①2人の出会い
神谷が初めて美月の小説を読んだのは当直の夜だった。
お正月だというのに当直で病院にいた神谷は相変わらず眠れず、そんな日は小説投稿サイトを読んで時間つぶしをしていた。
色々なサイトがある中でその日神谷が見たのは、小説の投稿サイトで“まずはかこれから”という編集部がピックアップした投稿を何の気なしに探っていた。
特に意識もしていなかった。
ピックアップされていた投稿を順番に見ていく。
まあまあだな。
神谷が順番に見ていた時だった。
あるタイトルに神谷の手が止まった。
『雨がやむまでここにいて』
作者は美月、と書いてあった。
神谷がタイトルに惹かれて読み進んでいった。
――――雨の日が嫌いだった。
濡れるからでも、傘を持ち歩くのが面倒だからでもない。
雨の日は、世界中の人が少しだけ急いでいるように見えるからだ。
駅の階段を駆け下りる人。傘をぶつけ合いながら追い越していく人。濡れた靴を気にしながら、誰かに電話をかける人。
みんな、早く雨の外へ出たいのだ。
けれど、私には帰りたい場所がなかった。
正確に言えば、帰る家はある。
ただ、そこに帰っても、私の居場所があるとは思えなかった。
「傘、持ってないの?」
声をかけられたのは、駅前の小さな喫茶店の軒先だった。
顔を上げると、見知らぬ男の人が立っていた。
年齢は、私の父親くらいだろうか。
紺色の傘を片手に持ち、もう片方の手には、紙袋を提げていた。
「……はい」
「そっか」
男の人は、それ以上何も聞かなかった。
どうして傘を持っていないのか。
誰か迎えに来てくれるのか。
家は近いのか。
普通なら、そんなことを聞かれてもおかしくなかった。
でも、その人はただ、私の隣に立って雨を見ていた。
私は少しだけ、戸惑った。
人は、何かを聞いたら、その答えを欲しがるものだと思っていた。
答えれば、次の質問が来る。
答えられなければ、どうして答えられないのかと聞かれる。
黙っていると、機嫌を損ねる人もいる。
だから私は、いつも先回りして言葉を探していた。
相手が納得する答えを。
相手が望んでいる答えを。
自分が本当はどう思っているのかなんて、考える余裕もないまま。
「雨、なかなかやみませんね」
私がそう言うと、男の人は空を見上げた。
「そうだね」
それから、少し考えるようにして言った。
「でも、雨がやむまで、ここにいてもいいんじゃないかな」
私は、思わずその人を見た。
何を言っているのだろう。
早く帰ったほうがいいとか、濡れる前に走ったほうがいいとか、そういう言葉ならわかる。
けれど、ここにいてもいい。
ただ、それだけのことが、どうしてこんなにも不思議なのだろう。
「……帰らなくても、いいんですか」
口にしてから、私は後悔した。
何を聞いているのだろう。
この人は私の家族でもなければ、私の事情を知っているわけでもない。
困らせてしまったに違いない。
けれど男の人は、困った顔をしなかった。
「帰りたくないときだって、あるでしょう」
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
泣きそうになった。
どうしてだろう。
帰りたくない理由を聞かれたわけでもない。
かわいそうだと言われたわけでもない。
頑張っているねと、褒められたわけでもない。
ただ、帰りたくないときもあるのだと、当たり前のことのように言われただけだった。
私は、ずっと自分の気持ちを説明しなければならないと思っていた。
説明できなければ、認めてもらえないと思っていた。
けれど、この人は、理由を知らないまま、私の気持ちを否定しなかった。
「……私、変ですよね」
「どうして?」
「だって、みんな家に帰るのに」
男の人は、しばらく黙っていた。
やがて、私のほうを向いて言った。
「みんなが普通にできることを、君も同じようにできなければいけない理由はないと思うよ」
私は、何も言えなかった。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
雨はまだ降っていた。
駅前を歩く人たちは、相変わらず急いでいた。
世界は何も変わっていない。
それなのに私は、さっきまでとは違う場所に立っているような気がした。
「ありがとうございます」
ようやく、それだけ言った。
男の人は小さく笑った。
「どういたしまして」
それから、腕時計を見た。
「私はそろそろ行くけれど、君はもう少しここにいてもいいと思うよ」
男の人は傘を開き、雨の中へ歩いていった。
私はその背中を見送った。
名前も知らない。
どこへ行くのかも知らない。
きっと、もう会うこともないだろう。
それでも私は、あの人がくれた言葉を、しばらく忘れないと思った。
帰りたくないときだって、あるでしょう。
みんなが普通にできることを、君も同じようにできなければいけない理由はない。
その言葉を心の中で繰り返すと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
私は、雨がやむのを待つことにした。
誰かに許してもらうためではない。
誰かに褒めてもらうためでもない。
今はただ、もう少しだけ、ここにいたかったから。
初めて、自分の気持ちを、自分で選んだ気がした。
何気なく開いた神谷は、最初の数行を読み、指を止めた。
――――――雨の日が嫌いだった。
その理由が、濡れることではなく、世界中の人が急いでいるように見えることだという。
神谷は、もう一度その一文を読んだ。
この作者は、雨そのものを書いているのではない。
雨の日に、周囲の人間と自分との間にある距離を感じてしまう人を書いているのだ。
読み進めるうちに、神谷の表情は少しずつ変わっていった。
登場人物の台詞には、ところどころ説明的な部分もある。文章の運びも、熟練した作家のように洗練されているわけではない。
それでも、読み飛ばせなかった。
とりわけ、見知らぬ男が少女に理由を問いたださず、ただ隣に立っている場面。
神谷は、そこでしばらく画面を見つめた。
人を助けたいと思うとき、人はつい、理由を知ろうとする。
何があったのか。
誰に傷つけられたのか。
何をしてあげればいいのか。
もちろん、それが必要なこともある。
けれど、ときには理由を説明すること自体が、その人にとって大きな負担になる。
何も説明できなくても、うまく言葉にできなくても、苦しいという気持ちだけは存在している。
この作者は、そのことを知っているのだろうか。
神谷は、作者プロフィールを開いた。
19歳。
その数字を見て、少し意外に思った。
19歳という年齢で、これほどまでに、誰かに理解してもらえない寂しさを丁寧に描こうとするのか。
神谷は、作者の人生を勝手に想像することはしなかった。
作品に描かれた感情が、必ずしも作者自身の経験だとは限らないからだ。
ただ、一つだけ思った。
この人は、人の心をよく見ている。
そして、最後の一文まで読み終えたとき、神谷はすぐに次のページへ進むことが出来なかった。
物語の主人公は、誰かに救われたわけではない。
見知らぬ男が人生を変えてくれたわけでもない。
雨がやんだかどうかさえ、書かれていない。
ただ、自分がそこにいたいと思ったから、そこにいることを選んだ。
それだけの小さな変化だった。
けれど、神谷には、その小ささこそが大切に思えた。
人は、劇的な出来事によってしか変われないわけではない。
誰かの何気ない一言が、それまで疑うことさえできなかった思い込みを、ほんの少しだけ揺るがすこともある。
神谷は感想欄を開いた。
何かを書きたいと思ったが、安易に「感動しました」と書くのは違う気がした。
この作者が描いたものを、きちんと受け取ったことが伝わる言葉を探したかったのだ。
しばらく考えたあと、神谷は文章を打ち始めた。
「誰かに救われる物語でありながら、最後に主人公が選ぶのは、自分自身の気持ちなのですね。静かな作品ですが、読後に長く残るものがありました。次の作品も、楽しみにしています」
送信ボタンを押すと、神谷は画面を閉じた。
たった一つの感想だ。
作者が読んでくれるかどうかもわからない。
それでも、その夜、神谷は久しぶりに、まだ読んだことのない誰かの作品を待つ楽しみを覚えていた。
そして数日後。
美月から、短い返信が届いた。
神谷が美月からの返信に気づいたのは、翌日の夜だった。
診察を終え、帰宅して夕食を済ませたあと。書斎で翌日の仕事の準備をしていた神谷は、何気なく開いた投稿サイトの通知欄に、一件の新着メッセージを見つけた。
送り主は、昨日読んだばかりの小説の作者だった。
『読んでくださって、ありがとうございます。
感想をいただいたのは初めてだったので、とても嬉しかったです。
自分では、何を書きたいのか、途中でわからなくなってしまうこともあります。でも、最後まで読んでくださった方がいて、書いてよかったと思えました。
また、頑張って書いてみます』
神谷は、画面を見つめた。
丁寧で、少し遠慮がちな文章だった。
自分の作品を褒められた喜びよりも、最後まで読んでくれたことへの感謝が先に立っている。
その言葉に、神谷は好感を持った。
まだ若い書き手なのだろう。作品には粗削りな部分もあったが、だからこそ、これからどんなものを書いていくのか興味が湧いた。
神谷は返信を打った。
『こちらこそ、素敵な作品をありがとうございました。
何を書きたいのかわからなくなることは、私にもあります。仕事で文章を書くときでさえ、最初に考えていたものと、書き終えたものが違ってしまうことがありますから。
すぐに答えが見つからなくても、書き続けることで見えてくるものもあるのではないでしょうか。
次の作品も楽しみにしています』
送信してから、神谷は少し笑った。
普段、仕事で誰かに助言をするときには、相手がどう受け取るかを慎重に考える。
けれど、今回は一人の読者として、素直に言葉を返したかった。
彼女が小説を書き続けてくれたら、それでいい。
その程度の、ささやかな気持ちだった。
美月は、スマートフォンに届いた通知を見て、目を丸くした。
昨日、初めて感想をくれた人から、また返信が届いていた。
自分の文章を、もう一度読んでくれたのだろうか。
そう思うだけで、胸が温かくなった。
美月は、これまで何度も小説を書いてきた。
頭の中では、登場人物たちが生き生きと動いている。彼らが何を考え、何に傷つき、どんな言葉を待っているのかもわかる。
けれど、それを文章にすると、思うように伝わらない。
投稿しても、ほとんど読まれない。
たまに感想がついても、短い言葉だけで終わることが多かった。
それでも、書くことをやめられなかった。
自分の中にある、形にならない気持ち。
誰かにわかってほしいのに、うまく説明できないもの。
それらを物語の中に置くと、ほんの少しだけ、息がしやすくなる気がした。
画面に表示された文章を、美月はもう一度読んだ。
何を書きたいのかわからなくなることは、私にもあります。
その一文が、特に心に残った。
感想をくれた人は、自分よりずっと大人なのだろうと思っていた。
文章からは、落ち着いた印象を受ける。言葉を選ぶのも上手で、こちらが何を伝えたいのか、急かさずに受け止めてくれる。
そんな人でも、迷うことがあるのだ。
美月は、返信欄を開いた。
『ありがとうございます。
書き続けることで、いつか自分が本当に書きたかったものがわかるようになるでしょうか。
私は、まだ自信がありません。
でも、もう少し書いてみたいと思います』
送信してから、美月はスマートフォンを胸元に抱えた。
たった数行のやり取りだった。
相手の顔も、名前も、年齢も知らない。
それなのに、自分の書いたものを誰かが真剣に読んでくれたという事実が、こんなにも嬉しい。
美月は、机の上に開きっぱなしになっていたノートパソコンに向き直った。
新しい小説のファイルを開く。
タイトルは、まだ決まっていない。
主人公は、いつも人の顔色をうかがってしまう女の子だ。
誰かに嫌われるのが怖くて、本当の気持ちを口にできない。
けれど、そんな彼女にも、いつか自分の意思で何かを選ぶ日が来る。
美月は、ゆっくりと文字を打ち始めた。




