⑥支援者は精神科医だった
そのころ神谷は自宅の書斎で本を読んでいた。
妻の理恵は息子の宗一郎のねかしつけを行っていた。
理恵が書斎をノックし入ってきた。
「最近仕事どう?」
「うん、まあ。外来は落ち着いてるけど、入院はちょっとバタついてるかな。そっちは?」
「最近気分障害の患者さんが増えてきた気がする」
「ああ、気分障害ね、多いね」
「仕事以外では?どう?」
神谷はドキっとした。
別に悪いことをしている訳ではないのになんだか後ろめたく感じてしまう。
「うん、まあ、特に変わったことはないよ」
「最近蓮君と飲みに行ったりしてるの?」
「あぁ、最近飲みに行けてないね。」
蓮というのは小さな会社を経営している神谷の大学時代の親友である。
気心が知れているのでお互いにふらっと誘い合い近況などを報告しあう数少ない友人である。
「蓮君その後どう?失恋の痛手はもうきえたのかな?」
蓮にも大学時代からの恋人がいて最近別れたばかりだ。
「どうだろう?また連絡入れてみるよ」
「うん、じゃあね、おやすみ」
「おやすみ」
理恵と神谷は寝室を別にしている。
それぞれの部屋を持ち、それぞれの1人の時間を大切にしている。
それに大学時代から付き合い始めて長いのでその方がお互い新鮮さを保てると考えていた。
美月はスランプに陥っていた。
投稿サイトのランキングも10位にも入らなくなっていた。
あせる美月。
どうしよう・・
持ち込みを目指すそうか・・
美月は持ち込みすることにした。
美月は、以前にもまして真剣な表情で、持ち込み用の原稿を仕上げていた。
目指しているのは、出版社への持ち込み。
いつか自分の作品を本にしたい。
編集者に認めてもらいたい。
そして、誰かの心に残る物語を書ける人になりたい。
そんな夢を胸に、美月は毎日ペンを走らせていた。
ある日、美月からKにメッセージが届いた。
「Kさん、聞いてください!」
神谷が返信する
「どうしました?」
「ついに、持ち込みに行くことにしました!!」
「いよいよですね。」
「はい!原稿、なんとか仕上がりました!
今度、東京の出版社に持っていきます!」
神谷は、画面に表示された文字をじっと見つめた。
美月が東京に来る。
その事実に、胸がわずかに高鳴った。
いつも画面越しに言葉を交わしている彼女が、今度は自分と同じ東京の空の下に来る。
そんなことを考えただけで、心の奥が落ち着かなくなった。
けれど、神谷はすぐに自分を戒めた。
(何を考えているんだ、俺は)
妻がいる。
幼い息子もいる。
美月は、自分が応援している若い創作者の一人にすぎない。
そう自分に言い聞かせ、神谷は少し自嘲気味に笑った。
「ここまで仕上げたんですね。
まずは、そこまで頑張った自分を認めてあげてください。」
「ありがとうございます!
緊張するけど、頑張ってきます!」
「ええ。美月さんが納得できる持ち込みになることを願っています。」
「頑張って行ってきます!」
その短い言葉を最後に、二人のやりとりはいったん途切れた。
神谷はスマートフォンを置き、静かに息を吐いた。
どうか、彼女の努力が報われますように。
そう願う自分の気持ちが、以前より少し強くなっていることに、神谷は気づいていた。
1週間が過ぎた。
美月から、再びメッセージが届いた。
「Kさん!
今日、とうとう持ち込みに行ってきます!」
「今日なんですね。」
「はい!
原稿も持ち物も準備しました!
あとは行くだけです!」
「緊張しているでしょうね。」
「めちゃくちゃ緊張してます(笑)
でも、せっかくここまで来たので、頑張ってきます!」
「応援しています。
いい結果につながるといいですね。」
「ありがとうございます!
行ってきます!!」
神谷は、最後のメッセージを読み返した。
きっと今頃、彼女は東京に向かってるのだろう。
出版社の受付で緊張しながら原稿を差し出す姿を想像すると、神谷の胸には、親しい人の成功を願うような気持ちが湧いてきた。
けれど、彼女からの連絡は、その後しばらく途絶えた。
一日が過ぎた。
二日が過ぎた。
いつもなら、作品の進み具合や日常のちょっとした出来事を知らせてくれる美月から、何の連絡もなかった。
(どうだったんだろう)
神谷は何度かスマートフォンを手に取った。
こちらから尋ねるべきだろうか。
いや、結果を話したくないことだってある。
うまくいかなかったのなら、無理に思い出させることになるかもしれない。
そう考えて、神谷は自分から連絡するのを控えていた。
すると、その日の夜。
スマートフォンに美月からのメッセージが届いた。
「Kさん、こんばんは。」
「こんばんは、美月さん。
持ち込み、お疲れさまでした。」
しばらくして、返信があった。
「行ってきました。」
「どうでしたか?」
なかなか返事が来なかった。
神谷は、胸の奥に小さな不安を覚えた。
やがて、美月から長いメッセージが届いた。
「アドバイスはもらえたんです。
ここをこうしたほうがいいとか、こういうところをもっと考えたほうがいいとか。
でも……。
なんか、全然だめだったみたいです。」
神谷は画面を見つめた。
「まあ、こんなものなのかな。
初めてだしね。
はは。」
最後の「はは」という文字が、神谷にはひどく寂しく見えた。
無理に明るく振る舞っているのだろう。
本当は、期待していたのだ。
時間をかけて原稿を仕上げ、勇気を出して出版社に持ち込んだ。
もしかしたら認めてもらえるかもしれない。
自分の作品を面白いと言ってもらえるかもしれない。
そんな期待があったからこそ、現実との落差に傷ついているのではないだろうか。
神谷は、すぐに返信しようとして、いったん指を止めた。
安易に励ましたくなかった。
「次は頑張りましょう」
「まだ始まったばかりですよ」
そんな言葉は、間違ってはいない。
けれど、今の美月が求めているのは、きっとそれではない。
神谷はゆっくりと文字を打った。
「美月さん。
今日は、落ち込んでいいと思います。
それだけ本気で向き合っていたということだから。
でも、今日の結果だけで、美月さんの作品の価値が決まるわけじゃないですよ。」
送信してから、神谷は画面を見つめた。
しばらくして、返信が届いた。
「Kさん……。
ありがとうございます。
実は、ちょっとお酒を飲んでます。
なんか、悔しくて。」
そこまで打って、しばらく間が空いた。
「ごめんなさい。
こんなこと言われても、困りますよね。」
「困りませんよ。
悔しかったんですね。」
「……はい。」
送信された短い文字を見た神谷は、胸を締めつけられるような思いがした。
「私、けっこう頑張ったつもりだったんです。
何度も書き直して、ここは面白いかなとか、ここは伝わるかなとか。
でも、実際に持っていったら、全然で。
なんか、自分には才能がないのかなって……。」
神谷はすぐには返信しなかった。
彼女の言葉を、急いで否定したくなかったからだ。
「頑張ったからこそ、悔しいんでしょうね。
本気で目指していなかったら、そこまで傷つかなかったと思います。
今日は無理に前向きにならなくても大丈夫です。」
美月はその文面見つめていた。
「悔しいものは悔しいですから。
今夜くらいは、そういう自分の気持ちを、そのまま認めてあげてもいいと思いますよ。」
美月からの返信は、すぐには来なかった。
神谷は、何か言いすぎただろうかと考え始めた。
そのとき、ようやくメッセージが届いた。
「Kさんって……。」
「はい?」
「いつも、私が落ち込んでるときに、ちょうど欲しかった言葉をくれますね。」
神谷は、思わず小さく笑った。
「そうですか?」
「はい。
なんていうのかな……。
【頑張って】って言われると、もっと頑張らなきゃって思うんです。
でも、Kさんは【今日は落ち込んでいい】って言ってくれるから。
なんか、ほっとします。」
神谷はその文章を読みながら、静かに考えた。
美月は、いつも一生懸命だ。
夢に向かって努力し、思うようにいかなくても明るく振る舞おうとする。
だからこそ、時には立ち止まってもいいのだと、誰かに言ってほしかったのかもしれない。
「それは……美月さんが頑張っているのを知っているからですよ。」
「……やっぱり、Kさんってずるいですね。」
「ずるい?」
「そんなこと言われたら、またKさんに話を聞いてほしくなっちゃうじゃないですか。」
神谷は、画面を見つめたまま、わずかに表情を和らげた。
「僕の言葉が、少しでも美月さんの助けになるのなら、うれしいですよ。
ただ、無理に元気になろうとしなくてもいいですからね。」
「ありがとうございます。
Kさんがいてくれて、よかった。」
その一文を読んだ瞬間、神谷の胸の奥が、かすかに温かくなった。
自分の言葉が彼女に届いた。
それが、うれしかった。
けれど神谷は、その感情に深い意味を与えないようにした。
彼女は今、傷ついている。
自分は、たまたま話を聞いているだけだ。
そう考えながら、スマートフォンを手にしたまま、神谷はしばらく動かなかった。
美月はベッドに腰掛け、スマートフォンの画面を見つめていた。
Kさんは、どうしていつも、あんなふうに言葉を選べるのだろう。
自分が何を言ってほしいのか、まるで分かっているかのようだった。
「Kさんって、人の気持ちを読むのが上手ですよね。」
「そうですか?」
「はい。
なんか、不思議です。」
神谷は少し考えてから返信した。
「……仕事柄、そういうことを考える機会が多いので。」
「お仕事って、何をされているんですか?」
神谷は画面を見つめた。
これまで、自分の仕事について詳しく話したことはなかった。
けれど、今さら隠す理由もない。
「精神科医です。」
数秒後、驚いた様子の返信が届いた。
「えっ……!!
お医者さんなんですか!?」
「一応、そういう仕事をしています。」
「だからなんだ……。
なんか、納得しました。」
「何がですか?」
「私が落ち込んでるときも、変に励ましたりしないじゃないですか。
【頑張って】じゃなくて、【今日は落ち込んでいい】って言ってくれるから。
そういうのって、精神科のお医者さんだからなのかなって。」
神谷は、少し困ったように笑った。
【精神科医だからといって、いつも正しい言葉を選べるわけではありませんよ。】
「でも、Kさんの言葉には、いつも助けられてます。」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいです。
ただ、僕は美月さんの主治医ではありませんから、診察や治療をしているわけではないことだけは、分かっていてくださいね。」
「はい。
分かってます。
でも……ありがとうございます。」
美月はスマートフォンを胸元に抱き寄せた。
精神科医だったのか。
なるほど、と思った。
そして、ほんの少しうれしくなった。
これまで自分が何となく感じていた安心感に、理由が見つかったような気がしたのだ。




