46.リーウィア、口先を弄して逃げ切る
「魔種流出問題でございますね」
自然と察したリーウィアに外務卿が顔を渋くさせながら頷いた。
「それが此度の騒動における最も深刻な問題なのだ。さすがに今日中にどうこうとは思っておらぬ。解決に向けた良い知恵はないだろうか?」
「お力になりたいところですけど……。移民の申請を出されている方の名簿はございますか?」
「生憎手元にないが……」
外務卿の視線を受け、アンネリーエが侍女に声をかけた。
「マリステラ」
「お待ちを」
マリステラと呼ばれた彼女は、数日前にアンネリーエが卒倒した場面にも立ち会っていた王太子妃付きの侍女である。
彼女が名簿を手に近づいてくると、リーウィアは顔を明るくさせて小さく手を振ってみせた。
しかし、
「へうっ」
「アンネリーエ様を困らせない」
マリステラに口元を鷲掴みにされ、リーウィアはアヒル口にされてしまった。
眉をハの字にしたリーウィアは唇をパクパクと動かして抗弁した。
「わたひはわるくあいまふぇん」
「あなたが悪くなければ、どうしてこんな大事になっているの?」
アンネリーエと同学年であるマリステラは二つ年上の先輩であり、学生時代にはともに取り巻きをしていた仲間でもあった。
ただ、彼女は公爵家の分家筋の出であるがゆえ、主家の令嬢であったアンネリーエにとっては友人というよりも家臣に近い立ち位置だ。
アンネリーエの周囲は概ねマリステラのような者たちで固められている。
「はなひてくらはい。まりふてらふぁま……」
「放しません。悪い子にはお仕置きしないとね?」
そんな取り巻き仲間のうちでリーウィアだけが友人枠として扱われていた。
ただひとり公爵家となんの縁もゆかりも無い伯爵令嬢だったからだ。
つまりリーウィアはアンネリーエの取り巻きをする必要など一切なく、むしろみずからが取り巻きを引き連れて歩くべき立場だったのだが、本人は嬉々として取り巻きをやっていた。
もちろんアンネリーエが大好きだからである。
なので取り巻き仲間からは「おかしな子ね……」と思われつつもそれなりに可愛がられていた。
アンネリーエがくすりと笑って侍女をたしなめた。
「いつまでも学生気分ではいけませんよ。リーウィアも今となっては辺境伯夫人です。その気になればあなたを処罰することだってできなくもないのです」
「偉くなったものね」
「しょはつなんてひまへんよ? しょんなおほれおおい。らからはなひて……」
「こちらが移民申請者の名簿となります。どうぞご査収ください、レウリアーダ夫人」
マリステラがニッコリと微笑んで手を放してくれた。
「ありがとうございます……」
リーウィアは両手でほっぺをさすさすしつつも、取り巻き先輩にビクついていた。
暴力反対である。
ともあれ、リーウィアは受け取った名簿に記載されている名前を確かめていく。
「……このお話を聞いたときから、そうではないかと疑っていたのですけど、移民を申請している人の大半が当家を訪ねて来られた方々のようです」
結婚式後の四週間弱のあいだ、多数の魔種が正規の手続きを踏んだうえでリーウィアとの面談を求めてきていた。
披露宴におけるリーウィアの「魔種に広く門戸を開く」という宣言を受けてのことだ。
これは訪問客自身がそう口にしていたので間違いない。
彼らが訪ねてきた要件は様々だ。
レウリアーダ家と誼を通じたいという者。あるいはレウリアーダ家に仕官を求める者もいた。
無論、誰もがリーウィア個人に強い興味を持っていた。
ハッキリとそう口にしていたわけではないが、ディートリヒと同じくリーウィアと似た魔力の性質を持つ人を探したいという者も少なくなかったと推察する。
イェルドに強い興味を抱いている者もいた。
それは魔種としての強さであったり、エリアスとの戦いであったり、魔法の技術であったりと、これも色々だ。
「――というように目的は人によって様々です。ただ一人として無礼な振る舞いをなさったり、私に色目を使ったりされる方はいらっしゃいませんでした。
マヤが……私の侍女が申すところだと、彼らは『奥様を推したい方々』なのだそうです。
いえ、待ってください。おっしゃりたいことはわかります。
正直なところ私もよくわかっていないのですけど、彼らはですね、私と直接どうこうなりたいとは思っておらず、こう……父親? 兄? のような目線で私のことを温かく見守ってあげたいといったような? そういう考えをお持ちの方々なのだそうです」
リーウィアなりに頑張って説明をしてみたものの、アンネリーエも大臣二人もわかったようなわかっていないような微妙な面持ちを浮かせていた。
「つまり彼らは夫人を応援したい者たちということか?」
「なにを応援するのだ」
外務卿に典礼卿が至極当然な突っ込みを入れた。
おっしゃるとおりで、ただ辺境伯夫人として日々を過ごしているリーウィアのなにを応援するというのか。
「支持者? ないし支援者というのが適切なのではないですか?」
「あ、それが一番近いかもしれません。なにぶん私もよくわかっていないので感覚的なものですけど」
そうアンネリーエに共感する一方で、リーウィアは解決への道筋をつけ終えていた。
(でも嫌だわ。できればやりたくない……)
三人もまた移民申請者の大半がリーウィアの支持者(暫定の理解)であるということを知ってしまった。
移民申請者は原則としてリーウィアの味方なのだ。
これを受け、ともすればアンネリーエたちはリーウィアと似た解決策に思い至っているかもしれない。
(私は悪くない。絶対に悪くないけど、世の中には〝結果責任〟という言葉がある)
たとえ結果論であろうと、結果として不利益が出ている以上は誰かがそれを負うか始末をつけねばならないのだ。
その槍玉に挙げられるのは誰か。決まっている。
(原因を作ったと〝見做されている〟私よね……)
でも面倒くさいのでやりたくない。どうにかして逃げたかった。
そこでリーウィアは口先を弄することにした。
「外務卿閣下」
「なんだね」
「知恵を出すにしてもまずは政府の方針をお聞かせいただけないでしょうか? 彼らはいくつもの周辺国から参集しておりますけれど、その所属国における各人の重要度、また、各国に対するグランフェルトの政治姿勢もそれぞれ異なると思うのです」
流出している魔種たちはそれぞれ別の人間であり、人の数だけ異なる背景を持っている。
立場や爵位なども様々であるし、所属国での重要性も人によって異なっているはずだ。
それに加え、イグサーマク王国とヴェステリア公国とでグランフェルトの政治姿勢が異なるように、魔種が属する国への扱いも当然変わってくるだろう。
つまりリーウィアは言外に「これは一括りに処理する案件ではないですよね?」と主張していた。
「夫人の言うことはもっともだが、現状だとこれといった方針は定まっておらん。事が明るみになってからまだ三日か四日ほどしか経っておらんのだ」
続く外務卿の説明によると、エリアスの移民申請が露見するのと時を同じくして外務局に各国から抗議が寄せられるようになったという。
今はまだ各所が対応に追われている状況であり、解決に向けた方針を定められていないのだそうだ。
リーウィアは機を逃さず畳み掛けた。
「であるなら、まずは政府のなかで方針を定められてはいかがでしょうか? シュミット卿の問題、黒幕問題、ラングレン夫妻の問題、公子の問題まで道筋を付けられました。少しは息つけるはずです。
これは不敬を承知で敢えて申し上げますけれど、そもこのような国家の大事をアンネリーエ様お一人に――有り体に申せば押し付けてしまうのは、いかに英邁な国王陛下と王太子殿下といえどご無体に思うのです」
リーウィアの言葉(責任回避の詭弁)にアンネリーエがパァっと顔を明るくさせた。
「それです! まさにリーウィアの言うとおりです! いかに『リーウィア担当』とはいえ、このような大問題の始末をわたくし一人に押し付けるのはどうかと思いますよ! あなた方がまず陛下とユークリウス様を諌めるべきではありませんか!」
リーウィアは胸中でほくそ笑んだ。
(釣れたわ……!)
この勢いのまま逃げ切ってしまおう――そう思ったときのことだ。
典礼卿がさらりと突っ込んだ。
「いや、その国家の大事を引き起こしたのは夫人ではないか」
「左様だ」
「そういえばそうでしたね」
アンネリーエまで冷静になってしまい、リーウィアは胸中で盛大に舌を打った。
(くっ! 気づかれてしまったわ……!)
彼らは当たり前のことに当たり前に気づける有能な大臣であった。
リーウィアが言っていることは、放火魔が衛兵に「火消しのやり方がなっていない」などと講釈を垂れているようなものだ。
衛兵が「そもそも火をつけるな」と言いたくなるのは当然である。
もっとも、その衛兵にしても「どうやってこの火を消そうか?」と放火魔に相談している始末なので、もうなにがなんだかという話ではあるが。
「夫人の話を聞いたところ移民申請者の大半が夫人の支持者なのだろう? 夫人が説得すれば取り下げるのではないか?」
「その可能性は大いにあると思う」
典礼卿と外務卿がリーウィアが避けたかった方向に話を持っていく。
アンネリーエは口こそ開かないものの、すでに結論が出たとでも言わんばかりに満足気に頷いていた。
進退窮まったリーウィアは諦めの息を吐いた。
「……提言いたします」
「是非とも聞かせてもらおう。夫人の献策はどれも具体的かつ細かな点にもよく配慮されておるゆえな。非常に助かる」
外務卿がじつに綺麗な笑みを浮かせた。
リーウィアは不本意を隠すことなく腹案を披露する。
「移民申請者を個別に説得していては事態を終息させるまでに時間を要します。時間をかければ別の問題が発生しかねません。また、新たな移民申請者を生まないためにも早期の一括処理を行うことが肝要と考えます」
具体的には施策を三つに分けて行う。
一つは移民申請者に対して、もう一つは移民申請者が所属する国に対して、最後はグランフェルトが国内外を対象に打つ施策だ。
「まず法務局にて名簿にある魔種の移民申請を一律で却下します。
ただ却下しただけでは、それが何人になるかは予想がつきませんが恐らく揉め事に至るでしょう。
そこで却下するのに併せて移民申請が通る条件を明確にします。
また、この措置を執った根拠として私直筆の文を法務局から渡していただきます。その文を通じてこういう事態となった経緯の説明と、結果的に私の立場が不安定になっている旨を伝えます。
この時点で大半の方が納得してくださると予想しますが、それでも引き下がらない方がいらっしゃれば国が厳とした措置を執るか私が個別に説得することも検討します」
どの国に籍を置くかは原則として個人の自由だ。
しかしリーウィアのもとを訪ねてきた魔種たちは全員が貴族である。
貴族である以上は家門のしがらみから逃れることはできない。たとえ本人が出奔しようと家門の当主が正式に除籍しない限り、どこへ行こうと家名はついて回るのだ。
ゆえに申請を却下された者たちへ申請が通る条件を明確に示す。
簡単に言えば「家門から移民する許可を得てくるように」と。ただそれだけだ。
「却下を終えたあと申請者が属する国々の大使を集め、グランフェルトが執った措置の説明を行います。
同時に私が持つ特性も改めて明らかにしておいた方が良いでしょう。
この説明は一括で処理せねばなりません。国ごとに通知しては陰謀論を助長させるだけです。
もちろんこの説明だけで疑惑が消えるかどうかは未知数です。しかし我が国は公の場で筋を通した事実を残せます。
原則として移民は個人の自由でございます。
申請者が属する家門の承認を得ているのであれば、我が国が拒絶する理由は存在しません。それを周辺国が問題視するというのであれば『そちらの国内問題では?』と、グランフェルトは憂うことなく主張できます。
逃したくないならおのが努力で繋ぎ止めろと、ただそれだけの話でございますから」
最後の一つはどうということはない。
「最後となりますが、国内外に向けて今回の事態とグランフェルトが執った措置を布告します。これは申請条件を満たしていない新たな移民申請者の発生を抑止することが目的です。以上となります」
リーウィアの献策を受け、しかし三人の表情は優れなかった。
なぜとは思わない。リーウィアもこの措置に大きな問題があることを承知していた。
「じつに良い提言だと思います。けれどわたくしは承知できません」
「なぜですか?」
「提言した本人が気づいていないはずがないのですが。……あなたの身が危うくなるからです」
外務卿が続く。
「私としては夫人の提言をそのまま実施したいところだが、私も妃殿下と同じ点を憂慮している。事を収めるには最適解かもしれぬが、この提言はある意味で夫人を犠牲にすることで成り立つものであろう?」
「然りだ。夫人には辺境伯の制御役という他の誰にも担えない極めて重要な役目を担ってもらっておる。夫人の身に万一のことがあればそれこそ深刻な事態を招きかねぬ」
三人が懸念しているのは、リーウィアの提言が自身の特異性と希少性を前面に押し出すことで成立している点だ。
リーウィアが魔種を魅了する。現実として移民という行動を取らせてしまうほど多くの魔種を引き寄せていた。
このことはすでに周知の事実だ。
しかしだからといって、それを世界に広く喧伝するとなると話は違ってくる。
リーウィアを得ようと、あるいはリーウィアをグランフェルトの急所と考える勢力が危害を加えようと目論むことが懸念された。
本人が望む望まずに関わらずリーウィアは王国の安全保障政策の一翼を担っている。
そんな重要な存在をどうしてみずから危険に晒すのか。
為政者目線で考えると、アンネリーエたちが拒否感を覚えるのは道理だった。
だからこそリーウィアはまたもや胸中でほくそ笑んだ。
(今度こそ釣れたわ……!)
この絵面こそがリーウィアの真なる狙いである。
意図的に自己犠牲を装い、偉い人たちの庇護欲を誘う。
根っからの後輩気質なリーウィアがひねり出した責任逃れの一手であった。
「本当は気づいていたのでしょう?」
アンネリーエに問われ、リーウィアは素直に頷いた。
「そうした危険はあるのだろうなとは思っていました。しかし国家の大事です。そうも言っていられません」
これはあながち嘘でもない。
危険があることは承知しているものの、どうにも現実感が持てないというのが本音だった。
(それにこう言っては叱られるかもしれないけど、大丈夫じゃないかしら?)
イェルドがいる。今はリグまでもが屋敷に常駐してくれているし、エリアスだって居候している。
そもレウリアーダは洗濯女中までが火球を放つ人外魔境だ。
荒事に無縁なリーウィアにしてみれば、あんな大火球をぺっと手で弾いてみせるサシャでさえ「この子って本当に私と同じ種族なのかしら?」と疑問に思っているくらいなのだ。
そのサシャがリーウィアが外出するときには必ずついてくれている。
たとえ襲われたところで襲撃者が哀れな末路をたどるようにしか思えないのだ。
(それにしても環境への慣れって恐ろしいわね……)
知らぬあいだにリーウィアも非常識が日常のレウリアーダに染まっていたようだ。
その証拠に無意識下で「やるのか? 上等だ、かかってこい」みたいな野蛮思考が働いてしまっていた。
実家にいた頃なら間違いなくこんな考え方をしていなかったはずだ。
(マヤもずっと腰にナイフをぶら下げたままだし、もう二人とも手遅れかもしれないわね……)
それはさておき今は責任回避である。
正確を期すならすでに責任は回避できないものの、それでも後始末に駆り出されるのは勘弁していただきたいところだ。
(誰がなんと言おうと私は悪くないしっ、そもそも国に責任を丸投げしていたのにどうして後始末までさせられなければいけないのっ、こんなの理不尽だわっ!)
リーウィアは真心から善き行い(アンネリーエへの忖度、ないしヨイショ)をしただけだ。
このような善良な者が憂き目に遭うなど断じて容認してはならないのだ。
(……絶対に逃げ切ってみせる)
目論見どおりアンネリーエたちが提言に難色を示している今、自己犠牲を厭わない立派なリーウィア夫人を演じきって逃げを打つ。
これしかない。引き続き夜をぐっすり眠るために。
「皆様がご心配くださるのは嬉しゅうございますけれど……」
ありありと罪悪感を顔に浮かせ、さも憂国の士であるかのように振る舞うリーウィア。
「なにも情だけで懸念しているわけではないのですよ。友人として申し訳なく思いますけれど、あなたの存在自体が我が国の安全保障政策に組み込まれているのです。少なくとも外務卿と典礼卿は国益を基準に判断してのことです」
「我らを冷酷無比であるかのように言わないでいただきたい」
「まったくです。純粋に夫人の身を憂う気持ちもあるのですぞ?」
そんな三人の掛け合いを受け、リーウィアは敢えて唇を結んだ。
手前の話じゃないが沈黙は金なりだ。
ここで余計なことを言ってはいけない。誰かがあと一言口にすれば勝敗が決する。
救いの女神はやはり敬愛する彼女であった。
「この件は一度わたくしたちで引き取りましょう。個人的に陛下やユークリウス様に思うところもありますし? リーウィアが言うようにまずは政府の方針を定めたうえで、改めて知恵を借りるなり協力を仰ぐことが正道ではありませんか?」
「そうですな」
「外務局でも夫人の献策を踏まえて方策を練ってみます」
リーウィアは胸中で小躍りならぬ大踊りした。
(勝っっっったわ……!)
文句なしの大勝利である。
一時はどうなることかと思ったが、これなら実害は無いに等しい。
(少し……いいえ、かなりの精神的な負担を負わされたけど、それだけ! 舌先三寸でこの難局を乗り切ってみせたのだから上出来も上出来よ! よくやったわ、リーウィア!)
リーウィアは顔がニヤつきそうなのを我慢しつつ、感謝の気持ちを込めて空手形を贈った。
「ありがとう存じます。皆様のお気持ちに甘えさせていただくことにします。ですがもし、私に〝協力できることがあれば〟この身を懸けてお尽くしする所存です。遠慮なくご相談くださいね」
もちろん相談内容によっては「それは協力できませんね」と言い放つかもしれないが、どうかその点は許してもらいたい。
たらればなんてものは所詮仮定や想像でしかないのだ。
「ひとまずこれで区切りがついたかしら?」
「ええ、大いに助かりました。ありがとうございます、殿下、夫人」
外務卿の労いを受け、リーウィアは内心はさておき品のある微笑を返した。
「それでは引き続きイグサーマク大使との会談をよろしくお願いします」
「…………」
リーウィアは絶望した。
目先の逃亡に囚われるあまり、すでに逃亡が不可避な一件を失念してしまっていた。
もしかすると本能が臭いものに蓋をしたのかもしれない。
「一度戻らせていただきます。大使が到着しましたら人をやりますので」
「私も仕事に戻らせていただきます」
外務卿と典礼卿が満足感を滲ませつつアンネリーエの執務室を出ていった。
「疲れましたか?」
「はい、とっても」
リーウィアは知らず知らずのうちに肩から力が抜けていくのを感じた。
アンネリーエがくすりと笑って使用人に目配せをした。
「少し休憩にしましょう。大使が来るまで暫く時間がかかるでしょうから」
新しい茶が供されるのをぼんやりと眺めながらリーウィアはふと思い至った。
アンネリーエに「少し御前を失礼します」と断り、机で執務に勤しんでいる侍女マリステラのもとへ向かう。
「あのぅ、マリステラ様?」
「なんですか?」
「まだまだ帰れそうにないので家に報せを出したいのですけど、お願いできますか?」
「それは構わないけど……。あなたの従者が二人、控室で待っているわよね?」
マリステラが言う従者とはもちろん、マヤとサシャのことだ。
「どちらかを帰してはどう? 家中の者から報せたほうがレウリアーダの皆様も安心できるでしょうし」
ごもっともな話だが、リーウィアは困り顔を添えて答えた。
「二人とも私を残して帰るような者ではありませんし、あの子たちには後宮を出るときに『時間がかかりそう』としか伝えていないのです。まさか王太子妃殿下が病を装って私を捕らえようとされていただなんて言えませんもの」
マリステラが小さく吹き出した。
「ふふっ、それはそうね」
「笑っていないでアンネリーエ様をお諌めください。仮病など使わずとも呼ばれたら参じます」
「そうかしら? 妃殿下が突然『これからわたくしは病になります』とおっしゃったとき、私も『確かにリーウィアなら逃げてもおかしくないわね』と思ったのだけれど」
「もうっ」
むくれるリーウィアにマリステラがくすくすと笑った。
「いいわ、こちらから使者を出しましょう」
「遅くなるとだけ伝えてください。この場で話したことは外に出せるようなものではありませんから」
「わかりました」
「あと、旦那様には家で大人しく待っていてくださるよう伝え……いいえ、一筆したためますのでお届けください」
「なあに? 辺境伯閣下はあなたの帰りが遅くなるくらいで王城に攻め寄せて来られるような方なの?」
「どうでしょう。さすがに攻めては来られないと思いますけど、様子を伺いに来るくらいであればなさるかもしれません。過保護な方ですので」
「ごちそうさまです。愛されているわね」
「おかげさまで」
マリステラが立ち上がり不意にリーウィアを抱きしめた。
「マリステラ様……?」
「あなたが幸せそうで本当に良かった。皆が心配していたのよ」
リーウィアはマリステラの体温を感じながら自然と頬を緩めた。
「……もう、これが何度目ですか? これまで幾度となく『良かったね』『心配したのよ』と伝えてくれたではありませんか」
「そうだけど。あなたが結婚してからはこれが初めてよ」
確かにそうだ。
そして何度目であろうと、この温かな気持ちを受け取るたびに涙があふれそうになる。
(私は本当に人に恵まれているわね……)
だってリーウィアの幸せを我がことのように喜んでくれる人たちが、こんなにもたくさん居てくれるのだから。
「マリステラ様」
「うん?」
「傷物になってしまった後輩は今とっても幸せですよ」
「そう」
「愛してくださりありがとうございます。お返しに私は三倍返しでマリステラ様を愛し返しますね」
マリステラはリーウィアの言葉を拒絶するかのように抱擁を解いた。
「遠慮するわ。私はアンネリーエ様のようになりたくないもの」
「……どういう意味ですか?」
「だってリーウィアに愛されると地獄を見るでしょう?」
「まあっ、なんてひどいっ!」
「ふふっ」
そこでパチンと扇子を畳む音が聞こえた。
「わたくしは此度の件を通じて学習しました」
アンネリーエは扇子に代わってティーカップを持ち上げながらニタリと意地の悪そうな笑みを浮かせて言う。
「リーウィアのやらかしは本人が無自覚かつ善意からのものゆえに予測も阻止も不可能です。
しかしです。たとえ避けられぬ厄災であろうと、そんなものは本人に始末させれば良いのです。
ご覧なさい。リーウィアは過去に類を見ない数々の大厄災を、その賢い頭を遺憾無く発揮してあっさりと解決してみせたではありませんか。
最大の勝利者は『リーウィア担当』であるわたくしに他ならないでしょう」
余裕たっぷりに優雅な所作で紅茶を口に運ぶアンネリーエ。
とうとう地獄から逃れる道を見つけ出した王太子妃はじつに晴れやかな顔であった。
「ああおっしゃっているけど?」
からかうような目を向けてきたマリステラに、リーウィアは不敵な笑みを返した。
「私は全力で逃げますよ。だって私はなにも悪くないのですから」
「ふっ、逃すとでも? わたくしを誰だと思っているのです。この国の王太子妃ですよ」
鼻で笑うアンネリーエ。
マリステラとリーウィアは思った。
(そうおっしゃるなら仮病なんて姑息な手を使わず、堂々とリーウィアを呼びつければ良かったのでは……?)
(悪ぶるアンネリーエ様、可愛らしい……)
なんてことを思いつつも、リーウィアは即座に切り返した。
「アンネリーエ様こそ私を誰だと思っているのです。おそらく世界で唯一魔力がえっちな淑女なのですよ」
「あらあら、えっちな淑女だなんて。なかなか皮肉が効いていて良いではないですか」
「そちらが権力を持ち出してこられるなら私は旦那様とヨランお祖父様に告げ口します。『アンネリーエ様が虐める、助けて』って」
「それはズルいでしょう!?」
リーウィアが保身に走り、アンネリーエがキレ散らかす。
そんな主従で親友な二人の関係はこれからも変わることはないのかもしれない。
◆◇◆
そうしてリーウィアは図らずも国際外交の現場に赴くことになってしまった。
ただ、あれだけ嫌がっていたわりに会談を終えたのちの感想は「良い経験をさせていただいた」というものであった。
元来リーウィアは好奇心が旺盛な娘だ。そうでなければ王国学舎を首席で卒業などできるはずがない。
人生初となる国家と国家による外交交渉の舞台は、リーウィアに多くの驚きと知見をもたらしてくれた。
会談はイグサーマク側から大使を含む三名が出席し、グランフェルト側は外務卿と外務官僚の二名が出席。
そこへ参考人としてリーウィアが、リーウィアの後見としてアンネリーエが立ち会うことになった。
事前に外務卿から「混乱してはいけないから」と説明は受けていた。
どういう合図を受け、どういった発言をすべきかも細かく教示されていた。
そこには「適当に話を振るので上手い具合に合わせてくれ。夫人なら問題なくこなせるだろう」なんていう無茶振りも含まれていたのだが。
ともあれ、交渉が始まるとまさに外務卿から聞かされていた流れになった。
驚いたのは両国ともに相手を全力で非難して、みずからの責任は一切認めなかったことだ。
外務卿曰く「国を背負った外交交渉とはそういうもの」なのだそうだ。
状況を鑑みるとイグサーマク側がグランフェルトを責められるはずがないのだが、そんなことは知ったものかと言わんばかりに彼らはやれ「言いがかり」だの「こちらが被害者」だの「悪辣な策謀」だのと問いただしてきた。
あくまでも理性的にだ。
論法も論拠も破綻しており〝相手を罵倒する作業〟のように見えてしまった。
これがある種の国家間外交における様式美だということは承知している。
だがその点を踏まえても、大真面目な顔をした大人たちが、知性に欠ける罵り合いを淡々とこなしている。そんな絵面は酷く滑稽に映った。
リーウィアは思わず胸中で「これって交渉のはずよね? 小さな子供の言い合いに見えるのだけど?」と苦笑したくらいだ。
そうしたリーウィア目線だと生産性のない罵倒合戦が長く続き、ようやく交渉らしい交渉が始まった。
この時点でリーウィアは辟易としていたのだが、それはきっとアンネリーエも同じだったろう。
ただそこは大国の王太子妃である。様々な方面で有能な彼女だが、そのなかでも外面を取り繕うことにかけては一流だ。
本音は単に「早く終わってくれないかしら?」と飽きて不機嫌だっただけなのに、それを見事にイグサーマク側への威圧に転用していた。
本格的な折衝に入ると、外務卿が逐一「夫人」と水を向けてくるせいで、リーウィアは「黒幕の手下らしく黙っている」という宣言をほぼ守らせてもらえなかった。
リーウィアが縋るような目を向けても、黒幕のアンネリーエはその都度冷ややかな目を返してくるだけで助けてくれなかった。
ドンと構えて手下に喋らせるのは黒幕として正統なのかもしれないが、ズルいと思う。
そんな次第でイグサーマクとの交渉は紛糾し、明後日の方向に向かっては本筋に戻るという流れを繰り返し、結論に至るまで長い時間を要することになった。
会談が終わる頃には、リーウィアはすっかりへとへとになっていた。
確かに多くの知見を得られた経験であったが、もう二度と立ち会ってなるものかと心に誓うほどに疲労困憊になっていた。
「アンネリーエ様のお見舞いに来ただけなのにどうしてこんなことに……」
しくしくとマヤとサシャに泣き言を聞いてもらいながら、リーウィアはようやく帰路につく。
レウリアーダ邸に帰り着いた頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。
屋敷に入ると、憂い顔のイェルドが玄関ホールを右へ左へと行き来していた。
「リーウィアっ!」
「ただいま戻りました」
パッと顔を明るくさせて駆け寄ってきた夫は、見るからに酷く心配していた様子だった。
リーウィアからの手紙で「来るな」と釘を刺されていた手前、王城へ様子を見に行くわけにもいかず、ここでずっと右往左往していたのだろう。そんな姿が容易に想像できてしまう。
いつもどおりの過保護ぶりにリーウィアは自然と口元を緩めた。
「随分と遅かったじゃないか。殿下のご容態はそんなに悪いのか?」
「ふふ」
リーウィアはくすりと笑ってイェルドの胸の中にその身を滑り込ませた。
夫の的外れな問いかけが疲れ切っていた心を解いていく。
(温かい。やっぱり私が帰るべき場所はここだわ……)
じわりと広がる温もりに身を委ねながら、リーウィアは安らぎを与えてくれる愛しい夫を見上げた。
「ただお見舞いに行っただけなのに、たくさんこき使われてしまいました」
「……こき使われた?」
困惑した顔をしてイェルドが問い返してくる。
それはそうだろう。使い倒されたリーウィア自身もどうしてこんなことにと嘆いているくらいなのだ。
「これも結果論なのかもしれませんね」
リーウィアは砂糖よりも甘い夫の胸に頬ずりしながらぽつりとこぼしたのだった。




