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②精神科医の神谷と美月の心の傷

神谷は精神科のドクターをしている。

 当直もあり忙しくしているが、同じく精神科のドクターをしている妻と幼い息子がいて、家庭では良き夫良き父親である。

 神谷が妻である理恵とであったのは18歳、同じ大学である。

 それから付き合い続け、4年前に結婚し、3年前に息子宗一郎が生まれた。

 家庭も円満で何の不自由もなく、困ったこともない。

 強いて言えば慢性的な不眠症でショートスリーパーというのだろうか。

 1日4時間ほどしか眠らない。

 それで時間つぶしに投稿サイトを読んでいるのだが美月の過去の作品を

 読んでみると、神谷の好みと一致していてとても好ましく感じた。

 この子、応援してあげたいな。

 神谷はそう感じた。



 美月は美しい少女だった。

 色白ですらりと背が高く芸能人と言われても問題ないような美貌の持ち主だった。

 だが美月には哀しい過去があった。

 美月は小さい頃から、空想した物語をノートに書くのが好きだった。

 ある日、自分が書いた物語を、仲のよい友達に見せた。

 ところが、その友達は美月に断りもなく、ほかの子たちにノートを見せてたのだ。

「ねえ、これ読んでみて。美月が書いたんだって」

 子どもたちは文章を読みながら笑いました。

「なにこれ、変なの」

「美月って、こんなの書いてるの?」

 美月は顔が熱くなるのを感じた。

 自分が大切にしていた物語が、みんなに笑われている。

 取り返そうと手を伸ばしても、ノートは次の子へと渡されていった。

 その日以来、美月は自分の書いたものを人に見せるのがなった。

 けれど、物語を書くことだけはやめられなかった。

 誰にも見せないノートの中で、美月は自分の居場所をつくり続けたのだ。

 又こんなこともあった。

 美月は、クラスの子たちから嫌なことを言われたり、持ち物を隠されたりしていた。

 ある日、とうとう我慢できなくなり、先生に相談した。

 ところが、先生は相手の子たちに事情を尋ねたあと、美月にこう言った。

「美月ちゃんも、もう少しみんなとうまくやろうね」

 美月は驚いた。

 自分は何も悪いことをしていないのに、どうして自分まで注意されるのだろう。

 その後、先生に相談したことがクラスに知られ、子どもたちから「先生に告げ口した」と責められてしまう。

 美月は、もう誰にも相談できなくなった。

 困ったことがあっても、悲しいことがあっても、笑ってやり過ごすようになったのです。

 又家庭でも問題があった。

 美月は母親に褒めてもらいたくて、一生懸命に勉強したり、家の手伝いをしたりしていた。

 けれど、母親は美月の努力を認めてくれなかった。

「こんなこともできないの?」

「どうして、ほかの子みたいにできないの?」

「あなたのために、私はどれだけ苦労していると思っているの?」

 美月は、母親に嫌われたくなかった。

 だから、悲しくても反論せず、いつも「ごめんなさい」と謝った。

 そして、いつしか自分が悪くなくても、自分が悪いのだと思うようになってしまった。

 大人になった美月は、誰かに優しくされると、うれしい反面、戸惑ってしまう。

 自分なんかが、こんなに優しくしてもらっていいのだろうか。

 相手に迷惑をかけたら、嫌われてしまうのではないだろうか。

 そんな不安を抱えてしまうのだ。

 又高校ではこんなことがあった。

 高校二年生の春だった。

 美月は、クラスの中で自分の居場所を見つけられずにいた。

 誰かと話すことが嫌いなわけではない。

 友達が欲しくないわけでもない。

 ただ、周囲の女の子たちが楽しそうに話している会話に、どうしてもうまく入っていけなかった。

 流行の服や化粧品、恋愛の話。

 みんなが当たり前のように知っていることを、美月はほとんど知らなかった。

 話しかけられれば笑顔で答えた。

 誰かに頼まれれば、嫌だと言えずに引き受けた。

 それなのに、いつの間にか美月は、クラスの中で少し変わった子として扱われるようになっていた。

 ある日の放課後、担任の教師から文化祭のクラス企画について相談された。

「美月さん、展示の紹介文を書いてみない?」

 文章を書くことが好きだった美月は、喜んで引き受けた。

 家に帰ると、机に向かい、何度も文章を書き直した。

 どうすれば、みんなに楽しんでもらえるだろう。

 どうすれば、クラスの役に立てるだろう。

 そんなことを考えながら、夜遅くまで作業を続けた。

 翌日、美月は完成した原稿を担任に渡した。

「よく書けているね。これなら、みんなにも喜んでもらえると思うよ」

 先生の言葉がうれしかった。

 自分にも、できることがある。

 そう思えたのは、久しぶりのことだった。

 ところが、数日後。

 教室で、クラスの女子たちが美月の原稿を手にして笑っていた。

「なんか、真面目すぎない?」

「これ、誰が書いたの?」

「美月だよ」

 その名前が聞こえた瞬間、美月の足が止まった。

「やっぱり。なんか美月っぽいよね」

 悪意があったのかどうか、美月にはわからなかった。

 ただ、自分が一生懸命に書いたものが、知らないところで笑い話になっている。

 その事実が、胸に刺さった。

 美月は何も言わずに教室を出た。

 廊下の窓から、校庭が見えた。

 楽しそうに笑いながら走っていく生徒たち。

 自分もあの輪の中に入れたら、どんなにいいだろう。

 けれど、どうすればいいのか、もうわからなかった。

 翌日から、美月は学校を休むようになった。

 最初は一日だけのつもりだった。

 けれど、朝になるとお腹が痛くなった。

 制服に袖を通そうとすると、胸が苦しくなった。

 また教室に行けば、みんなの視線を気にしてしまう。

 誰かが笑うたびに、自分のことを笑っているのではないかと思ってしまう。

 母親には、学校で何があったのか、うまく説明できなかった。

「学校には行かなきゃ駄目でしょう」

 そう言われるたびに、美月は「うん」と答えた。

 けれど、体が動かなかった。

 担任との面談も行われた。

 先生は心配してくれたが、教室に戻ることを勧めるばかりだった。

「みんな、そんなに気にしていないと思うよ」

「美月さんが考えすぎているところもあるんじゃないかな」

 先生に悪気がないことはわかっていた。

 それでも、美月は自分の気持ちをどう説明すればいいのかわからなかった。

 自分でも、何がそれほどつらいのか、うまく言葉にできなかったからだ。

 やがて、美月は高校を辞めることを考えるようになった。

 最初は、逃げているだけなのだと思った。

 ここで辞めたら、きっと後悔する。

 もっと頑張れば、みんなと仲良くなれるかもしれない。

 何度も自分に言い聞かせた。

 けれど、学校に行けない日々は続いた。

 ある晩、美月は母親に告げた。

「私、高校を辞めたい」

 母親は驚いた顔をした。

「どうして? まだ二年生でしょう。卒業まで頑張ればいいじゃない」

 美月はうつむいた。

「頑張りたいとは思ってる。でも、もう学校に行くのが怖いの」

 声が震えた。

「私、みんなと同じようにできないんだと思う」

 母親は何か言いかけたが、美月はそれ以上話せなかった。

 自分の気持ちを説明することにも、疲れてしまっていた。

 その後、家族や学校と話し合いを重ねた末、美月は高校を中退した。

 その後独学で小説を学び現在に至っている。

 小説家を目指しているのだがなかなか簡単にはそうはなれない。

 内職をしながら小説家を目指している。

 本当は外に出て働いたほうがいいのだろうが様々な出来事から人間不信になり、外に出るのが怖いのだ。だから今は内職を引き取りに来る人や母親以外の人間とは全く交流していない。



 それから、数週間が過ぎた。

 美月は新しい作品を少しずつ書き進め、完成したところから投稿していった。

 神谷は、その更新に気づくと、時間のあるときに読むようになった。

 新作の主人公は、前の作品とは違っていた。

 周囲の人間に合わせることが上手で、誰からも「いい子」だと思われている。しかし、他人の期待に応えようとするあまり、自分が何を好きで、何を望んでいるのか、わからなくなってしまった女性だった。

 ――――ある日、彼女は友人に尋ねる。

『自分の好きなものがわからないって、そんなにおかしいことかな』

 友人は、すぐには答えなかった。

 そして、しばらくしてから言った。

『おかしくないよ。でも、わからないままでもいいって、自分に言ってあげてもいいんじゃない?』

 神谷は、その場面を読み返した。

 人の心は、正しい答えを教えれば変わるものではない。

 本人が自分の気持ちに気づくまで、待たなければならないこともある。

 神谷は職業柄、そのことをよく知っていた。

 だからこそ、この若い書き手が、答えを押しつけるのではなく、登場人物が自分で答えを見つけていく過程を描こうとしていることに、心を動かされた。

 もっとも、作品はまだ完成されていなかった。

 場面のつながりが急だったり、登場人物の気持ちが説明的になったりするところもある。

 それでも神谷は、続きを読みたいと思った。

 更新が止まっていると、少し気になった。

 新しい話が投稿されていると、仕事を終えたあとに読むのが楽しみになった。

 それは、誰かの人生を背負いたいという気持ちとは違っていた。

 ただ、一人の書き手が、どんな物語を紡いでいくのかを見ていたかったのだ。



 ある夜、美月から感想欄に返信が届いた。

『いつも読んでくださって、ありがとうございます。

 Kさんの感想を読むと、もう少し頑張ってみようと思えます。

 まだまだ未熟ですが、いつか、誰かの心に残る小説を書けるようになりたいです』

 神谷は、画面を見ながら考えた。

 彼女は、褒められたから書くのではない。

 読んでもらえたことが嬉しくて、また書こうと思えるのだろう。

 その気持ちは、創作を続けるうえで大切なものだった。

 神谷は、いつものように返信を書き始めた。

 けれど、途中で指を止めた。

 自分の言葉が、彼女にとって必要以上に大きな意味を持つようになってはいけない。

 自分が褒めたから書くのではなく、自分が期待しているから書くのでもない。

 彼女自身が書きたいと思うから、書いてほしい。

 そう考えて、文章を少し直した。

『こちらこそ、いつも楽しませてもらっています。

 未熟だと思うところがあるのなら、一つずつ学んでいけばいいと思います。

 ただ、誰かの心に残る作品を書こうとするあまり、自分の書きたいものを見失わないでくださいね。

 あなたが何を書きたいのか。それを大切にしてほしいと思います』

 送信したあと、神谷は椅子の背に体を預けた。

 彼女がこの言葉をどう受け取るかはわからない。

 それでも、伝えておきたかった。

 誰かに認められることと、自分の価値を誰かに決めてもらうことは違う。

 美月がいつか、その違いを自分のものにできたらいい。

 神谷は、まだ知らなかった。

 この小さな交流が、やがて自分自身の心を揺さぶることになるとは。

 そして美月もまた、まだ知らなかった。

 画面の向こうで自分の小説を読んでいる「K」という人物が、いつか自分にとって、単なる読者ではいられなくなることを。


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