09.求婚してください
「ありがとう、リーウィア嬢」
事が終わり、イェルドが向けてきた表情には、長年に渡って悩まされてきた鈍痛が消えたような解放感が浮かんでいた。
「こんなにも穏やかな気持ちになれたのは何年ぶりだろうか。君が私にとって特別な人であることを改めて実感できたよ」
「そう言っていただけたなら勇気を出した甲斐がありました」
「私は君の不安を解消できただろうか」
「はい。でなければ私から『お鎮めしましょうか』などと申しません」
彼がリーウィアの気持ちをきちんとわかってくれていたことが嬉しい。
やり方は極端だったかもしれない。
だけど心と体に消えない傷を負い、一度は女としての幸せを諦めたこの身の上で、もしイェルドに裏切られることがあったなら、きっとリーウィアは今度こそ立ち直れなくなる。
「間違いなくイェルド様はその身で以って私を恐れから解放してくださいましたよ」
「だったら良かった」
「ただ一つだけ、イェルド様にご理解いただきたいことがあります」
リーウィアはバスローブ一枚をまとってイェルドの前に立ったときの心情を明かす。
貴族間の婚姻において、夫人に求められる最も重要な役目は子を成すことだ。
そしてイェルドはすでに名門レウリアーダ辺境伯家の当主だが、リーウィアは一介の伯爵家の令嬢に過ぎない。
「私を欲するお気持ちがこの上なく強いことは伝わりました。しかしそれを踏まえても、イェルド様のなさりようはいささか感情に寄りすぎておられます」
事実、イェルドがリーウィアに向ける気持ちの強さが、論功行賞の場での事件を起こした。
「イェルド様が想像されている以上に、貴家が持つ力は大きいのだということをご理解ください。
ここまでの経緯を考えれば、当家がこの縁談を断る余地は無いに等しかったのです。
ですから私は伯爵家の娘として、家門同士の確執が生まれることもまた恐れました。
傷痕を見たあなた様が本当に『私を抱ける』のか、その確証を得られないまま婚約を結ぶことはできなかったのです」
イェルドの瞳からみるみる光が失われていき、その視線を力なく落とした。
「リーウィア嬢の言うことはもっともだ……。
君がどんな覚悟を以ってこの見合いに臨んでいるのか、もっと想像を巡らせるべきだった。すまない……」
リーウィアとしては「これはちゃんと言っておかないと」と思って告げただけだったのだが、こうまであからさまに感情の落差を見せつけられてはさすがに罪悪感に駆られる。
だからこそリーウィアは、不敬だと自覚しながらも思ってしまう。
(ころころと表情をお変えになられて。可愛らしい人……)
リーウィアは、がっくりと肩を落としているイェルドの太ももをツンツンと突いた。
「ところでいつになったら求婚してくださるのですか? ずっと待っているのですけれど」
「っ……」
弾かれたように仰ぎ見て、目を見開いたイェルドの瞳があっという間に光を取り戻していく。
それがもう面白くってリーウィアは思わず吹き出しそうになってしまった。
(うん、きっと私はこの方を好きになれる)
ふと、王太子妃アンネリーエの顔が頭をよぎった。
敬愛し、慕ってやまないあの人は、リーウィアにだけ王太子妃の仮面を脱ぎ捨て感情をむき出しにしてくれる。
イェルドもそう。
リーウィアに「君に隠すものは何もない」とでも言うように内側を惜しげもなくさらけ出してくれている。
その在り方がリーウィアの胸を温かくしてくれる。
寄せてくれる信頼に応えてあげたくなる。
「リーウィア・マイエル伯爵令嬢――」
片膝を付いたイェルドが、リーウィアの手を宝物を扱うようにそっと持ち上げた。
「私、イェルド・レウリアーダは、君がこれから覚える苦しみも、その傷の痛みも、すべて引き受けてあげたいと願っている」
リーウィアはイェルドと目と目を合わせながら思う。
本当に、本当に心苦しくあるけれど。
リーウィアはイェルドが向けてくれるような激しい恋情を抱いてあげられないかもしれない。
だって政略結婚とはそういうものだから。
「私という男の生涯は、今日この時から、君に安寧をもたらすためだけに捧げたいと思う」
だけどせっかく一緒になるのだから信頼し合える夫婦になりたい。
「リーウィア嬢。私の妻として隣にいてくれないか。君が歩む道に二度と暗い影を落とさせないことを誓う」
――イェルドとなら育んでいけるような予感がしていた。
「謹んでお受けいたします」
「ありがとう、幸せにする」
名門貴族家の当主とは思えない、魂の芯まで蕩けきったような無防備な笑み。
彼ひとりで完結しているような多幸感が妬ましくて、少しばかりリーウィアの胸をちりりと焦がした。
「ずるくないですか?」
「ずるい?」
「おひとりだけ少年のような笑みをされて、なんだか置き去りにされた気分です。夫婦になりますのに」
「ふっ……あははっ」
イェルドは一瞬目を丸くして、それからやはり少年のような屈託のない笑い声をあげた。
「それは仕方ないさ。純粋な政略結婚である君と違って、私は一目惚れから入っているんだ。その恋心にしたって二年もかけて熟成を重ねている。そもそも立っている舞台からして違うんだよ」
「恋が叶って良うございましたね」
「ああ、おかげさまで。私は今日この日の喜びを噛みしめるために生まれてきたのだと、確信を持って言えるくらい幸せだ」
「むぅ……」
「拗ねる君もじつに魅力的だ、なんて愛らしいんだ」
「納得いきません。イェルド様ばっかり。婚姻どころか、婚約前の淑女の柔肌に触れられたのに……」
「そ、それは……」
「私もイェルド様と同じ気持ちになりとうございますっ」
リーウィアはふわりと微笑むと、幸せに水を差され、顔を強張らせているイェルドの顔を覗き込んだ。
「これからたくさん口説いて惚れさせてください。約束してくださいますか?」
「ああ、もちろん。きっと君を夢中にさせてみせよう」
「リーウィアと」
「わかった、リーウィア、約束する」
「はいっ」
なんて物語のような甘いやり取りを交わしてみたけれど。
その余韻は長く続かず、あっという間にイェルドの顔が渋いものに変わった。
「けどなあ……じっさいのところリーウィアが言うのも一理ある。婚約すら結ぶ前にこんなこと……。情けないやら恥ずかしいやらで顔から火が出そうだ」
「念のために申し上げておくと、外に漏れる心配はございませんよ? あの子は私専属ですから」
「あの使用人の子か」
「はい、事前に固く口止めしてあります」
「行き届いた配慮に感謝するが、もしこんなことが伯爵に知れようものなら私は殺されるだろうな」
「最初から当家に断る選択はなかったのです。父はお目溢しくださると思いますよ?」
「手厳しいことで」
もちろんイェルドが力を背景に無体を働いたなら父フーゴは断固とした措置を取るだろう。
これは父親というより伯爵としての行動だ。
自家の令嬢を穢され黙っているようでは貴族として終わる。
だが今回はリーウィアから誘ったことで、純潔だって保ったままなのだから、もし事が露見しても父は叱責だけで済ませてくれるはず、という読みがリーウィアにはあった。
「でも、お小言で済ませてくださらない方もいらっしゃいます。もしアンネリーエ様に知れたら――」
「私は縛り首か」
「さて、どうでしょう? 烈火のごとくお怒りになることは確実でしょうね」
「ただでさえ妃殿下には論功の一件で嫌われているんだ。これ以上の不興は買いたくない」
「そうおっしゃってもアンネリーエ様は私のことが大好きですから。婚約するとなったらもっと嫌われてしまうかもしれませんよ?」
「なら是非もない。リーウィアを手に入れるためなら、私は妃殿下と戦うことも辞さない所存だ」
「そのような物騒なことをおっしゃらずに仲良くしてくださいませ。私にとっても大切な方なのです」
「方針を変更する。全力で媚びよう」
「ふふ、おかしなかた。媚びずとも良いのです。普通に仲良くしてください」
それから二人は緊張が解けていくのを感じながら、ゆっくりと言葉と心を交換していった。
リーウィアの突飛な行動から順番があべこべになってしまったけれど、ようやくお見合いらしくなってきたと言える。
互いの好みや趣味など個人のことだけではなく、リーウィアが将来嫁ぐことになるレウリアーダ家のことも話し合った。
なにぶんイェルドは二十四歳にしてすでに当主の座に就いている。
かたや、いきなり名門の女主人となるリーウィアはまだ十九歳だ。
貴族的価値観が強いリーウィアとしては極端な話、個人のことよりもお家の話の方がよほど重要だった。
二年前の〝一度目の縁談〟のことも話題に上がった。
「私がリーウィアに一目惚れしたことは聞いているだろう?」
「はい」
「一目惚れしたのは事実だ。じっさい私はその翌日からマイエル家へ縁談を申し込もうと動いた」
父と決闘騒ぎになったり大変だったけどな、とイェルドは当時を思い出してか困った風に笑う。
「結果はすでに伝えたとおり、伯爵に断られてしまったわけだ」
「イェルド様個人を問題視したわけではないとおっしゃっていましたけど」
「ああ、当時は時勢が悪かったんだ」
イェルドが縁談を申し込んだ頃、グランフェルト王国と隣国とのあいだで不穏な空気が流れていた。
半月ほど前に終戦講和が成ったイグサーマク王国とはまた別の国だ。
「当時は色々なことが積み重なって両国の緊張が高まっていた。
最終的に外交決着が成ったことで戦端が開かれることはなかったんだが、伯爵が問題視したのは、その国境を守護しているのが我がレウリアーダ家だったという点だ」
いつ戦争状態に入るかわからない状況のなか、婚約を結ぶのは時期尚早というのが父フーゴの判断だったという。
「戦端が開かれれば私がどうなるかわからないし、君の身にも危険が及ぶかもしれない。妥当な判断だったと思う」
「そういうことでしたか」
「状況が落ち着くまで待ってほしいと、無理にでも伯爵に頼むべきだったのかもしれない。
ただ当時の私はそこまで我を通せなかった。
私自身、君を確実に幸せにできると自信を持てていなかったし、あのときの君は十七歳だった。
貴族令嬢として一番良い年頃だ。私の我儘で君の人生を台無しにしたくないという気持ちもあった」
そこでイェルドがふと、思い出したように口にした。
「そういえば醜聞のことを訊かないんだな。真っ先に話題に上がるだろうと身構えていたんだが」
「そうですね……」
そう曖昧に答え、リーウィアはどこから話すべきか頭のなかを整理してみた。
「……少し、遠回りになりますけど聞いていただけますか」
「もちろん」
「私は昨日、父たちからお話を聞いたときから、この縁談はあらかじめ着地が決められているものだと考えていました」
その着地を談合したのはリーウィアの両親、王太子妃、魔導卿、そしてイェルドの父である前レウリアーダ辺境伯の五人。
王太子妃アンネリーエは王家の意向、魔導卿については王家と自身の意向として良いかもしれない。
どこの意向かはさておき、あの五人が着地を握り合っていたことは間違いないとリーウィアは見ている。
「私は入っていないんだな」
「事の発端となった論功の事件を起こされたのはイェルド様です。五人にとってこれは想定外だったに違いなく、であるならイェルド様は恐らく私と同じ立場だろうなと考えました」
「同じ立場とは?」
「皆様に利用される側という意味です」
利用というのは言い過ぎかもしれませんね、とリーウィアは苦笑する。
「悪意があるとか、そういう意味の利用ではありません。言葉のまま『都合が良いから乗じる』という意味です」
「興味深い話だ。続けて」
イェルドの表情は言葉どおり興味を惹かれている様子で、他意が含まれているようには見えなかった。
「その前にイェルド様はグルなのですか?」
「いいや、私は関わっていない。昨晩、父と御老からリーウィアの様子を聞いたときも、そうした話は出なかった」
ただ――と、イェルドは一拍の沈黙。
なにか得心したように小さく首肯してから沈黙を解いた。
「たった今、五人がなにを握っていたのかおおよそ察しがついた。それぞれの思惑についても。
これはほぼ確実に当たっていると思う。
ただリーウィアの立場だとまず気付けない内容だな」
リーウィアは実に愉しげにニンマリと笑った。
「そういうの大好きなんです。答えを言わないでください」
「そう?」
「はいっ」
「ではさきに続きを聞こうか」
リーウィアは満を持してイェルドに尋ねた。
「イェルド様は――〝魔種〟でしょうか?」
「っ……」
イェルドの目が大きく見開かれた。




