41.ディートリヒ編(上)
近頃のリーウィアは順風満帆であった。
「今日も素晴らしい香りよ、マヤ」
「畏れ入ります」
リーウィアは自身の執務室においてお仕事前の紅茶の一杯を優雅に楽しんでいた。
「そして最近の私も、マヤが淹れてくれるこの紅茶に負けないくらい出来が良いと思うの」
「確かにここしばらくはやらかしていませんものね」
お付きの侍女の軽い毒舌もなんのその。
「ふふ、手厳しいわね」
思わず自画自賛してしまうくらいに、リーウィアは結婚して以降の自身の出来に満足感を覚えていた。
結婚式があんなことになり、この先どうなることかと少なからず不安を覚えたものだが、結婚後の生活は充実している。
まずイェルドとの夫婦生活は――。
(ちょっと困ってることもあるにはあるけど……)
概ね上手くいっていると思う。
仕事の面でも順調だ。
レウリアーダに籍を入れたことを契機に、義母フレンダも正式に女主人の仕事を教えてくれるようになった。
まだまだリーウィア一人だけでこなせるとは到底思えないものの、現在は義母を手伝いつつ、少しずつ仕事の引き継ぎを進めているところだ。
当面は義母が新米女主人を指導しながら支えていく体制が続くだろう。
「リグ様とクロエ様の取り込みなんて完璧だったと思わない?」
「それはもう、奥様らしい保身にまみれた見事な手管でございました」
「そうでしょう、そうでしょう」
リグとクロエの養子縁組の手続きが終わった。
リグは義弟、その妻であるクロエは義妹と、二人ともリーウィアの身内になっている。自然と呼び方も変わろうというものだ。
あの策が優れていたのは、たとえ国がぐだぐだと言ってきたところで構造上リーウィアに累が及ばないという点だ。
「魔導卿閣下と大旦那様を盾に使おうだなんて、奥様でなければ畏れ多くて考えもしないでしょうね」
「いやだわ、マヤったら。そんなに褒めてもなにも出ませんよ?」
「褒めてなどいません。姑息だなあと呆れているだけです」
「まあっ」
確かにクロエをヨランに、リグをルーカスに、それぞれ養子縁組するよう促したのはリーウィアだ。
だが現実に縁組をしたのはヨランとルーカスであり、物言いがついたところでその矛先は彼らに向くのが道理だ。
魔導卿と前辺境伯という盾は強固かつ分厚い。
リーウィアが叱られることなどないのである。
そういう次第でリーウィア自身は順風満帆なわけだが、臣下のことには一つだけ気懸かりがあった。
「ところでシュミット卿はまだお帰りにならないわね」
リーウィアが水を向けたのは、レウリアーダを離れてリーウィアの直臣の騎士となったサシャだ。
「なんなのですかね? あの人」
サシャが淡々と答える。その表情にはほんの少しも憂うところが見て取れなかった。
「あれだけスパッと断ったのに、落ち込んだ様子さえないですし」
サシャのなかではそういう認識であり、すでにエリアスとのことには区切りがついていた。
ただ、そうは言ってもリーウィアにだって思うところがある。
「私はサシャの意思を尊重するつもりよ。だけど本当に良かったの? 恋愛感情から望まれて嫁げるというのは、貴族の婚姻ではとても稀なことなのよ?」
「現に奥様はそうして嫁がれましたものね」
「そうね、だからこそという気持ちもあるの。後悔しない? 私のことを理由に――」
「それ以上は口にされてはいけません」
不敬にも断固とした声で遮ってきたのはマヤだ。
「騎士の誓いとはおのがすべてを捧げるものなのです。それを主君に拒絶されては〝サシャ〟は一個の騎士として心の置き場所を失ってしまいます」
「…………」
マヤがこうまで強く諌めてくることは滅多にないことゆえに、リーウィアは大きく目を見開き息を飲んだ。
サシャが嬉しそうに目を糸のように細めて言う。
「さすがに〝マヤ〟は私と同じ騎士爵家の娘ですね。騎士のなんたるかをよくわかっている」
サシャがリーウィアの個人騎士となって以降、二人の関係は変わりつつあった。
同じ主君に仕える専属の従者。同僚でありながら、どこか戦友のようでもある二人のあいだには強い絆が芽生え始めていた。
リーウィアは素直に間違いを認めた。
「ごめんなさい、サシャ。さきほどの言葉はすべて取り消します。私はあなたの忠誠を受けるに足る主人でいられるよう務めることを約束します」
「そんな大げさな。奥様はどうかこれまでと変わらず、ありのままでいてください」
リーウィアは頷き、マヤに微笑みかけた。
「マヤもありがとう。これからも至らぬ私を諌めてください」
「畏れ多いことを申しました」
三人一緒にくすりと笑ったそのとき、部屋の外から「おいっ!」と、恐らくイェルドであろう咎めるような声が聞こえてきた。
マヤが扉に向かい、サシャがリーウィアの隣に控えた。
「もう、旦那様ですよ?」
「私は奥様の騎士ですから」
執務室に入ってきたのはイェルド――ではなくアーロンであった。
「失礼します」
「待てって言っているだろう?」
アーロンに一拍遅れてイェルドも入ってくる。
リーウィアが苦笑いして二人に尋ねた。
「朝から騒々しいことで。どうされたのです」
「ディートリヒ・フォン・ロッシュフィルトを覚えておいででしょうか?」
「ええ、忘れるはずもありませんが……。公子がどうかしたのですか?」
「奥様への面会を求めて訪ねてきました。その報せを聞いたイェルドが問答無用で追い払おうとしたので、こうしてお知らせに参った次第です」
「あの傲岸な公子が私に会いに? どのような用件で?」
「奥様に対して犯した数々の罪を、心から謝罪したいと申しております」
「チッ……」
無論、心底面白くなさそうな顔をして舌を打ったのはイェルドだ。
「わかりました。お会いしましょう」
「リーウィアっ!」
「謝罪に訪れた者を門前払いしたとなれば、レウリアーダ家の器量が問われかねません」
「問われるものかっ。あいつはリーウィアに火球を放ったんだぞ?」
「もちろん事が事ですから謝罪を受け入れるかどうかは別の話です。それでもまずは寛容さを示しませんと」
リーウィアは立ち上がり、不満顔な夫の厚い胸板をそっと撫でた。
「それにもし万が一のことがあっても、きっとあなたが護ってくださいますから。私はなにも心配していません」
「も、もちろんだ……。君にかすり傷ひとつ負わせるものか……」
服越しに軽く触れただけなのに、途端にイェルドの鼻息が荒くなった。
寝所をともにするようになってからというもの、イェルドは際限なくリーウィアに溺れるようになっていた。
◆◇◆
結婚式後のディートリヒは、半ば追放されるようにして国元に送り返されていた。
ディートリヒは由緒あるロッシュフィルト公爵家の次子だ。
さらにはイグサーマク王の姪孫でもあり、将来を嘱望されていた強き魔種でもあった。
そんな国内でも指折りな身分を持つディートリヒといえど、講和を結んだばかりのグランフェルトとの外交問題を引き起こしたとあっては重い代償を支払わざるを得なかった
帰国後は国王や父ロッシュフィルト公爵を始め、周囲から猛烈な叱責と批判を受け、諸般の問題が解決をみるまでのあいだ、領地での謹慎蟄居を申し渡されることになった。
かつて傲岸不遜に振る舞っていた公子は、今や貴族社会の鼻つまみ者であり、格好の嘲笑の的にされるまでに落ちぶれていた。
しかしディートリヒ当人にとっては、そんな社会的な失脚などどうでも良いことであった。
謹慎の身でありながら、彼の日々の心を狂おしいほどに満たしていたのは、ただ一つの衝動。
「羨ましいことだ……」
――羨望である。
リーウィアという絶世の美女を妻に持つイェルドをひたすら羨ましく思っているところは結婚式のときとなんら変わらない。
だが今は、それを以ってイェルドを妬み憎んではいなかったという点が、過去とは大きく違っていた。
あの結婚式の日、傲慢にも「リーウィアは私にこそふさわしい」と暴挙に及んだディートリヒだったが、冷静になった現在はみずからの行動を省みられるようになっていた。
「あのときは完全に夫人の魔力に酔っていたな……。いいや、私ほどの魔種があの魔力に酔わずにいられるものか」
人の本質はそう簡単に変わるものではない。
ひとりでにこぼれ出た呟きにも、依然として傲慢さが滲み出ていた。
しかしそれでも、あのとき取った行動は常軌を逸したものであった。
そんな自己評価を下せる程度の良識は〝幸か不幸か〟ディートリヒとて持ち合わせていた。
ディートリヒはまた、リーウィアとは別の女性を想う。
「結局彼女は名を知ることさえできなかったな……」
あのときリーウィアの隣にいた名も知らぬ女性――クロエのことだが、ディートリヒは無論、彼女がリーウィアと同質の魔力を持つことに気づいていた。
イェルドにぼろ布のような有様にされてしまったあのとき、名も知らぬ彼女のそばには見知らぬ男が寄り添っていた。
二人の距離感から見て親族ではない。きっと彼女の夫なのだろう。
奇跡のように邂逅したもう一人の絶世の美女。
彼女もまた、すでに人のものであったのだ。
血涙があふれ出そうなほど悔しく、羨ましく、奈落の底に落とされたような絶望感を味わった。
だが裏腹に、ディートリヒはその絶望のなかにこそ眩いばかりの光明を見出していた。
「私もなんとしてでも彼女たちのような妻を娶りたい」
奇跡の女性はこの世にリーウィアただ一人だけではない。
それを名も知らぬ彼女が証明してくれた。
であればきっと他にも居るはずだ。二人のような魔力を持つ垂涎の女性が、この世の何処かに。
「だがどうやって探せばいい……?」
現状では自身の目で魔力を確かめるしか特定する方法が無い。
だがディートリヒは魔種であり、また高貴な出自であることもあって、齢十八にして数多の貴婦人や令嬢を目にしてきている。
言うまでもなくリーウィアのような魔力を持つ女性は皆無だった。
「血筋なのか? それとも人種か? 地域性もあるかもしれない。魔力の強弱? 元素型? 探すにしても手掛かりが欲しい……」
探して見つかるなら足が千切れようとも歩いて回る覚悟がある。
しかし闇雲に彷徨い歩いて出会えるとは到底思えなかった。
「本人に尋ねてみるのが近道か……」
なにせ探す指針となる材料が一つとして手元にないのだ。
ならば現状で所在が判明しているリーウィアの元を訪ね、たとえそれで有力な情報を得られずとも、彼女の魔力を調べさせてもらえたなら手掛かりとなる何かを得られるかもしれない。
とはいえ結婚式でのあれがある。
無策で訪ねても追い返されるのがオチだろう。
「誠心誠意謝罪するのは当然として、最低でも詫び金くらいは持参すべきか。……よし」
そうと決まれば、謹慎の身などという縛りは傲慢な彼にとってあって無いようなものだ。
ディートリヒは即座に実家の金庫から多額の金をくすねると、単身レウリアーダに向けて旅立ったのだった。




