルも少し狭かった。
けれど、メニューは豊富で、値段も良心的だった。
美月はメニューを開くと、真剣に悩み始めた。
「どれもおいしそう……」
「ゆっくり選んでいいよ」
「でも、こういうところ、久しぶりです」
「中華料理が?」
「外食が、です。いつも家で食べることが多いので」
神谷は、美月が楽しそうにメニューを見ているのを、穏やかな表情で眺めていた。
注文を済ませると、二人は今日の持ち込みについて話し始めた。
編集者から指摘されたこと。
次回作で挑戦したいこと。
美月が描いてみたい物語。
神谷は、専門家として作品を評価するのではなく、一人の読者として美月の話を聞いた。
「それで、主人公が最後に自分の気持ちを伝えるんです」
「なるほど。そこまでの気持ちの変化を、読者にどう伝えるかが大事なんだね」
「そうなんです。担当さんにも、そこをもっと丁寧に書いたほうがいいって言われました」
「美月さんが書きたいことと、読者に伝わること。その二つを、少しずつ近づけていけるといいね」
「……はい」
料理が運ばれてくる。
二人は笑いながら食事をした。
美月は、いつもよりよく話した。
嬉しいことがあると、こんなにも自然に言葉が出てくるのだと、自分でも驚くほどだった。
食事を終える頃、美月はふと、神谷の顔を見た。
今日も、会えてよかった。
心からそう思った。
「神谷さん」
「うん?」
「今日は、本当にありがとうございます」
「どういたしまして」
「それで……あの」
美月は少しためらってから、財布を取り出した。
「今日は、私に払わせてください」
神谷は驚いたように美月を見た。
「え?」
「いつも、いろいろしていただいているから……。お礼というか、今日は私がお支払いしたいんです」
「でも、美月さん」
「高いお店じゃないですし。いつもお世話になっているので」
最後の言葉は、少しだけ力が入った。
神谷は、その気持ちが分かった。
贈り物をしてもらうばかりではなく、自分にも何かできるのだと伝えたいのだろう。
誰かに支えてもらうだけの存在ではいたくないのだ。
神谷は、少し考えてから微笑んだ。
「分かった。じゃあ、今日はごちそうになろうかな」
「はい!」
美月は嬉しそうに支払いを済ませた。
大きな金額ではない。
けれど、美月にとっては大切なお金だった。
神谷がいつも自分にしてくれることと比べれば、ほんのわずかなものかもしれない。
それでも、自分から何かを返せたことが嬉しかった。
「ごちそうさまでした」
店を出てから、神谷が丁寧に頭を下げた。
美月は、少し照れながら笑った。
「こちらこそ。いつも色々ありがとうございます。」
神谷は、その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
美月は、もう自分が何かをしてあげなければ何もできない子ではない。
自分の喜びを、自分の言葉で伝えられる。
相手のことを考え、自分にできる範囲で感謝を示そうとする。
そういう人なのだ。
神谷は、それが嬉しかった。
同時に、彼女のことを、以前よりもずっと近くに感じている自分にも気づいていた。




