47.エピローグ:結果論です。
リーウィアは難しい選択を迫られていた。
「むむむ……」
テーブルに並ぶ趣向の異なる三つのケーキ。
果たしてどれにフォークをつけるべきか。じつに女心が揺さぶられる難問であった。
「食べないのか?」
すぐ隣に座っているイェルドが、まるで愛玩動物を愛でるかのような優しげな眼差しを向けてきた。
「どれを食べるのか悩んでいるのです」
宝石のような果実が散りばめられたタルト。
クリームとクレープが美しく折り重なっているミルフィーユ。
蜂蜜のジュレが添えてあるふんわりシフォンケーキ。
このすべてが本邸の菓子職人が意匠を凝らしてくれた一級品だ。
どれも甲乙つけ難いけれど、迷う時間そのものが愛おしくてならない。
「どれもリーウィアのために用意されたものなんだ。どれとは言わずに、ぜんぶ食べればいいじゃないか」
「簡単に言ってくださいますね」
リーウィアは深々と溜息をついた。
殿方というのはこれだからいけない。こちらはイェルドのためにも悩んでいるというのに。
「欲望のままに食べていたらあっという間に太ってしまいます。あなたはそれでも良いのですか?」
「もちろんだ。たとえリーウィアが豚のような姿になろうと、私の君への愛が一欠片も失われることはない。決まっているだろう?」
「……あなたはそれで良くとも私が良くないのです」
リーウィアは呆れたように唇を尖らせつつも、頬が少しだけ熱を持ったことを自覚した。
これらのケーキよりも甘そうな夫を捨て置き、リーウィアは悩んだ末に果実のタルトを小さく切り分け、口に運んだ。
「んんっ……!」
瞬間、口いっぱいに広がる瑞々しい果実の甘酸っぱさと、香ばしい生地の風味が鼻から抜けた。
あまりの幸福感に自然と目元が緩んでしまう。
「とても美味しいです」
「それはなによりだ。他のも食べてみたらどうだ?」
「ですから、太ってしまいます」
「いいじゃないか。リーウィアが幸せそうにしていると、私まで幸せな気持ちになれるんだ」
そう言って微笑む夫の眼差しは、やはりどんなケーキよりもずっと甘い。
時はお昼下がり。場所は庭園の一角に設けられたティーテーブル。
そこにはイェルドとリーウィアの二人だけしかおらず、給仕の使用人たちは少し距離を取って控えてくれていた。
婚約期間中からずっと変わることなく続けられている夫婦だけのお茶会だ。
もはや定例行事ではあるが、一つだけ違っていることがある。
それはお茶会の会場がレウリアーダの本領であるということだ。
王都近郊の大平原とはまるで違う。海に面するレウリアーダの領都には潮の匂いがあり、風が違い、空の色すら違って見えた。
リーウィアは太陽に手をかざして目を細めた。
「少し熱くなってきましたね」
「ああ、もう少しで夏だな」
イェルドと婚約してからほどなく半年。あの大騒動からも二ヶ月が経とうとしていた。
「この気温だとクリームが解けてしまうかもしれないぞ? やっぱりぜんぶ食べてしまったほうがいいんじゃないか」
「そうまでして私を太らせたいのですか?」
寝たきり生活を脱したばかりだったあの頃のリーウィアは、周囲が心配するほど痩せこけていた。
しかし今は随分と肉付きも良くなり、事故に遭う前と遜色ない体型に戻っている。
もうそろそろリーウィアの脳裏に「食べすぎダメ」という思いがよぎり始めている頃合いだった。
「どうせ残してもマヤが喜んで食べてくれ……」
リーウィアは寂しさを押し込めるようにして言葉を尻すぼみにさせた。
それを察してか、イェルドが慰めるようにそっとこちらの頭をひと撫でした。
「マヤが休職してからもう二か月にもなるのに、まだ慣れないか」
「慣れませんね。こんなに長いあいだ離れたことがありませんでしたから」
リーウィアは本領入りしたのを契機に、お付きの侍女であるマヤを休職させることにした。
「そんなに寂しいなら休職までさせることはなかったろうに。通いにしてもらったって良かったんじゃないか? 本人もそう希望していたんだろう?」
「そうはいきません。マヤにはマヤの人生があるのですから」
リーウィアにとってマヤは姉とも思う存在だ。しかしだからこそ彼女にも幸せになってほしいと願っている。
せめて一年か二年はリーウィアのことを忘れて家族で過ごしてもらいたかった。
「幸いにも? あなたのおかげで家族が皆レウリアーダに居ますから。休職するには良い機会だったと思います」
「結果論だけどな」
「ふふ、あなたがそれを言いますか」
イェルドがリーウィアとの婚約にあたって支度金に鉱山の採掘権、港湾の使用権、交易権など大盤振る舞いしたおかげでマイエル家は腰を据えて対応せざるを得なくなった。
その影響でマヤの父はレウリアーダ領に駐在官として常駐しており、後継者である夫と「一人残されるのは寂しい」と付いてきた母も一緒だ。結果、マヤの家族は全員がこの本領に揃っていた。
「それでもやっぱり寂しいですね。元気に暮らしているかしら……」
「きっと日々夫婦で子作りに励んでいるだろうさ」
「だと良いのですけれど」
マヤが居ないのは寂しいけれど、お茶請けを喜んで食べてくれる人は彼女ひとりではない。
「仕方ありませんね。残りのケーキはサシャに食べてもらいましょう」
「…………」
途端にイェルドが顔を渋くさせた。
夫がなにを思っているのか推し量るのは容易だった。
「そんなお顔をされずとも、ようやくくっつきそうですよ? あの二人」
あの二人とは無論、依然として青くさい恋愛模様を繰り広げているエリアスとサシャのことだ。
「……そうなのか?」
サシャのことはさておいて、イェルドのエリアスに対する評価はかなり低い。
口癖のように「根性なし」「男らしくない」「勘違い野郎」などと吐き捨て、挙げ句は「ただ飯ぐらいの穀潰し」とこき下ろす始末だ。
一応エリアスは世界的に名を知られている魔導師なのだが、イェルドのなかから彼への敬意が失われて久しい。
イェルドの基本姿勢は「早く国に帰れ」だ。
なのでエリアスが帰国しない限り彼への評価が上向くことはないと思われる。
「なんでまた急に。私のなかでは小魔導卿が大恥をかいたところで止まっているのだが?」
「あれは酷かったですね……」
今思い返しても胸が苦しくなってくる。それはもう哀れな出来事であった。
三か月前に政府を大いに動揺させたあの一連の事件のなかには「エリアス移民申請事件」が含まれていた。
かの事件が発生した原因はサシャの言葉を都合よく曲解したエリアスにあった。
もちろん言葉足らずだったサシャにも責任があっただろう。
いずれにせよ、エリアスが人知れずグランフェルトに移民申請を出していたことは、当然ながらすぐにサシャも知ることになった。
王宮でこき使われた翌日、リーウィアはイェルドとともにサシャとエリアスを呼び出して事の次第を説明した。
解決法はすでに献策済みであり、後処理を政府に委ねていたこともあってリーウィアは特別二人を咎めようと思っていたわけではない。当事者である二人に正しく状況を把握してもらう必要があると思ってのことだった。
ただ事情を知ったサシャが、そのときぽつりと――。
『おんもっ……』
そんな率直すぎる感想を聞かされたエリアスの表情といったら見ていられないほど哀れなものだった。
羞恥と悲しみに打ち震えるエリアスを脇に置き、サシャはしかし、こうも漏らした。
『でもそこまでするほど私のことが好きなんですね……』と。
ならそれで二人の関係が変化したのかというと、少しもそんなことはなかった。
強いて言うならサシャが一度付けていた区切りを撤回というか、あやふやにしたくらいだろうか。
エリアスとサシャは時間を巻き戻したように、また青くさい恋愛っぽいものを始めていた。
ところがだ。
「マヤがお休み前のひと仕事とばかりに暗躍していったのです」
「暗躍。マヤが」
「はい。自分の野心を語って聞かせたのです。シュミット卿とサシャの両方に」
「ほう……」
マヤの野心とは「自分の産んだ子をリーウィアが産んだ御子の乳兄弟にしたい」というものである。
「サシャが興味を示したか」
「どうやらそのようで」
マヤの報告によると、気の置けない同僚の野望を聞いたサシャは「それは良い。二代にわたって奥様の騎士に……」などと呟いていたそうだ。
「サシャの反応を知ったシュミット卿はここが勝負どころと思ったのでしょう。とても積極的になられ、サシャもサシャで近頃は結婚の具体的な条件などを口にするようになっているようです」
「二代にわたっての騎士ときたか」
「そこがサシャの琴線に触れたようですけど、私も大いに共感しました」
「自分の子を妃殿下の御子様のお友達にって?」
「はい。とっても素敵じゃないですか? 私がアンネリーエ様をお支えして我が子が御子殿下をお支えする。臣下の本懐でございましょう?」
「まあ、そうだな……」
イェルドは若干言葉尻を濁しながら思った。
(リーウィアの思いを聞いたとして果たして妃殿下は喜んでくださるだろうか。『あなた……わたくしの子まで陥れるつもりなのですか!?』とか戦々恐々となられそうなものだが……)
存外素直に喜んでもらえるかもしれないのでリーウィアには言わないでおくことにした。
イェルドはいつだって愛妻に笑顔でいてほしいのだ。
「ただ……これはサシャたちには言えない話なのですけど、マヤの暗躍には裏があるのです」
「また大げさな……と言いたいところだが、リーウィアが言うとどうにも身構えてしまうな」
「私はなにもしておりませんよ? マヤが動いたのは政府の謀略なのです」
「本当に大げさな話になってきたぞ……。男と女の恋愛に過ぎないだろうに」
リーウィアは顔をしかめているイェルドに事の裏側を聞かせてやった。
結果としてマヤはサシャとエリアスに野心を明かしたわけだが、そう仕向けたのは別の人物だ。
「最初は政府からお義父様にお話が来て、それがお義母様に伝わり、さらにお義母様からオーサへ指示があって、最終的にオーサからマヤにお願いしたという流れなのです」
「……それはあれか? 小魔導卿とサシャを結ばせることを目的にした?」
「謀略です」
「謀略というほど大層なものじゃないと思うが……」
かく言うリーウィアもマヤとオーサからの伝聞に過ぎず、さほど興味も邪魔する気もないので詳しいところまでは把握していない。
ただ王宮に召し出されたあの日、リーウィアは「エリアスは好きにしてよし、サシャには手出しするな」と政府に釘を刺している。おそらく彼らは彼らで色々と動いてはいたのだろう。
じっさい政府がエリアスに接触している気配は何度か見られた。
では今回のマヤの行動が「サシャに手出しするな」という宣言に抵触するかというと、リーウィアのなかでは「まあ、マヤの考えを話しただけだし」という判定だった。
もしかすると政府はリーウィアから抗議されないよう際どい線を狙ったのかもしれない。
リーウィアは政府と小魔導卿の話題からふと思い出した。
「そういえばあなたの称号の件はどうなったのですか? 暫く音沙汰がございませんけど」
「ああ、あれなあ……」
これも王宮に召し出されたときの出来事に端を発した話題だ。
エリアス問題の献策をしたとき、大臣たちがこんなことを口にしていた。
『だが仮に小魔導卿に号したところで、どのみち爵位基準を定めねばならぬであろう?』
『そこは伯爵位相当で良いのではないか? 我が国においても魔導卿の号は特別な意味がある』
『確かに同じ魔導卿でも、そこはやはり小だ。あまり高く遇しすぎては国内貴族が騒ぎかねん』
『これを機にレウリアーダ辺境伯も正式に魔導卿に号していただくのはどうだ』
エリアスとサシャの婚姻が成って小魔導卿をグランフェルトに取り込めた場合を想定した会話だ。
結局二人の婚姻はいまだ成っていないものの、政府はイェルドを次代の魔導卿に叙爵するべく動き出していた。
「称号の名のことで揉めているとのお話は聞きましたけど、その後はどうなっているのですか?」
魔導卿はグランフェルトにおいて特別法を立てて成立している特異な称号だ。
イェルドをヨランの後継として叙するにしても法改正をしなければならない。加えてヨランが存命である以上、同じ称号でイェルドを叙するのは問題があるという話になった。
そうした様々な事柄を検討する会議が開かれたわけだが、その場でヨランがこう言ったそうだ。
『エリアスを取り込めたなら我が国でも小魔導卿に叙するのであろう? すると魔導卿がいて、小魔導卿がいることになるわけだ。ならばイェルドめは〝中魔導卿〟で良いのではないか? 言うまでもないが儂が大だ。どうだ、座りが良かろう』
これを冗談で言っているなら良かったのだが、ヨランはいたって本気だったらしい。
会議に出席していたイェルドが『舐めてんのか、今すぐあの世に送ってやろうか』とキレて、ヨランが『なんだコラ。やるのかクソガキが』とキレ返し、あわや王城が消し飛びかねない事態になりかけたと。そんな笑えない笑い話をリーウィアは聞いていた。
「色々とあったんだが最終的に〝魔導侯〟に決まった。法改正の処理が終わったら叙される運びになる」
「それは……おめでとうございますっ」
「ありがとう」
「それにしても魔導侯ですか……。爵位的な配慮でしょうか?」
「現状で私は辺境伯だからな。魔導伯という名も挙がったんだが、爵位の面で誤解されかねないと反対意見が出たんだ」
「それでしたら〝魔導公〟でもよろしかったのでは?」
魔導卿の号は位階としても特別なものだ。
事実ヨランは王太子夫婦にさえ上から目線で物を言っても咎められることはない。彼がかしずくべき相手はたったの二人。国王と王妃のみだ。明確に相当とする爵位が定められているわけではないが、実態としてヨランの位階は公爵位をも凌駕している。
そんな魔導卿の後継としてイェルドは叙されるのだ。
公爵位相当を意味する〝魔導公〟であっても違和感はないと思う。〝魔導侯〟であるなら位階的には追認の意味合いが強い。辺境伯位は侯爵位相当と見做されているからだ。
「魔導公という意見もあるにはあった」
「では?」
「誰も明確にそうとは口にしなかったが……。まあ、怖いのだろうな。私に公爵位相当の位階を与えるのは」
「どうしてですか?」
「どうしてって……。それは間違いなくアンネリーエチャレンジのせいだろう。やらかしすぎて信用がないんだ、きっと」
「…………」
半分くらいはリーウィアのせいだった。
あくまでも半分だけだ。初めに王都の空へ小太陽を打ち上げたのはイェルドである。
「そうそう、これは完全についでなんだがリグが子爵に叙されることになったぞ」
「えっ!? グランフェルトでですか?」
「もちろんグランフェルト王国のラングレン子爵だ。法服子爵だがちゃんと俸給は出る。れっきとした子爵家当主だ」
じつのところリグは貴族籍こそ持っているものの、将来的な身分の保証はない身の上だ。
彼の実家は男爵家ではあるが、四男坊であるので継ぐ爵位を持っていない。
もっとも、ヴェステリア公王もそのあたりは気にかけているようで、レウリアーダ辺境伯家への駐在員が無爵では格好がつかないと、そう遠くないうちに叙爵される予定だという。
「どうしてまた……。いきなり子爵に叙爵なんてとんでもないことですよ?」
「だろう?」
「リグ様が何一つ功績を挙げていないとは言いませんけど……」
リグにはグランフェルトとヴェステリアの橋渡し役として少なからず功がある。
だがそれだけで子爵に叙されるかというと、絶対にないと断言できるほど小さな功績でしかなかった。
「御老が魔導侯に関する会議の場でごねた。いや、国を脅しやがった。『儂の娘婿が無爵とかありえんだろ? そなたらもそう思うだろう? なあ?』ってな」
「まあ……」
「滅茶苦茶だ」
「でもそれが通ってしまうのですから、魔導卿の位階の凄まじさを改めて思い知らされます」
「そうは言うが、リーウィアのほうがずっと偉いだろう? あの爺様は君の言いなりだ」
「あなたがそうおっしゃるのはどうかと思いますけど」
「もちろん私もリーウィアの言いなりだ。その点は御老に負けない自信がある」
「なにを競っておいでなのです……」
「リーウィアの寵愛だが?」
「本当に困った人たちですね」
リーウィアは現実感がないやら畏れ多いやらで苦笑するしかなかった。
そんなときだ。お茶会の席にアーロンが近づいてきた。
「ご歓談中に失礼します」
アーロンはそこで一度言葉を切り、溜めを作ってから告げてきた。
「奴が来ました」
リーウィアとイェルドは図ったかのように顔を見合わせた。
幸いでもなんでもないが、奴と言われて思い当たる人物が一人だけいた。
「ディートリヒか」
「なかなかの逃走劇だったようで浮浪者のような有様です」
アーロンが顔をしかめて鼻を摘んだ。
ろくに水浴びもできないほど過酷な道程を逃げてきたようだ。
「リーウィアの予想どおりになったな」
「誰だって簡単に思いつくことですよ」
「たとえそうだとしても奥様はあんな痴れ者にまで慈悲をお与えになったのです。俺たちにはとても」
肩をすくめるアーロンに、イェルドはまったくその通りだと言わんばかりに頷いた。
「それにしても、よく王都ではなくこちらに逃げてこられましたね」
「さすがに王都に入るのはまずいという知恵くらいは働いたようですよ」
「ふふ、そうですか」
「賢しらな奴だ」
イェルドはそう吐き捨てるが、迂闊に王都に入らずレウリアーダ領に逃げ込んだ結果、そこに折良くリーウィアたちがいたのだ。
ならば彼は彼でなにかしらを持ってはいるのだろう。
上手く国から逃げおおせたところからして、少なくとも悪運は持っている。
「当家に保護をお求めです。いかがなさいますか?」
リーウィアの目配せを受け、イェルドが不本意感ありありに命じた。
「水浴びさせて物置小屋にでも放り込んでおけ」
「公爵家の御子息ですよ? 国を追われた身の上とはいえ、物置小屋はいくらなんでも……」
「国を追われたわけじゃないだろ。自分で逃げてきた政治犯罪者だ。客扱いする理由がどこにある?」
そう言われてしまうとリーウィアは困り顔を浮かせることしかできない。
イェルドの言い分はごもっともであった。
「まずはあの傲慢な性根を叩き直してやらんとな。ということだ、アーロン」
「御意」
アーロンが苦笑して踵を返した。
「しかし本当に逃げてくるとはな」
「ええ。私も可能性は低いだろうと見立てていたのですけど」
「しっかりと裏を取らないと。また外交問題になっては堪らない」
「そうですね」
リーウィアは夫に同意しながらディートリヒ事件の顛末を思い返した。
結論から言えば、あの日リーウィアが立ち会いを余儀なくされたイグサーマクとの交渉において、かの国は譲歩する意向を示した。
無論イグサーマク王国がどういった賠償を行うか細目までは詰めきれなかった。
そうしたことは後日に持ち越しとなったものの、大枠でイグサーマクは賠償の方向に舵を切り、その対価として事実上の人質となっていたディートリヒの身柄の返還を求めた。
リーウィアはイェルドとともに事の顛末を隠すことなくディートリヒに明かした。
もちろん彼が逃亡できぬよう周囲を固めたうえでだが。
『恨むか?』
『いいや、辺境伯と夫人を責めるつもりはない。すべての責は私にあるのだから』
イェルドの問いに対し、ディートリヒは神妙であった。
リーウィアには彼の胸中を推し量ることしかできなかったが、一連の説明を受け自身の行動がどれほど深刻な問題を引き起こしていたのかをようやく自覚したのかもしれない。
そう信じたかったからこそリーウィアはディートリヒに告げた。
『私は公子の心根が悪しきものだとは思っていません。ただあなたはもう少し世を知るべきです』
『……手厳しいことだ』
『私のような妻を娶りたい――そんな公子の切実な想いに応えてあげられなくてごめんなさい』
無言で諦念の滲む微笑を浮かせるディートリヒ。
そんな彼を励ますようにリーウィアは続ける。
『どうか誤解しないでくださいましね。私は公子の想いに応えてあげたい気持ちを持っています。
ですから今は世を知り、おのれが何者であるかを自覚して。そうして然るべき責を受けたのちにもう一度当家を訪ねてください。
そのときは今度こそ一緒に私の魔力を解き明かしましょう』
ほんの少し希望を瞳に宿したディートリヒに、リーウィアは現実も突きつける。
『ひとつだけ助言をしたく存じますが、お聞きになられますか?』
『……聞かせてくれ』
『公子が考えている以上に世の中は複雑にできています』
リーウィアはそう前置きして、自身が危惧していることを話して聞かせた。
ディートリヒはイグサーマク王の姪孫だ。そして実父は公爵である。
そんな二人は極めて強い権力者である一方で、決して絶対的な権力を有しているわけではない。
『おそらく世論が公子の処遇を決定することになるでしょう』
リーウィアは王も公爵も、そして世論を作るイグサーマク貴族が実際的にどう考えているのかを知らない。
知らずとも世論がディートリヒの運命を決定づけるであろうことは推測できた。
『あなたの身は決して安全ではありません。その点を深く心に留めておいてください』
『幽閉程度で済むならまだ良いほうだと思うがな。私なら最低でも手足の一本を取られるくらいは覚悟するところだ』
イェルドの見立てを受け、ディートリヒの顔が凍りついた。
『いや、それはいくらなんでも……』
『ですから公子。もし命が危ういと感じたなら当家に逃げていらっしゃい。それが罪からの逃亡でなく、自身の命を護るための行動であったときはレウリアーダがあなたを保護しましょう』
そんなあれこれを思い返していたら、苦笑するイェルドにたしなめられた。
「また悪い顔をしているぞ」
「あら」
リーウィアは緩んでいた頬を手で揉みほぐした。
しばしばこうした指摘を受けるので気をつけているつもりなのだが、ついやってしまう。
「また使い勝手の良い駒が手に入ったと顔に書いてある」
「人材こそが力の源泉でございますから」
リーウィアは学習できる子である。
ディートリヒの亡命についてはかねてよりアンネリーエと外務卿に可能性を示唆しており、レウリアーダによる受け入れまで了解を取り付けてあった。
随分と前から亡命申請書も用意してある。
一筆書かせて報せを送れば、ディートリヒの亡命は滞りなく認可されるだろう。
「それはそうなんだけどなあ……」
「なにかご不満ですか?」
イェルドが唐突に指折り数えだした。
「リグといいクロエのことといい、結局小魔導卿も取り込む形になりそうだし。今度はディートリヒが転がり込んできた。魔種流出事件も今は小康状態だがもうひと騒動ありそうだし、スヴェンとシーラの婚約式も控えている」
「それがなにか?」
「妻が辣腕すぎてあれこれ手を出すものだから、私が愛妻と過ごす時間が奪われている」
「挙げられたものの多くは成り行きでございます」
「結果論を言い換えただけじゃないか」
「お家のために働いておりますのに……」
「君ほど働き者な貴族家夫人は見たことがない。もう少し怠惰に過ごしてもらってもいいんだぞ?」
確かにリーウィアはアンネリーエに騙し討ちをされて以来、あちこちに手を出しては忙しくしていた。
たとえばリグについて。
彼はクロエが贅沢漬けにされていくなか、それを主導しているリーウィアに対して少なからず思うところがあったようだ。
妻が変えられていくことが気に入らないのか、それとも公国に帰りたがらないことが不満なのか。
いずれにせよ、リグが不満を表に出すことはなかったし、彼自身もすでにレウリアーダの一門になっているので逃れようがない。
だがそれはそれだ。義弟とギスギスしたくはない。
なのでリーウィアは手を打つことにした。
『クロエ様、少しよろしゅうございますか? じつはこのような物がございまして……』
『こ、これは……』
リーウィアは秘蔵の艶本(エロ本)を持ち出し『貴族夫人のたしなみ』などとクロエを騙して閨の作法を仕込んだ。
幸いなことにこの頃のリーウィアはイェルドを相手に実体験を重ねていたので『(たぶん)魔種に刺さる手管』を肉厚に教授することができた。
それから暫くしてのことだ。
『義姉上』
リグが突然リーウィアの前に跪いた。
『最上級の感謝を。俺は生涯この御恩を忘れることはありません』
『あら、そんなに凄かったのですか?』
『控えめに言って最高すぎました。あの、できればですね……』
『お任せください。引き続きリグ様がお悦びになられる夜着はもちろんのこと、クロエ様により厚く手管を説いていきましょう』
『義姉上っ……!』
こうしてリーウィアはリグの信頼を勝ち取った。
一方で、実弟スヴェンと義妹シーラの婚約についてもそうだ。これもリーウィアが主導して整えた。
事の始まりはリーウィアの結婚式でのことだ。
控室を訪れてくれたスヴェンとシーラのやたらと近い距離感を見て、「この二人はまさか」と思ったリーウィアは、ひとまず二人が普段学舎でどう過ごしているのか調べてみることにした。
リーウィアとしても余計な真似はしたくない。あくまでも二人が良ければ後押ししてあげたいという思いからだ。
伝手を使って調べたところリーウィアとイェルドが婚約するまでの二人はそれほど頻繁に話すこともない学友に過ぎなかったことがわかった。
だがリーウィアの婚約が整ってからというもの、二人の距離は一気に縮まったらしい。
学舎ではよく話す間柄になり、時折二人だけで昼食をともにすることもあるようだ。
ならばと、リーウィアはシーラに尋ねてみることにした。
『もしかしてシーラはスヴェンを憎からず思っていたりするのかしら?』
『まさか、ただの友人ですよ』
リーウィアとの婚姻を通じてレウリアーダ家とマイエル家はすでに縁戚関係にある。
そこへさらに縁を結ぶ益がないなどと、シーラは政治的な理由まで持ち出してきた。
それが逆に怪しいと感じたリーウィアは粘り強くシーラに尋ね続けた。
その結果、
『はい……。スヴェン様ならそうなっても、良いかなと……』
『わかりました。私に任せておきなさい』
シーラが顔を真っ赤にしながら気持ちを吐露したことを受け、リーウィアは即座に行動を起こした。
まずは当主であるイェルドに打診した。貴族子女の婚姻は当主に決定権があるからだ。
『スヴェンが貰ってくれるなら私は大歓迎だが……むしろシーラでいいのか? リーウィアの前だと猫を被っているが、あれの中身はじゃじゃ馬だぞ?』
イェルドはこんな感じだったので、続いて実父のルーカスと実母のフレンダに了解を得ようとしたところ。
『それはイェルドが決めるべきことだろう。父親といっても今や当主はイェルドなのだし』
『そうね。スヴェン君が貰ってくれるなら有り難いことだとは思うけど』
という次第で二人ともあっさりと了解してくれた。
これは肌感覚で感じていたことだが、レウリアーダは武門のお家柄か、政治的な事柄に無関心ではないものの頓着しないところがある。どちらかというと政治的配慮を凝らすリーウィアが異端なくらいだ。
こうして内側を固めたリーウィアは、いよいよ父たるマイエル伯爵フーゴに非公式に話を持ち込んでみることにした。
『シーラ嬢をスヴェンに……? いや、レウリアーダにはすでにお前が嫁いでいるではないか』
『旨味がないと』
『まあ、なあ……。そういう面は否定しない』
『お父様、私がレウリアーダに嫁いだことで、マイエル家がいかほどのお金を受け取っているのか思い出してください。領の年予算の八%あまりの金銭を、私が死ぬまで毎年もらい続けるのですよ? これ以上の益を得ようなどいくらなんでも強欲にすぎませんか?』
『いや、それは……。金の話ではなく家と家の繋がりの面でだな……』
『そうですか。マイエルはレウリアーダとの繋がりよりも他家との繋がりを重視なさると。よくわかりました』
『まてまてっ! うん、よく考えてみると、じつに良い話ではないか。是非とも前向きに検討したい』
父フーゴも快く承知してくれた。少し顔を青くしていたように思うが気のせいだろう。
そんな色々を思い出しながらリーウィアは薄く微笑んだ。
「そんなに心配なさらずとも、これからはあなたが言うように怠惰に過ごさせていただくつもりです。もう一人だけの体ではないのですから」
言いながら、リーウィアは大判のひざ掛け越しに自身のお腹を撫でた。
結婚からおおよそ三ヶ月のときを経て、夫婦は新たな命を授かることができた。
触れてみてもお腹はまだ膨らんではいない。だがそこには確かに二人の子が宿っていた。
リーウィアはふと思い立ち、目を細めてお腹を見つめてくる夫に尋ねてみた。
「このお腹も結果論でしょうか」
イェルドは大いに眉をひそめ、不本意感を満載にして切り返した。
「まるで望んでもいないのにできてしまったかのように言わないでくれ」
そうこぼしてイェルドは妻のお腹にそっと触れる。
「この子は結果論なんかじゃない。摂理というものだ」
「それもどうなのですか?」
リーウィアはくすりと笑う。
道理ではあるけれど、摂理と言ってしまうのはいささか情緒に欠ける気がした。
「あれだけ毎晩、それも何度も求められては子ができるのは当然だと思いますけど?」
「なんだ。私の欲の結果だとでも言いたいのか?」
「事実そうではありませんか。結果論ではありませんけどね」
リーウィアはイェルドの手の上からみずからの手を重ねて我が子に呼びかけた。
「もしかすると、あなたもえっちな魔力を持っていたりするのかしら?」
「私の子でもあるんだ。魔種かもしれないぞ?」
悪ノリしてきたイェルドに、リーウィアは目を丸くした。
「膨大なえっちな魔力を持つ男の子か女の子ですか」
「男なら魔種を従える王に。女なら世の魔種のすべてを虜にする女帝になるかもしれないな」
もしかすると、そんなとんでもない我が子がアンネリーエの御子を振り回す。そんな未来があるのかもしれない。
歴史は繰り返されるというやつだ。
「ふふ、たとえ未来でそうなったとしても、きっと私はこう言いますよ――」
傷物令嬢リーウィア・マイエルは女としての幸せをすべて諦めていた。
だけどイェルド・レウリアーダと出会い、彼の苦しみを救ってあげながらリーウィア自身も救ってもらった。
そうして今、傷物夫人リーウィア・レウリアーダはその身に新たな命を宿している。
誰がこんな未来を予想していただろうか。
少なくとも傷物令嬢リーウィアは一欠片も予想していなかった。
人生とはわからないものだ。
だから自信を持ってこう答えよう。
「結果論ですね」と。
傷物才媛リーウィア、断れない政略結婚の裏をすべて見抜く 了
以上、全47話をもって『傷物才媛リーウィア、断れない政略結婚の裏をすべて見抜く』は完結しました。
もしかすると、少しだけ後日譚や閑話を投稿するかもしれませんが、ここで区切りとなります。
最後までお読みいただいた方、途中からお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
もし楽しんでいただけましたら、★やブックマーク、リアクションをいただけると励みになります。
また新たな物語でお会いしましょう。




