10.傷物才媛が見抜けなかったこと
「イェルド様は〝魔種〟でしょうか?」
「っ……」
イェルドが大きく目を見開いた。
「……驚いた。魔種を知っているのか。王国学舎首席は伊達じゃないな」
「そうではないのです。私が魔種の存在を知ったのは偶然に過ぎません」
リーウィアが魔種を知る切っ掛けとなったのは子供の頃の体験だ。
「イェルド様には妹君がいらっしゃいますよね」
「ああ、それが?」
これは手前の雑談を通じて初めて知ったことだ。
イェルドは三人兄弟の長男。弟と妹がいると聞いた。
弟が二十一歳とのことで、リーウィアはひそかに「年上の義弟ってどう接すればいいのかしら?」などと、多少のやりづらさを感じていることは秘密だ。
「貴家がどうなのかは存じませんけど、領地貴族の令嬢は定期的に自領の慰問や奉仕活動などを行います」
領地貴族の多くが社会救済事業を支援している。
そして領地貴族家の子供――そのなかでも主に令嬢はこの手の事業に関わることを義務付けられることが多い。
教育の一環であり、社会的責任を果たす意味もある。
「それならレウリアーダでもやっているよ。妹だと養護施設とか医療施設の手伝いとか」
「それです。これは私が十歳くらいの頃の話なのですけど――」
リーウィアはその日、身寄りのない子供を養育する施設の手伝いに訪れていた。
もう何度も訪れている施設で、ほとんどの子供と顔見知りだった。
「でもその日は見たことのない男の子がいて、しかもその子は腕に大きな火傷を負っていたのです」
「…………」
それだけでイェルドがかすかに眉をひそめた。
早くもあとの展開に予想がついたのかもしれない。
「右腕全体に及ぶ大きな火傷でした。もちろん私はどうしてそんなことになったのか尋ねました」
その男の子は答えた。――わからない、突然腕から火が出た、と。
「施設の先生にも尋ねました。内容は同じで『直接現場を見たわけではないけれど、突然腕が発火して大火傷を負った』のだと」
「その子の歳は?」
「私のひとつ下です」
「名前は? 今どうしているのかわかるか?」
「どちらも存じません。よろしければ調べさせましょうか?」
「いや、そこまで知りたいわけじゃないんだ。もしかしたら名前くらいは知っている者かと思ったんだが、リーウィアのひとつ下なら今は十八だろう? まして平民出の魔種だ。まず私が知らない者だろう」
「やはりあの子は魔種だったのでしょうか」
「かなり高い確度で魔種だと思う」
イェルドが言うには、正しい魔力操作の教育を受けていない、もしくは魔種であることに無自覚な者に起こりがちな魔力暴走の事故なのだそうだ。
「その子は当時九歳だ。魔種はもともと希少種だが、平民出身の魔種となるとさらに希少になる。孤児という身の上で高度な魔力操作を身につけることは不可能に近い。その事故が起こることは時間の問題だったと思う」
「私はその子を見て怖くなりました。……いえ、正直に言うと怖くはありましたが、それ以上に興味を惹かれてしまったのです」
突然身体が発火するなんて話を聞いたことがなかったからだ。
「だから自分で調べたと」
「はい、魔力について調べるなかで魔種の存在を知りました」
この世界の人々は、その大小はともかくとして、ほとんどの人が魔力という力を持っている。
魔力の量は貴族の血統を持つ者のほうがより多く持って生まれる傾向にある。もしくは将来的に高い魔力量を備える才能を持って生まれることが多い。
これは、より高い魔力を求めて血を重ねていった結果だ。
こうしたなかで稀にだが、非常に豊富な魔力量を持つ者が現れることがある。
この極めて高い魔力量を持つ者を指して〝魔種〟と呼ぶ。
「もう一度お尋ねします。イェルド様は魔種でしょうか」
「ああ、私は魔種だ。ただし――」
「魔導卿閣下に類する〝魔種のなかでも特別な魔種〟であると推察します」
「まいったな……」
イェルドは苦笑してお手上げだとばかりに両手を持ち上げた。
「本当にわからない、どうしてそう思った?」
「ヨランお祖父様から類推しました」
「ううん?」
イェルドの顔に不理解の色が浮く。
リーウィアは小さな意趣返しを込めて返答とした。
「手前でイェルド様は『リーウィアの立場だとまず気付けない内容』とおっしゃいましたけど、そのお言葉をそのままお返しします。『イェルド様が特別な魔種であることを看破できた理由は、イェルド様のお立場ではまず気付けない』です」
「やってくれるなあ」
イェルドがじつに愉快だとばかりにニタリと笑った。
リーウィアもこうした読み合い的な会話が大好物なので、案外彼とはそういう方面でも気が合うのかもしれない。
嬉しい発見だ。
「結論から言ってしまえば、私が初めてヨランお祖父様にお会いしたとき、私が覚えた衝撃は、同じ特別な魔種であるイェルド様には共有できない感覚だということになります」
背の低い者が、背の高い者の視界を共有できないように、魔種と一般人はその保有する魔力量の差から感覚を共有できない。
イェルドはヨランが覚える感覚なら共有できるだろう。
だが二人は、一般人であるリーウィアの感覚を共有できない。
両者の保有する魔力量が隔絶しているからだ。
「私はヨランお祖父様をひと目見て『魔導卿とはこれほど人知を超えた存在なのか』と畏怖しました」
別にヨランがなにか特別なことをしたわけではない。
彼は魔法のひとつも使っていないのだから。
「ですがたとえ目に見えなくとも、お体から滲み出ている魔力の圧力は気取れました。あのような魔力的存在感を放つお人を私は見たことがありません」
「そして私もまた、君が言うところの魔力的存在感が御老に類するものであったと」
「はい、イェルド様には共有できない感覚でしょう?」
「確かに私の目には御老なんてただのクソジジイにしか見えないな」
「ふふ、駄目ですよ。そのような言い方をされては」
リーウィアはテーブルの傍らに置いてあったティーセットに手を伸ばした。
イェルドに新しいお茶を淹れてあげながらリーウィアは、
「――という次第なのですけど、今のはあくまでも個人の感覚に過ぎません。私と同じくらい魔力を感知できる人は少数だと思います」
「というと?」
「私の得意分野なのです。魔力操作と魔力感知は」
言って、リーウィアは手のひらを突き出し、指先に蝋燭の炎くらいの火属性魔法を発動させた。
それを五本分次々と灯しては消していく。
「上手いな」
「ありがとうございます。こういう小手先のことは得意なのですけど、魔力の出力と総量は低くて。実践的な魔法はほとんど使えないのです。だからこそ操作と感知ばかり練習した結果、この二つだけは学舎で〝最優〟の評価をいただけました」
「いや、誇っていいと思うよ。私には到底真似できない技術だ」
「そうなのですか? 魔種なのに?」
「まあ、その辺のことはまた改めて説明しよう。私や御老が魔導師として三流以下なのは事実だ」
「まさか」
「魔力操作と出力調整はリーウィアのほうがずっと上だよ。御老にも訊いてみるといい」
「そうしてみます」
リーウィアは新たに注いだ紅茶で唇を湿らせた。
「ここまでのお話を整理したうえで改めて、縁談の着地を握った五人の考えを紐解いてみます」
「そこまで踏み込めるのか」
「どうでしょうね。私の立場で本当に気付けないのか、その答え合わせをイェルド様にしていただきたく思います」
「いいよ、君がどういう結論に至ったのか聞かせてもらおう」
リーウィアはまず結論を置くことにした。
「談合した五人は、私に魔種イェルド・レウリアーダ様を管理させたいのだと推察します」
「……その結論に至った根拠を聞かせてくれ」
ここまでの話で揃っている材料は三つ。
・この縁談を持ち込んだ五人は着地を談合していること。
・イェルドは魔種であり、そのなかでも魔導卿ヨランに類する特別な魔種であること。
・リーウィアは魔力操作と魔力感知に習熟していること。
そしてリーウィアは、五人の企図するところ――『リーウィアに魔種イェルドを管理させたい』と結論するに必要な材料をさらに置いていく。
「この部屋に移動する際に、イェルド様に抱っこしていただきましたよね」
「ああ、夢のような体験だった」
「そういうのは今はいいです」
「君がたくさん口説いてくれって言ったんじゃないか」
「言いましたけど、それはまた今度にしてください」
「了解しました。お姫様」
「抱き上げてほしいとお願いしたのは、直接イェルド様の肌に触れて確かめたいことがあったからです」
「なにを」
「イェルド様の魔力の状態をです。だからはしたないと思いながらも私から抱きつきました」
「匂いを嗅いでいたのは?」
「あれはっ、なんとなくです……」
「もしかして君にはそういう性癖が――」
「ちがいますっ! その、あんなにも殿方に近づいたのは身内以外だと初めてで……」
「なんとなく嗅いでみたくなったと」
「……言わないでください。おかしな癖とかではありませんから」
リーウィアはかすかに頬を赤らめつつ「んんっ」と喉を鳴らした。
「話を戻します。イェルド様の魔力を確かめようとしたことに特別な理由はありませんでした。身も蓋も無い言い方をすると、単なる好奇心です」
リーウィアはその動機をイェルドに補足した。
縁談を持ちかけられた昨日、リーウィアは部屋を辞す際にヨランに握手を求めている。
あのとき口にした「国家の大英雄に感謝を伝えたい」だとか「敬意を表したい」だとかは嘘ではない。
ただそこに「魔導卿閣下の魔力はどういう感じなのだろうか」という俗な好奇心が含まれていたというだけのこと。
生まれて初めて魔導卿と相まみえ、その凄みを目の当たりにした。
リーウィアは彼の手を握ることで魔種の頂きに立つ存在であろうヨランの魔力を覗いてみたくなった。
「それで、興味本位で確かめてみた結果、リーウィアは私の魔力をどう感じた?」
「三つあります」
・イェルドが尋常ならざる魔力を持っていること。
・それが器である肉体の中で猛り狂う奔流のように激しく駆け巡っていたこと。
・そして魔力が――たとえるなら、決壊寸前の表面張力で、かろうじてその身に留まっているような危うい均衡状態であること。
「後ろの二つは私にとって想定外でした。ヨランお祖父様と決定的に違っていたからです」
リーウィアは考えた。
イェルドとヨランで何故こうも違うのか。
魔力量の違いはよくわからない。あまりに多すぎて「とにかくたくさん」みたいな浅い評価しかできなかった。
だが二人が持つ魔力の「流れ」と「在り方」の違いには相応の理由があるはずだ。
ヨランの魔力は清流のように静謐であり、一方イェルドのそれは嵐のさなかにあるような激流であり、いつ堤からあふれ出すかわからないような状態なのだ。
「仮説を立てました。ですが私はそれに蓋をすることにしました。考察する材料が不足していたからです」
もっと言えば、その材料がすぐ手に入ることがわかっていた。
「どうか誤解しないでください。私は材料を集めたくて衣一枚をまとってイェルド様の前に立ったわけではありません」
「そんな誤解をするものか。君が行動を起こしたのは、私と婚約するにあたり、個人としても家門としても、どうしても確かめておかなければならなかったことだと理解している」
「安心しました」
「あの行為を通じてリーウィアはどんな材料を得た」
「…………」
「どうした」
「むぅ……」
「なんで唸る」
「ちょっと恥ずかしくて……」
頬を朱に染めて肩を揺するリーウィアに、イェルドがニタニタと笑いながら言う。
「二人っきりじゃないか。まして私たちは夫婦になるんだ。恥ずかしがることはない。ぜひ聞かせてくれ」
「いやらしいお顔をされて……。察しておられるのでしょう?」
「リーウィアの口から聞きたいんだ」
「イェルド様はえっちですね」
「男だからな」
「……二つ、ございます」
・昂りを鎮めたことで、イェルドの魔力が驚くほど安定したこと。
・イェルドが体外に〝排出したもの〟に魔力が含まれていなかったこと。
「――以上のことから私は三つのことを結論しました」
まずは一つ目。
「イェルド様が娼館に通い詰めておられたのは、ご自身の魔力の安定性を維持するためだったこと」
その裏付けに、性欲を発散したことで魔力は安定性を取り戻した。
「性欲を解消することで魔力の安定は得られるものの、それは精神的な作用であると考えられること」
体外に排出したものに魔力が含まれていなかったからだ。
にもかかわらず状態が安定した以上、原因は魔力量ではなく別にあると考えるのが自然だ。
そして三つめこそが重要だ。
「どうやら私には魔種の魔力を〝調律〟する力があるらしいこと――この三つです」
「……調律する力というのはさすがに飛躍していないか?」
そう突いてきたイェルドの表情はすでに硬いものに戻っていた。
「いいえ、理由こそ不明ですが、私は確かにイェルド様の魔力を調律する能力を持っています」
「なにが君をそれほど確信させる」
「イェルド様ご自身がそうおっしゃったからです」
「私が……?」
「あなた様は事後、確かにこうおっしゃいましたよ?」
――こんなにも穏やかな気持ちになれたのは『何年ぶり』だろうか。
「…………」
「あのとき『君は私にとって特別な人』ともおっしゃっていましたが、それは恋情から来たお言葉だと解釈できます。しかし『何年ぶりだろうか』はそうはならない」
イェルドが長年に渡って――それこそ娼館に入り浸っていた時期も含めて魔力が不安定であったことを吐露している。
「つまりイェルド様がどれだけ娼館に通い詰めて性欲を解消しようと、問題は解決しないのです。
だというのに、私とほんの少し触れ合っただけで、長年に渡って煩わされてきた鈍痛が消えたような解放感を得られてしまった。
私が特別なのだと考えてしまうのは飛躍でしょうか。
私には『魔種の魔力を調律する力』があるのですよね?」
イェルドは口を開きかけ、しかし小さく首を振ってから、
「ここまで来たんだ。君の最終結論を聞いてから答え合わせをしよう」
「最終結論、ですか?」
リーウィアは話の入口ですでに、五人の企図するところが『リーウィアにイェルドを管理させるため』だと結論している。
そして今に至るまでに、その根拠の数々を示してきた。
「君のご両親に妃殿下、私の父と御老。彼らがなにを握り合っていたのか。そこをまだ教えてもらっていないじゃないか」
リーウィアはイェルドが言わんとするところがわからず、首を傾げた。
「ですからそれは『私にイェルド様を管理させるため、この縁談を整えよう』と。そう皆様で握り合っていたということでは?」
「それが最終の答えということで構わないか?」
「……構いません」
重ねて言えることはあった。
五人それぞれが持つ背景は異なるし、縁談を整えようとする意気込みにも濃淡があったはずだ。
だとしても結論そのものは変わらない。
「見事だ」
ふいに乾いた音が部屋に響いた。
イェルドが感嘆を隠しきれないといった様子でゆっくりと柏手を打った。
「尋ねた人のすべてが口を揃えて『聡明な女性』だと言っていた意味がよくわかったよ。心から称賛したい」
「……ありがとう存じます」
イェルドの瞳には、自身の本質を深く、そして正しく言い当てられたことへの満足感のような感情が灯っている。
けれど慈しむようなその笑みに、リーウィアは奇妙な敗北感のようなものを予感してしまう。
「合っていましたか?」
「ああ、あくまでも私目線での答え合わせだけど、正答率は八割といったところじゃないかな」
「八割……」
「不満かい?」
「そんなことありません」
リーウィアは微笑して、ゆるゆると首を振った。
「手探りで集めた情報から自力で八割にたどり着けたなら十分満足です。それに……」
「それに?」
「少なくとも私が推察した内容はすべて合っているはずですから。それでも八割だということは、イェルド様がおっしゃったように私の立ち位置ではどうやってもたどり着けないことなのでしょう」
「それはどうだろう、正しいとも言えるし、間違っているとも言えるかもしれないな」
「というと?」
「確かに君の推察はすべて正鵠を射ている。だから残りの二割は間違っているんじゃなくて不足していただけだ。さらにその内の一割はリーウィアだとどうしてもたどり着けないもので、残る一割は……」
イェルドは一瞬口ごもったけれど――悲しみとも憐憫とも取れる複雑な眼差しを添えて口にした。
「残る一割は〝すれ違い〟だと思う。私の想像に過ぎないが」
「すれ違い……」
「そう、すれ違いだ」
イェルドは立ち上がり、リーウィアの隣に腰掛けた。
そうしてイェルドは影のある微笑を浮かべて、
「ただ私に言わせれば、このすれ違いは起こるべくして起こった不幸な事故だと思う。
何故ならリーウィアは利用されていると思っていて、事実、彼らは君を都合よく利用しようとしている。
利用される側と利用する側。
想いがすれ違っても不思議じゃない。立ち位置が真逆なんだから。
少なくともこの件でリーウィアが責任を感じる必要は一切ないと思う。責められるべきは利用した側だ」
リーウィアはぼんやりと首を巡らせ、少し高い位置にあるイェルドと目を合わせた。
「答え合わせを」
「じゃあ、さきに不足している一割について話そう。題目をつけるなら『魔種の特性とリーウィアの特異性について』といったところか」
イェルドは、これはリーウィアにはどうやっても推察しようのない情報だと前置きしてから語り始めた。
「リーウィアの、私と御老が魔種のなかでも特異な魔種であるという推察は正しい――」
先天的、後天的を問わず、極めて高い魔力量を持つ者を指して〝魔種〟と呼ぶ。
そしてイェルドやヨランはその魔種のなかでも『上澄みのなかのさらに上澄み』にあたる存在だ。
「ただ私や御老を例外だとしても、魔種自体がそもそも少ない」
故に魔種が持つある特性についてはほぼ世に知られていなかった。
「特性は二つある。――ひとつ、魔種は恒常的に強い性衝動に駆られる」
どうして魔力量がそうした作用を起こすのかについては解明されていない。
一方で、保有する魔力量に比例して性欲が強くなる傾向にあることはわかっている。
「強い性衝動とは言ったけど、これは一般人と比較してかなり性欲が強い人、という程度だと思ってくれればいい。平たく言うなら〝性豪〟かな」
この傾向は男女とも変わらず、性欲が強いことは確かだが、その影響は日常生活を営めないほど致命的なものでない。
「ただ言ったように、この特性は魔力量に比例して強くなる」
「だからイェルド様は、娼館に入り浸っていると噂されるほど通い詰めになっていらしたと」
「ああ。これでも学生の頃に比べると随分と落ち着いたんだが、それでも生活に影響が出るくらいには酷い」
この点が一般的な魔種とイェルドとの違いだ。
イェルドとヨランは魔種と比較しても尚、強大な魔力を有しているのだ。
「この性衝動がほんとうに厄介で。まあ、リーウィアには想像できないことだろうし、そもそもご令嬢に聞かせる話でもないんだけど……」
「むしろ聞かせてください」
「じゃあ、恥を忍んで話すけど、私は性に目覚めてからというものその手のことばかり考えていてな。ひたすら右手の運動を繰り返していた」
だが、自分でどれだけ慰めてもどうしても性衝動が収まってくれない。
むしろ成長に伴い、湧き上がる衝動は強くなっていくばかりだった。
当時のイェルドはまだ少年で領地で暮らしていた。
性の目覚めにしてはさすがに様子がおかしいと、周囲に気取られるのは時間の問題だった。
「私が魔種であることは幼い頃からわかっていて。成長に伴って魔力が凄まじい勢いで伸びていくなかで、やがて御老に師事するようになった。
その流れで悩んだ家族が相談したみたいで、御老の強い勧めで私は女を知ることになったんだ」
女とまぐわることで短期ではあるが、性衝動が治まることがわかった。
それからイェルドは定期的に女性を抱くようになった。
だがこの「名門貴族の嫡子が性にふけっている」としか見えない姿は家門の醜聞となる。
真実を訴えたところで誰も信じないだろう。
通常の魔種は性衝動を制御できる以上、イェルドの異常は理解されない。
では唯一イェルドと同類となるヨランが語ればどうか。
彼はこの時点ですでに老齢であり、また性衝動について彼自身も知見がなかった。
魔導卿が保証すれば否定する者はいないだろう。
しかし内心は別だ。貴族たちが「魔導卿閣下が弟子を庇っている」と受け取れば意味がない。
だからこの頃のイェルドは、父ルーカスが整えてくれた環境で秘密裏に女性とまぐわい衝動を治めていた。
「だけど学舎に入学する年頃になると、性衝動は手が付けられないくらい酷くなっていた。
もう醜聞だなんだと構っていられなくなった。
私は怖かったんだ。このままだと無辜の女性を襲ってしまうんじゃないかと」
自分自身に危機感を覚えたイェルドは大っぴらに娼館に通うようになった。
これがイェルドにまつわる醜聞の真実だ。
「そうでしたか……」
リーウィアは胸を潰さずにいられなかった。
イェルドのそれは生まれながらに不具を抱えている人と同じだ。
どうにかしたくてもどうにもならない。世の中にはそうしたことが往々にしてある。
「ただ、そういう意味で御老は恵まれていたと思う」
「……ヨランお祖父様が?」
「それがもう一つの特性だ。私や御老のような際立った魔種になると〝人の持つ魔力〟に魅せられるようになるんだ」
理由はイェルドにはわからない。
イェルドよりずっと長く生きているヨランですらまったくわからないと言う。
人が美しい容姿を持つものに惹かれるように。
人がふとした仕草に愛らしさを感じるように。
人が肉体の造形に惹かれるように。
人がその人の持つ性格に惹かれるように。
人がその人が放つ香りに興奮するように。
「――魔力そのものに惹かれるんだ。そして昨日、君に初めて会った御老の言葉を借りるなら」
現世に降臨した女神か、女神が遣わせた使徒かと思うた。
年甲斐もなく心臓が高鳴った。
立ち上がり、駆け寄って、間近でこの美しさを堪能したいという衝動を抑え込むのに苦労したわ。
傾国の美女とはリーウィアのような子をして呼ぶのかもしれぬ。
テレシアの顔が思い浮かんだわ。
「えっと、私の? 魔力が? 美しいのですか……?」
「それはもう凄まじいほどに。二年前にリーウィアをひと目見た瞬間、私は心の臓を射抜かれてしまったよ」
「そうなのですか……」
リーウィアはとぼけた声を上げるしかなかった。
理屈は理解できる。魔力という新たな美意識が生えてきたと思えば良い。
だが共感はできない。する方法がないのだ。
「お名前が出たテレシア様というのは」
「昨年亡くなった御老のご夫人だ」
「奥様でしたか……」
「テレシア様は御老の従姉妹であられた。ここまで言えば君なら想像できるだろう?」
「私と同じ特性を持つテレシア様が身近にいらっしゃったから、ヨランお祖父様はイェルド様のような経験をされておらず、性衝動についての知見もなかったということですね」
「なんでも清らかで健やかな青春時代を送ったそうだぞ。忌々しい」
「ふふ、テレシア様とご面識はあるのですよね?」
「もちろん。私にとっては大恩人だ」
「私にはまったくわからない感覚ですけど、テレシア様の魔力もやはりお美しかったのでしょうか」
「テレシア様の魔力な……」
そう独りごちたイェルドが急に顔を渋くさせた。
これは訊いてはいけなかったことなのかと思ったリーウィアは、
「あの、もしテレシア様の――」
「いや、違うんだ。言いたくないとか言うのが不味いとか、そういうことじゃなくて……」
「じゃなくて?」
「……御老の言葉を借りるとテレシア様の魔力は美しいことはもちろん『日向のような温かで優しい魔力』だな。私も全面的に同意する」
「まあっ、美しいというだけじゃなく、そうした複雑な印象まで感じ取れるものなのですか」
「ああ、ちょっと言語化できそうにない感覚なんだけど。もちろん私はリーウィアの魔力のほうがずっと魅力的だと思っているぞ」
「感覚がわからないだけに御礼が言いづらいのですけど、ありがとうございます」
「事実を言ったまでだ」
イェルドの顔から渋さが消え去った。
だがリーウィアは当たり前の疑問を覚えた。
「ちなみに私の魔力は美しさとは別でどういった雰囲気を持っているのでしょうか」
「…………」
一瞬にしてイェルドの顔に戻る渋み。
「……………………(蠱惑的)だ」
「え? なんですか?」
「とても蠱惑的で男の情欲を掻き立てる濃密な色香をまとう魔力だ」
リーウィアは表情を消した。
「えっちだと」
「……ああ、とてつもなく」
「イェルド様は私のえっちな魔力に惹かれたのですか?」
「当然それだけじゃないが、そこに惹かれたことも否定できない。……不快に思ったなら謝る」
「なんだか誤解されているようですけど、少しも不快に思っていませんよ?」
「そうなのか?」
「そうですよ? わからない感覚だというのも大きいですけど、蠱惑的というのは美しさを称える言葉のひとつでしょう? 魅力的だよと言われて喜ばない女性はいないと思いますけど。まして私はこんな体ですから素直に嬉しく思います」
「君は女神か」
「女神ではありませんね」
イェルドが肺を空っぽにするような深い息を吐き、ぐったりとソファの背に体を預けた。
「ともあれ、これで不足分は埋まった。残すところは最後の一割だけだ」
リーウィアは眉根を寄せて後ろに首を巡らせた。
「まだ私の特異性についてのお話が残っています」
「いいや、そのことはすでに話し終えている」
言って、イェルドは身を起こし、体ごとリーウィアに向き直った。
「たどり着ける材料はすでに並べてある。君ならもうたどり着けるはずだ」
「……すれ違いに、ですか?」
「ああ、私から言えることは、あとたったの一つだけだ」
イェルドはじっとリーウィアの目を見据え、説いて聞かせるような声音で続けた。
「リーウィア、私は二年前からずっと君に魅了され続けている。
そして今の私は、求婚を受けてもらえて舞い上がっているよ。
そんな私はきっとこれから君をどろどろに甘やかし、甘い言葉をささやき続けて、どうにか私を好きになってもらえるよう尽くし続けるだろう。
これが君に与えてあげられる材料のすべてだ」
イェルドは鋭い視線を向けるリーウィアの頬を撫でるように触れた。
「私は昨日の話し合いの場に立ち会っていない。父や御老からも話した内容を事細かに説明されていないんだ。
それでも残る最後の一割――すれ違いがあるんじゃないかと思えた。
リーウィア、私の話を材料に昨日のことを思い返してみろ。その場にいた君ならきっと気づきがあるはずだ」
リーウィアはそっと瞼を落とし、思考の海に飛び込んでいく。
イェルドに聞かされた魔種の話。それを丁寧に思い返してみると、これまで無かった視点を持つことができた。
「……ヨランお祖父様だけが違う?」
「そう、そうだ、リーウィア。御老だけが特別な役目を負ってその場に臨んでいたんだ」
特別な役目とはなにか。
それはきっとリーウィアを見定めることだ。
何故ならヨランだけがリーウィアが持つ魔力の特性を気取れる。
きっと彼は――いいや、あの場にいた五人全員が、イェルドがどうして騒ぎを起こしてまでリーウィアを求めたのか、その理由を知っていたに違いない。
ヨランはリーウィアを見定め『裏付け』を取る役目を負っていたのだ。
だとするなら、
「アンネリーエ様は最初とても怒っておいででした」
「そうだろうな。リーウィアをなんだと思っているんだと私も激しく叱責されたよ」
アンネリーエはリーウィアを侍女に召し上げるつもりだと言った。
(だけど私はその道をアンネリーエ様が用意してくだされた〝次善〟だと考えた)
イェルド様の醜聞を持ち出したのはアンネリーエだった。
しかしそれでも彼女がこの縁談を壊そうとは思っていないとリーウィアは考えた。
(この縁談は王室に益があるから――違うっ、そうじゃない)
リーウィアが今すべきことは、あの場でした自分の考察を追いかけることではない。
昨日には無かった視点――ヨランが『裏付け』を取る役目だったことを加味し、事実関係を洗い直すことだ。
あの会談が始まった時点でヨランの裏付けは取れていなかった。
イェルドが執着する理由も、リーウィアが持つ特性も、あくまでもイェルドの自己申告の域を出ないことだった。
だが会談が始まって以降については、ヨランの裏付けが取れていたはずだ。
(もしヨランお祖父様が話の途中で残る四人にサインのようなものを送っていたなら。『イェルドが言うことは真実だ。リーウィアは妻テレシアと同じ特性を持っている』と……)
もしそうなら、あの日の出来事の前提が崩れ、裏返ってしまう。
アンネリーエは言った。
『辺境伯の事情は察するに余りありますが……』
『国家の大事はわかります。リーウィアでなければ務まらぬことも理解しましょう』
母カイサは言った。
『ご事情については十分に理解しているつもりです』
国家の大事とはなんだ。事情とはなんだ。
あのときリーウィアは『論功の事件』のことだと思いこんでいた。
王室の権威を揺るがしかねない大事だから、望まれたリーウィアでないと務まらないのだと。
そうではなく、もし二人が言う事情が『イェルドが抱える性衝動の問題と、リーウィアが持つ特殊性』を指していたのだとしたら、意味合いはまるで別のものになってしまう。
リーウィアは丁寧に昨日の出来事を追って、再評価していった。
父と母が話したこと、彼らの態度、前辺境伯ルーカスとヨランの消極性――、
「あ……」
リーウィアは瞼を開き、くしゃりと歪めた顔でイェルドを仰ぎ見た。
「どうした? なにか気づいたことがあった?」
「わ、わた、わたし……」
リーウィアの震える唇から漏れたのは、言葉にならない途切れ途切れの吐息だった。
ひとりでに視界が熱を帯びて歪み始める。
やがてあふれ出した透明な道は、その白い頬に一筋の歓喜の道を描いてこぼれ落ちた。
「イェルドさまぁ……」
「おいで」
イェルドがもうなにも言うなとでも言いたげに、リーウィアをそっと胸に招き入れた。
「わたしっ……かんちがいっ、してましたっ……」
「そうかなあ、皆が君を利用しようとしていて、利用したのも事実じゃないか」
「でもっ……それだけじゃなかったっ……」
「そうかもしれないな」
利用する、利用されると、冷めた目で彼らを見ていたのはリーウィアだけだったのだ。
自覚はなかったと思う。
だけど傷物なリーウィアは、どこか心のなかでこの縁談を「体の良い厄介払い」だと自虐して、割り切っていた。
彼らの思惑を読み解くことで、自分が嫁ぐことの意味をかさ増しして、納得感を高めたかった。
傷だらけの私でも家門や国の役に立てるのだと。
自分を慰めていたのだ。
だけどそうじゃなかった。いいや、それだけじゃなかった。
彼らの真意は、敬愛してやまない大好きなアンネリーエが教えてくれていたのだ。
『リーウィア。忘れないでください。あなたには選択肢がある。結婚にせよ、侍女にせよ、あなたは断ることができるのです。あなたを想う者はあなたが想像しているよりもたくさんいるということを覚えておいて』
両親とアンネリーエには確信があったのだろう。
今リーウィアが胸を埋めている彼ならこう言うだろうと。
『リーウィア、私は二年前からずっと君に魅了され続けている。
そして今の私は、求婚を受けてもらえて舞い上がっているよ。
そんな私はきっとこれから君をどろどろに甘やかし、甘い言葉をささやき続けて、どうにか私を好きになってもらえるよう尽くし続けるだろう』
アンネリーエたちは確かにリーウィアを利用した。
機会に乗じた。期待もしていた。
だけど――、
「私はっ、愛されていましたっ……」
「うん」
リーウィアの幸せを一番に考えてくれていたのだ。
これにて第一章は終了となります。第二章からは舞台も新たに展開も大きく変わっていきます。
以降は完結まで毎日21時までに投稿します。
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