③初めての援助
二人の間には、まだ何もなかった。
ただ、言葉があった。
美月が書いた言葉と、それを読んだ神谷が返した言葉。
その小さな往復が、静かに続いていた。
それから一か月ほどが過ぎた。
美月の小説は、少しずつ更新を重ねていた。
読者の数は、決して多くない。ランキングの上位に入ることもなければ、感想が次々に寄せられるわけでもなかった。
それでも、美月は書き続けていた。
以前なら、何日もかけて書いた作品に反応がないと、自分には才能がないのだと思い、ファイルを閉じてしまうことがあった。
けれど、今は違った。
更新するたびに、必ず読んでくれる人がいる。
ペンネームは「K」。
感想はいつも丁寧で、ただ褒めるだけではなかった。
登場人物の心情が自然に伝わるところを指摘してくれることもあれば、物語の展開について、読者として感じた疑問を率直に伝えてくれることもあった。
美月は、その感想を何度も読み返した。
自分の書いたものを、これほど真剣に読んでくれる人がいる。
その事実が、書き続ける支えになっていた。
ある晩、美月は新しい話を投稿したあと、感想欄を開いた。
しばらくして、Kからの感想が届いた。
『今回の主人公は、これまでよりも自分の気持ちを言葉にできるようになりましたね。
ただ、相手に理解してもらえたから前に進めたというより、理解してもらえなくても自分の気持ちを大切にしようとしたところが印象に残りました。
この主人公が、これからどんな選択をするのか楽しみです』
美月は、思わず笑みを浮かべた。
自分が描きたかったものを、わかってくれた。
誰かに認めてもらうために生きるのではなく、自分が自分の人生を選ぶ。
それは、美月が物語の中で描こうとしていたことだった。
美月は返信した。
『ありがとうございます。Kさんに読んでいただけると、もっと書きたいと思えます。
実は、主人公をどう動かしたらいいのかわからなくなって、何度も書き直していました。
でも、もう少し頑張ってみようと思います』
送信してから、美月は少し考えた。
もっと話してみたい。
作品の感想だけでなく、どんな人が自分の小説を読んでいるのか、知りたいと思った。
けれど、突然そんなことを尋ねるのは失礼かもしれない。
美月は結局、それ以上の言葉を送らなかった。
一方、神谷は、返信を読みながら微笑んでいた。
彼は美月の文章を読むことが、いつの間にか日々の楽しみになっていることに気づいていた。
仕事を終えて帰宅し、家族と夕食を囲む。幼い息子の話を聞き、妻と翌日の予定を確認する。
いつもと変わらない生活の中で、夜、一人になったときに美月の新しい小説を読む。
それだけのことだった。
しかし、彼女の作品には、人の心を立ち止まらせる何かがあった。
神谷は、次の作品を楽しみにしていた。
ただし、それが特別な感情だとは、まだ考えていなかった。
数日後、美月からいつもとは違う返信が届いた。
『Kさんに、少し相談してもいいでしょうか。
小説のことで、どうしても自信が持てなくなってしまって』
神谷は、メッセージを読んでから、少し考えた。
作品についての相談なら、読者として答えることはできる。
彼は返信した。
『私でよければ、読者として感じたことをお伝えしますよ。何かありましたか?』
ほどなくして、美月から返事が届いた。
『ありがとうございます。
私は小説家になりたいと思っています。でも、今の作品を読んでくださる方は少ないですし、文章もまだまだ未熟です。
このまま書き続けても、何にもならないのではないかと思うことがあります。
それでも、書くことをやめたくありません。
こんな気持ちで小説家を目指していてもいいのでしょうか』
神谷は、画面を見つめた。
二十歳。
夢を追いかけるには、まだ十分に若い。
しかし、若いからといって、迷わずにいられるわけではない。
何かを本気で望むほど、届かないかもしれないという不安も大きくなる。
神谷は、慎重に言葉を選んだ。
『小説家を目指すのに、迷わないことや、自信があることは必要ないと思います。
自分には才能があると信じられる日もあれば、何も書けないと思う日もあるでしょう。
それでも、書くことをやめたくないのであれば、その気持ちは大切にしていいのではないでしょうか。
ただし、夢を大切にすることと、無理をして自分を追い詰めることは違います。
焦らず、書き続けてください。
私は、あなたの次の作品も読みたいと思っています』
送信したあと、神谷は画面を閉じた。
特別なことをしたつもりはなかった。
一人の読者として、自分が感じたことを伝えただけだ。
しかし、美月にとって、その言葉は大きな意味を持っていた。
「次の作品も読みたい」
自分の書いたものを、これからも読みたいと思ってくれる人がいる。
それだけで、明日も書いてみようと思えた。
美月は、その夜、久しぶりに時間を忘れて小説を書いた。
その後も、二人の交流は続いた。
美月は作品を投稿し、神谷は感想を送った。
ときには、美月が書き直した場面について意見を交わすこともあった。
神谷は、彼女が少しずつ文章を磨いていく様子を楽しみにしていた。
ある日、美月は新作の投稿をしばらく休むことを告げた。
『最近、少し疲れてしまって。
書きたい気持ちはあるのですが、パソコンに向かっても何も浮かばないんです。
せっかく読んでくださる方がいるのに、申し訳ない気がします』
神谷は、その文章を読んで眉を寄せた。
読者に申し訳ない。
美月は、作品を書くことさえ、誰かの期待に応えなければならないことのように感じているのだろうか。
神谷は、すぐに返信した。
『謝る必要はありませんよ。
小説は、読者のためだけに書かなければならないものではないと思います。
書けないときは、休んでもいいのです。
あなたが休んだからといって、これまで書いた作品の価値がなくなるわけではありませんから』
それから、少し考えて、もう一文を加えた。
『どうか、ご自分のことも大切にしてくださいね』
美月からの返信は、いつもより遅かった。
『ありがとうございます。
Kさんは、どうしてそんなに優しい言葉をかけてくださるのですか』
神谷は、少し驚いた。
どうして、と聞かれても、特別な理由があるわけではない。
ただ、彼女の作品を読み、感じたことを伝えたいと思っている。
そして、書き手が自分を追い詰めてまで作品を生み出す必要はないと思っていた。
『あなたの作品を読んでいるからでしょうか。
登場人物たちが、自分の気持ちを大切にできるようになっていく姿を読んでいると、作者であるあなたにも、そうあってほしいと思うのです』
送信したあと、神谷はその言葉を読み返した。
少し踏み込みすぎただろうか。
けれど、作品についての感想として、不自然なことは書いていない。
彼は、それ以上考えるのをやめた。
一方、美月は、スマートフォンを握ったまま動けずにいた。
自分が書いた物語の登場人物だけでなく、自分自身のことまで気にかけてもらえた。
そんな経験は、ほとんどなかった。
もちろん、Kは自分のことを何も知らない。
家族のことも、普段どんな生活をしているのかも、何も知らない。
それなのに、言葉だけで、こんなにも安心できることがあるのだろうか。
美月は、画面に向かって小さくつぶやいた。
「……ありがとうございます」
その言葉は、誰にも届かなかった。
さらに数週間が過ぎた頃、美月は一つの決心をした。
以前から興味のあった小説の公募に、作品を応募してみようと思ったのだ。
応募要項を読み、締め切りを確認し、必要な文字数を数える。
ところが、規定の文字数まで書き上げるには、今のペースではかなり時間がかかりそうだった。
美月は、焦りを感じていた。
書きたい気持ちはある。
けれど、生活のことも考えなければならない。
小説を書くことだけに時間を使えるわけではなかった。
何とか時間を作ろうとしても、思うように進まない。
そんな日が続き、美月は再びKに相談した。
『実は、公募に応募してみようと思っています。
でも、書き上げるまでに時間がかかりそうです。
もっと集中して書ける環境があればいいのですが、なかなか難しくて』
神谷は、すぐには返信しなかった。
作品を書く時間が足りない。
その言葉の背景には、単なる時間の問題だけではない事情があるのかもしれない。
しかし、本人が話していないことを、勝手に想像して尋ねるべきではないと思った。
神谷は、まず一人の読者として返信した。
『公募に挑戦されるのですね。応援しています。
締め切りに間に合わせようと焦る気持ちもあると思いますが、無理をして作品を嫌いになってしまっては、もったいないと思います。
差し支えなければ、どんな作品を書こうとしているのか、教えてもらえますか?』
美月は、応募しようとしている小説のあらすじを送った。
主人公は、周囲の期待に応えることばかり考えて生きてきた女性だった。
他人に嫌われないように振る舞い、自分の希望を後回しにしてきた彼女が、ある出来事をきっかけに、自分の人生を選び直していく。
神谷は、あらすじを読み終え、興味を持った。
これまでの作品にも通じるテーマだったが、今回はより長い物語の中で、主人公の変化を描こうとしている。
『ぜひ、最後まで書いてみてください。
これまでの作品を読んできた私としては、あなたがこのテーマをどのように描くのか、興味があります』
その言葉に、美月は勇気づけられた。
けれど、同時に、どうしても気になることがあった。
Kは、いつも丁寧に感想をくれる。
自分の文章をきちんと読み、良いところだけでなく、改善できそうなところも伝えてくれる。
いったい、どんな人なのだろう。
美月は、思い切って尋ねてみた。
『Kさんは、普段、どんなお仕事をされているのですか?』
送信してから、聞きすぎたかもしれないと思った。
相手の個人的な事情に踏み込む質問だった。
しかし、神谷からの返信は穏やかなものだった。
『人と関わる仕事をしています。
仕事柄、人の話を聞く機会は多いですね』
それ以上の詳しい説明はなかった。
美月も、無理に尋ねようとは思わなかった。
知らないことがあっても、言葉を交わすことはできる。
今は、それで十分だった。
神谷が、美月に具体的な援助を申し出ようと考え始めたのは、それからしばらくしてのことだった。
きっかけは、美月が投稿した短い近況報告だった。
『公募に応募するための作品を、少しずつ書き進めています。
ただ、思うように時間が取れず、締め切りまでに完成するか不安です。
いつか、小説を書くことを仕事にできたらいいなと思っています』
神谷は、その文章を何度も読み返した。
美月は、書くことを諦めていない。
自信を失うことがあっても、迷うことがあっても、少しずつ前に進もうとしている。
神谷は、彼女の作品を初めて読んだ夜のことを思い出した。
雨の中、帰る場所があるのに帰りたくない少女。
その少女は、誰かに人生を変えてもらったわけではなかった。
ただ、自分の気持ちを認めることを覚えた。
神谷は、あの物語を気に入っていた。
そして今、現実の美月もまた、自分の力で何かをつかもうとしている。
もし、執筆に集中できる環境があれば。
もし、作品を書くために必要な資料や道具をそろえる余裕があれば。
彼女は、もっと自由に書けるのではないだろうか。
神谷は、そこで初めて、自分にできることを具体的に考えた。
しかし、すぐに援助を申し出ることには抵抗があった。
美月は、自分の生活について詳しく話していない。
経済的に困っているのかどうかも、神谷にはわからない。
まして、自分は彼女の人生に責任を負う立場ではない。
一方的に何かを与えれば、彼女は断りにくくなるかもしれない。
援助を受けたことで、作品を書かなければならないというプレッシャーを感じる可能性もある。
神谷は、椅子に座ったまま考え込んだ。
助けたいと思うことと、相手に助けを受け入れさせることは違う。
自分ができると思うことが、必ずしも相手の望むこととは限らない。
そのことは、仕事を通して何度も学んできた。
だからこそ、申し出るなら、美月が断れる余地を残さなければならない。
援助を受けなくても、これまでの交流が変わることはない。
受けたからといって、神谷の期待に応える義務もない。
そして、何よりも、美月自身が何を必要としているのかを知らなければならない。
神谷は、まずは感想を送ることにした。
『公募への挑戦、応援しています。
あなたの作品には、まだ伸びていく余地がたくさんあると感じています。
もし執筆環境について困っていることがあるのでしたら、差し支えない範囲で教えてください。
私にできることがあるかどうか、一緒に考えられればと思います。
もちろん、話したくないことまで話していただく必要はありません』
送信ボタンを押したあと、神谷は深く息を吐いた。
これで何かが変わるとは限らない。
美月が返事をしない可能性もある。
援助など必要ないと断られるかもしれない。
それでも、彼は自分の気持ちを伝えておきたかった。
彼女の作品を読み続けてきた一人の読者として。
彼女が書くことを諦めずにいられるなら、それを応援したいと思ったからだ。
美月がそのメッセージを読んだのは、翌日の夜だった。
「私にできることがあるかどうか、一緒に考えられればと思います」
その一文を、美月は何度も読み返した。
助けてあげる、ではない。
何でもしてあげる、でもない。
一緒に考える。
その言葉が、不思議と心に残った。
美月は、これまで誰かに頼ることが苦手だった。
何かをお願いすれば、迷惑だと思われるのではないか。
断られたら、傷つくのではないか。
助けてもらったら、何かを返さなければならないのではないか。
そんなことを考えてしまい、結局、一人で抱え込むことが多かった。
けれど、Kは、まだ何も求めていない。
ただ、自分にできることがあるかもしれないと言ってくれている。
美月は、返信欄を開いた。
そして、初めて、自分の創作活動について、少しだけ詳しく話してみようと思った。
『ありがとうございます。
実は、執筆に使う時間をなかなか確保できず、思うように進まないことがあります。
でも、誰かに何かをしていただくのは申し訳ない気もして……。
自分でも、どうしたらいいのか、まだよくわかりません』
送信してから、美月は不安になった。
こんなことを書いて、困らせてしまっただろうか。
しかし、すぐに後悔するのはやめた。
自分の気持ちを伝えたのは、これが初めてだった。
それだけでも、少し前に進めたような気がした。
画面の向こうで、神谷はその返信を読んでいた。
彼は、美月がすぐに援助を求めなかったことを、むしろ自然なことだと思った。
二人は、まだ互いのことをほとんど知らない。
信頼は、言葉を交わしただけで完成するものではない。
神谷は、焦らないことにした。
美月が自分の力で書き続けられるなら、それが一番いい。
もし、本当に助けが必要になったときには、そのとき改めて考えればいい。
神谷は、返信を打った。
『申し訳ないと思う必要はありませんよ。
ただ、何かをしてもらうことに抵抗があるのなら、無理に受け入れる必要もありません。
まずは、あなたがどんなふうに書いていきたいのか、それを大切にしてください。
私は、これからも一人の読者として、あなたの作品を楽しみにしています』
その夜、美月は久しぶりに、安心して眠りにつくことができた。
まだ、何かを援助してもらったわけではない。
生活が変わったわけでもない。
それでも、自分の夢を応援してくれる人がいる。
そして、その人は、自分の気持ちを置き去りにしてまで、何かを押しつけようとはしない。
美月は、そんなKの言葉を心の中で大切にしながら、次の作品の構想を練り始めた。
神谷が初めて援助を申し出るまで、もう少し時間が必要だった。
彼は、美月の作品を応援したいと思っていた。
けれど、彼女の人生を自分の手で変えようとは、まだ考えていなかった。
そして、この慎重な距離こそが、やがて二人にとって大切な意味を持つことになるのだった。
美月が公募に応募するための小説を書き始めてから、二か月が過ぎていた。
物語の大筋は決まっている。
主人公が自分の気持ちを押し殺して生きてきた理由も、人生を変えるきっかけとなる出来事も、最後にどんな選択をするのかも、頭の中にははっきりと浮かんでいた。
けれど、それを文章にすることは、思っていた以上に難しかった。
登場人物の心情を丁寧に書こうとすると、同じ場面を何度も書き直すことになる。
一度は納得しても、翌朝読み返すと、何かが違うように感じられた。
気がつけば、数時間かけて数行しか進んでいないこともあった。
美月は、パソコンの画面を見つめたまま、深く息を吐いた。
「……どうして、うまく書けないんだろう」
才能がないのかもしれない。
そう考えると、胸の奥が重くなった。
それでも、小説を書くことをやめたいとは思わなかった。
物語を考えている時間だけは、自分の中にある言葉にならない気持ちを、別の形にできるような気がする。
登場人物が自分の意思で一歩を踏み出す場面を書くと、まるで自分まで少しだけ前に進めたように感じることがあった。
だからこそ、諦めたくなかった。
美月は、もう一度、文章を書き始めた。
その夜、神谷は美月の近況報告を読んでいた。
『少しずつ書いていますが、なかなか進みません。
書き直してばかりで、これでいいのか自信がなくなってしまいます。
それでも、今度こそ最後まで書き上げたいです』
神谷は、彼女が以前よりも頻繁に、自信のなさを口にするようになったことに気づいていた。
もちろん、創作に迷いはつきものだ。
しかし、彼女は迷いながらも、前に進もうとしている。
神谷は、そんな美月の姿勢を応援したかった。
ただ、言葉で励ますだけで十分なのだろうか。
しかし彼女が何に困っているのかを知らないまま、勝手に手を差し伸べることはできない。
神谷は、短い返信を送った。
『書き直すことも、作品を完成させるための大切な過程だと思います。
ただ、もし今、執筆環境や資料などのことで困っているのであれば、話せる範囲で教えてください。
私にできることがあるかもしれません』
美月から返事が来たのは、翌日の夜だった。
『ありがとうございます。
実は、小説を書くための資料をもっと読みたいと思っています。でも、必要な本を全部買う余裕はなくて。
図書館で借りたり、手持ちの本を読み返したりしています。
今は、それで何とか頑張っています』
神谷は、その文章を読んで考え込んだ。
彼女は、困っていることを話してくれた。
けれど、それは援助を求めているという意味ではない。
自分にできることを考える前に、彼女が本当に望んでいることを確かめる必要があった。
神谷は、返信した。
『必要な資料を十分にそろえられないのは、もどかしいですね。
もしよければ、執筆に必要な本を購入する費用について、私が援助することもできます。
ただ、突然そんなことを言われても、戸惑いますよね。
無理に受け入れる必要はありません。少し考えてみてください』
送信したあと、神谷はスマートフォンを机に置いた。
援助を申し出るのは、これが初めてだった。
彼女がどう受け取るのか、神谷にはわからなかった。
美月は、届いたメッセージを何度も読み返した。
援助。
その言葉に、すぐには返事ができなかった。
自分のために、お金を出してくれる人がいる。
それだけで、ありがたいと思った。
けれど、同時に戸惑いもあった。
Kは、まだ顔も知らない人だ。
作品を読んでくれているとはいえ、どうしてそこまでしてくれるのだろう。
何かを返さなければならないのではないか。
期待に応えられなかったら、どうなるのだろう。
考え始めると、不安が次々に浮かんできた。
美月は、しばらくしてから返信した。
『ありがとうございます。
そんなふうに言っていただけるなんて、思ってもいませんでした。
でも、どうして私に、そこまでしてくださるのですか?』
神谷は、その質問を読んで、当然の疑問だと思った。
彼女からすれば、見知らぬ読者にすぎない自分が、突然、金銭的な援助を申し出たのだ。
理由を尋ねたくなるのも無理はない。
神谷は、できるだけ率直に答えることにした。
『あなたの作品を読んで、これからも書き続けてほしいと思ったからです。
私は、あなたの才能を保証できるわけではありません。将来、必ず小説家になれるとも言えません。
けれど、あなたが本気で書き続けたいと思っていることは、これまでの作品や、やり取りを通して伝わってきました。
その気持ちを、少しでも応援できたらと思ったのです』
そして、もう一つ、伝えておきたいことがあった。
『援助を受けたからといって、私の期待に応える必要はありません。
作品を書き上げられなくても、賞を取れなくても、謝らなくていいのです。
私が応援したいと思ったことと、あなたが何かを返さなければならないことは、別の話ですから』
美月は、その言葉を読んで、しばらく画面から目を離せなかった。
誰かに何かをしてもらうとき、いつも考えてしまうことがある。
相手は、何を望んでいるのだろう。
何をすれば、満足してくれるのだろう。
どうすれば、嫌われずに済むのだろう。
けれど、Kは、何かを返す必要はないと言った。
小説家になれる保証もないのに、応援したいと言ってくれた。
美月は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
それでも、すぐに受け入れることはできなかった。
自分の夢を応援してくれる人がいることは嬉しい。
けれど、その人の好意に甘えてしまっていいのだろうか。
美月は、一晩考えることにした。
翌日の夜、美月はKに返信した。
『一晩考えました。
まだ少し不安はありますが、もし本当にご迷惑でなければ、お願いしてもいいでしょうか。
小説を書くために必要な本を、何冊か購入したいと思っています。
ありがとうございます。大切に使わせていただきます』
神谷は、その返信を読んで、ほっとした。
しかし、すぐに何かを購入するのではなく、まずは必要なものを確認することにした。
『もちろんです。
ただ、私が勝手に選ぶよりも、あなたが必要だと思う本を選んでください。
差し支えなければ、書名と金額を教えてもらえますか。
無理のない範囲で考えたいと思います』
美月は、何度も書店のサイトを見ながら、必要な本を選んだ。
文章の書き方についての本。
小説の構成を学ぶための本。
そして、今書いている作品の参考にしたい小説が数冊。
本当は、もっと欲しいものがあった。
けれど、たくさんお願いするのは申し訳ないと思い、必要最低限に絞った。
神谷は、送られてきた書名を確認した。
合計金額は、大きなものではなかった。
彼は、美月にその費用を援助することを伝えた。
支払い方法についても、互いに無理のない形を相談し、購入に必要な費用を負担した。
美月は、注文を済ませたあと、何度も確認画面を見た。
自分のために、新しい本が届く。
それだけのことなのに、信じられないような気持ちだった。
数日後、届いた本を机の上に並べた。
表紙を一冊ずつ眺め、そっとページを開く。
これまでは、欲しい本を見つけても、購入するのを諦めることが多かった。
だから、手元にあることが嬉しかった。
美月は、Kにメッセージを送った。
『本が届きました。
本当にありがとうございます。
これから、少しずつ読んでいこうと思います。
いただいたご厚意を無駄にしないように、頑張ります』
神谷は、その文章を読んで、すぐに返信した。
『無駄にしないように、と気負わなくても大丈夫ですよ。
本を読む時間も、休む時間も、あなたにとって必要なものだと思います。
どうか、楽しんで読んでください』
美月は、その言葉に小さく笑った。
頑張らなければならないと思っていた自分に、頑張りすぎなくてもいいと言ってくれる人がいる。
それが、こんなにも嬉しいことだとは知らなかった。
神谷にとっても、今回の援助は小さな出来事だった。
彼は経済的に余裕のある生活を送っていた。
本を数冊購入する費用を負担することは、特に大したことではない。
けれど、金額が小さいからといって、相手の気持ちまで軽く考えていいわけではない。
美月が何を感じ、どのように受け取るのか。
彼は、それを大切にしたかった。
援助をしたからといって、自分が彼女の特別な存在になったとは考えなかった。
むしろ、彼女が自分の力で作品を書き続け、いつか自分の名前で世の中に作品を送り出すことができたなら、それが一番嬉しいと思った。
その夜、神谷はいつものように美月の新しい投稿を読んだ。
文章には、以前よりも少しだけ余裕が感じられた。
登場人物の心情を説明しすぎず、仕草や沈黙によって伝えようとする場面が増えていた。
もちろん、まだ未熟なところはある。
けれど、彼女は確かに成長していた。
神谷は感想を送った。
『今回の作品は、人物の気持ちが自然に伝わってきました。
特に、主人公が言葉にできなかった気持ちを、行動で表す場面が印象に残りました。
これからの展開も楽しみにしています』
それは、援助をしたこととは関係のない、純粋な読者としての感想だった。
美月は、その感想を読み、嬉しそうに笑った。
そして、次の場面を書き始めた。
それから、美月は少しずつ執筆を進めるようになった。
購入した本を読み、気になったところに付箋を貼り、ノートに書き留める。
思うように進まない日もあったが、以前よりも、自分の作品と向き合う時間が増えていた。
神谷との交流も続いていた。
二人が交わす言葉は、いつしか作品の感想だけではなくなっていた。
美月は、読んだ本について話すようになった。
神谷は、自分が読んで面白いと思った作品を紹介することもあった。
美月は、Kが落ち着いた大人の男性なのだろうと想像するようになっていた。
言葉遣いが穏やかで、こちらが話したくないことを無理に聞こうとしない。
それでいて、作品については真剣に意見を伝えてくれる。
そんなところに、安心感を覚えていた。
一方、神谷も、美月の文章を読むことを楽しみにしていた。
彼女の作品には、人が何気なく口にした一言に救われる瞬間が描かれている。
それは、決して劇的な出来事ではない。
けれど、誰かにとっては、何年も忘れられない言葉になることがある。
神谷は、そんな場面を読むたびに、彼女の感性に惹かれていった。
ただし、この時点では、まだ恋愛感情ではなかった。
彼女の才能を見つけた一人の読者として。
小説家になる夢を持つ若い書き手を応援する一人の大人として。
その成長を見守りたいと思っていた。
ある晩、美月から、こんなメッセージが届いた。
『いつか、自分の小説が本になったらいいなと思います。
まだまだ先の話だと思いますが、書店に自分の本が並んでいるところを想像すると、嬉しくなります』
神谷は、その文章を読んで微笑んだ。
夢を語る美月の言葉には、以前よりも明るさがあった。
彼は返信した。
『いつか、あなたの作品が本になる日が来るかもしれませんね。
そのときは、ぜひ教えてください。
読者として、楽しみにしています』
美月から、すぐに返事が届いた。
『はい。いつか必ず、お知らせできるようになりたいです』
神谷は、その言葉を読んで、心の中で静かに願った。
いつか、本当に彼女の小説が本になりますように。
そして、そのときには、彼女が自分自身の力で夢をつかんだのだと、胸を張って言えるようであってほしい。
自分が援助したことなど、忘れてしまってもいい。
彼女が書き続けた時間も、悩んだ日々も、作品を完成させるために重ねた努力も、すべて彼女自身のものなのだから。
神谷は、まだ知らなかった。
このささやかな援助が、やがて美月にとって、自分の夢を信じるきっかけの一つになっていくことを。
そして、自分自身もまた、彼女の成長を見守るうちに、単なる読者ではいられなくなっていくことを。
その夜も、二人の間には、画面を通して交わされる言葉があった。
神谷は、いつものように仕事を終え、家族の待つ家へ帰っていく。
美月は、新しく届いた本を机の脇に置き、次の一行を書き始める。
二人は、まだ互いの顔を知らなかった。
けれど、神谷が美月の夢を応援し始めたことで、二人の関係は、ほんの少しだけ変わり始めていた。




