40.リグ・クロエ編(下)
往路は三日と半日、復路を三日。
公王から授かった「駐在員」という新たな使命を胸に、リグは再びグランフェルト王国を目指して街道を爆走した。
合計で六日以上にわたって使い続けた身体強化魔法は、リグ自身も知らず知らずのうちに、まるで手足を動かすかのように滑らかに行使できるようになっていた。
習うより慣れよ。リグはこの厳しき道程のなかで一つの学びを得ていた。
「クロエっ……!」
もはやリグの速度は野生の魔獣ですら置き去りにする速度に達していた。
足の感覚はとうに消え失せ、全身の筋肉は悲鳴を上げていたが、リグの心はこれまでにない義務感と「早くクロエの顔が見たい」という一心のみであった。
そうして意気軒昂に駆けていたリグだが、現実の前では無力であった。
「ハァ……ハァ……つ、着いた……。戻って、きたぞ……」
王都にたどり着いた頃にはやはり、リグは見るに堪えない惨憺たる有様であった。
服は泥まみれ、髪はボサボサ、立っていることすら奇跡に近い状態なリグはしかし、確かな充足感と喜びに満ちていた。
ようやく愛する妻に会えるのだ。嬉しくないはずがない。
「クロエも寂しかったろうな……」
これだけの日数をクロエと別れていたことなど、かつてなかったことだ。
行きではリグを笑顔で送り出してくれたものの、きっと今頃は酷く寂しい思いをしているに違いない。
仕事とはいえ可哀想なことをしてしまった。
リグはそんな妻への気遣いも忘れていない。その手には、祖国でクロエが好んで食べていた郷土菓子が握られていた。
レウリアーダ邸内へ足を踏み入れたリグは、使用人たちからの「おかえりなさいませ」に輝く笑顔で「ただいま」を返しながら、夫婦に与えられた客間を目指した。
「クロエ、待たせたな! 今帰ったぞっ!」
「あ、おかえりなさい、リグ。早かったね」
鈴を転がすような上品な声で、見知らぬ貴婦人が微笑みかけてきた。
艶やかに結い上げられた髪。洗練された美しい仕立て服を完璧に着こなし、指先にはあの照明に透かしていた美しい爪がまばゆく光っている。
とても美しいお嬢さんだった。
「ク、クロエ……なのか……?」
震え声で尋ねるリグは、手土産の包みを持つ手までぷるぷると震わせていた。
クロエであることはわかる。見間違えるはずがない。
だが少なくとも、リグが知る妻はこんなお上品な婦人ではなかったはずだ。
「ううん? 私じゃないなら誰なのよ、変なリグ。ふふっ」
クロエが口元に手を添えてくすくすと笑う。
やはり違う。妻はこんな貴婦人のような所作で笑う人ではなかった。
人懐っこい笑みで「あはは」と声を上げて笑う純朴な女の子だったはずだ。
それがどうして別人であるかのように変貌を遂げている。
公国での滞在時間を込みで数えても、クロエと別れていたのはたったの九日に満たないというのに――。
「い、いったいなにがあった……?」
「なにって?」
不思議そうに小首をかしげる仕草すら、どこか品を感じさせるなどと思ってしまうのは、いくらなんでも先入観だろうか。以前はもっと愛嬌が前面に出ていた気がするのだが、今は思わず見惚れてしまうくらい美しく映る。
リグはいまだ衝撃から立ち直れていないまま、携えてきた土産を妻に差し出した。
「いや、いいんだ。それよりほら、クロエが好きなお菓子をお土産に買ってきたんだ」
「わあ、嬉しい。ありがとう!」
はしゃぐ姿はよく知る妻そのものだった。
ようやくリグは胸を撫で下ろした――が、
「あー、これこれ、懐かしいな……」
クロエは目を細めて菓子を味わってくれたものの、一口だけを口に運んだだけで終わってしまった。
「お仕事はどうだった?」
「え? ああ……無事に陛下へ報告できたよ」
帰国にまつわるあれこれを話して聞かせてやるあいだ、クロエの口に運ばれたのは使用人が淹れてくれた上質な茶葉を用いた紅茶のみで、土産の菓子に手が伸びることはとうとうなかった。
「ええっ!? ほんとに!?」
「本当だよ。ほら、政府から発行された任命書もある。クロエの名前も書かれてあるだろう?」
「わあ……本当だ、すごいっ!」
国元での話のなかでクロエが劇的な反応を示したのは案の定、リグたちがレウリアーダへの駐在員に任じられたことだった。
クロエの喜びようが土産の菓子なんかとは比較にならないほどで、任命書を掲げてぴょんぴょんと跳ねている。
身命を削っての強行軍から戻ってきたリグと再会した瞬間や、故郷の菓子を食べたときよりも明らかに今の方がはしゃいでいた。
(お菓子、潰してしまわないよう守りながら走ってきたんだけどなあ)
ほんの少しだけ悲しい気持ちが胸をかすめた。
しかしそれ以上にリグの心は温かい充足感で満たされていた。
「ずっと王都にいられるかな?」
「それはどうかな。俺たちは公国側の連絡窓口だ。辺境伯と話してみないとなんとも言えないけど、領都への滞在が基本になるんじゃないかな?」
リグはずっとこの瞬間を待ち焦がれていたのだ。
「領都には海があるんだって! 王都ほどじゃないけど、すっごく賑やかな街で美味しい海の幸もたくさんあるって!」
たとえ自分の努力が多少空回りしていようと、これほど嬉しそうに目を輝かせているクロエの姿を見られたなら、すべては取るに足らない事だ。
なにもかもが報われ、リグをただただ幸せな気持ちにしてくれる――。
「確かに王都とは随分と趣きが違っていたけど、すごく発展した街だったよ」
「行ったの!?」
「ああ、王都に戻る途中で少しだけな。グレーゲル卿に駐在員への任官をお知らせに伺ったんだ」
愛する妻の幸福こそが、リグにとっての幸福そのものなのだから。
「もし共同事業を行うとなったら、そちらの橋渡しもしないといけないだろうし。そういう意味では辺境伯と夫人次第なところもある。現実的には王都と領都を行ったり来たりな感じになるかもしれないな」
「それもいいね! ううんっ、それがいいよ! 普段は領都で社交の季節は王都暮らしって最高じゃない!?」
「遊びじゃないんだぞ。俺たちは仕事でレウリアーダに詰めるんだからな」
「わかってるって!」
クロエの見た目と所作が別人のように変わってしまっていたことに戸惑ったリグだが、こうして話してみると妻の本質がなにも変わってなどいないことがよくわかる。
リグは改めてそのことを実感し、久しぶりの夫婦の会話を楽しんでいた――そのときだった。
上品に引かれたノックの音が響き、客間の扉が静かに開いた。
「夫婦の再会に水を差すのもどうかと思い、引き返そうかと思ったのですけれど。なにやら興味深いお言葉が聞こえましたので、思わずお邪魔してしまいました」
優雅な所作で頭を下げ、どこからどう見ても無害な微笑みを浮かべたリーウィアが部屋に入ってきた。
だがリグは知っている。いいや、祖国において思い知らされた。
「リーウィア様ならいつだって大歓迎ですよっ。さあ、座ってください」
「ありがとうございます。少しだけお邪魔しますね」
クロエに手を引かれてリーウィアがソファに腰を沈めた。
「おかえりなさいませ、ラングレン卿」
「ただいま戻りました。さきにご挨拶に伺うべきでしたのに、こちらまで足を運んでいただくことになってしまい申し訳ない」
「そのようなことをおっしゃらないでくださいな。〝私たちの仲〟ではございませんか」
「…………」
目に見えているものに騙されてはいけない。
柔和に微笑みかけてくるリーウィアはしかし、冷徹な為政者であり、また策謀家の一面を持っている。
事実、リグとクロエが駐在員に任じられたのは、この一見無害にしか見えない女性が綿密に線を引いた絵図によるものだった。
公王に宛てたリーウィアの手紙を読ませてもらい、若いながらも壮絶な歩みであった彼女の境遇を知り、また、その思慮の深さ、リグを含めた魔種への真摯な思いに触れることができた。
王都を発つ前と今とではリーウィアに対する見方が別物と言って良いほど変わっている。
リグは五つも年下の若き夫人に対して尊敬のみならず畏怖すら覚えていた。
確かにそう思っていたのだ――変えられてしまったクロエを目の当たりにするまでは。
(やっぱりなんだかんだ言っても奴の妻か……。俺のクロエを贅沢漬けにして公国に帰さないつもりなんだろう。……なにが〝私たちの仲〟だ。悪知恵の働く女狐がっ)
すでにリグとクロエはリーウィアの目論見通りに駐在員に任じられている。
今さらクロエを贅沢漬けにして抱き込む必要はないだろう。
だがリグはリーウィアの本質の一端に触れたからこそ、余計に信じられなくなっていた。
(この女狐は駐在員に任じられたからといって攻めの手を緩めるような甘い女じゃない。とことんまでクロエを都会ぐらし漬けにして内側から染め切ろうとするに決まっている。……そうはさせないぞ。俺がクロエを守ってみせる!)
胸中で警戒感を強めたリグも知らないことがあった。
リーウィアは大国グランフェルトが誇る対魔種決戦兵器、魔種を確殺する魔性の女なのである。
その証拠に、
「ところで、さきほど駐在員という……あら、これは?」
リーウィアが言葉を止めて注目したのは、リグが持ち帰った公国のお菓子だ。
「あ……それはですね、我が国のお菓子でして……」
「まあっ、クロエ様へのお土産でしょうか? とても興味があります。意地汚いと思われるかもしれませんが、お一つ頂戴してもよろしゅうございますか?」
「こんなもので良ければどうぞっ」
リグがなにかを言う前に、クロエがニッコニコでリーウィアに勧めた。
リグとしても食べてもらう分には一向に構わないのだが、正直なところ大国の伯爵令嬢として育ったリーウィアの口に合うと思えなかった。
「構いませんか?」
「ええ、どうぞ」
きっと当たり障りない世辞を聞かされるだけで終わるだろう。
そしてそうなることは、あまり面白いことではなかった。
母国を遠回しに「未熟」だと皮肉られているような――そんな卑屈な受け止め方をしてしまう自分が嫌で。
「んっ……んんっ!」
干し果実の自然な酸味と、ザクザクとした香ばしい木の実が練り込まれた焼き菓子を一口かじった瞬間、リーウィアは大きな瞳をさらに丸く輝かせた。
「これ、とても美味しいですねっ」
「え、あ、口に合いましたか……?」
「はいっ、とっても。ごめんなさい、もう一つだけ頂戴しても……?」
「ええ、それはもう、なんでしたら全部食べていただいても構いませんけど……」
「ありがとうございますっ」
リーウィアは本当に嬉しそうに、二つ目、三つ目と、小さな口へ次々に菓子を運んでいく。
その食べっぷりは決して品を損なうものではなかったが、大国の高位貴族のご令嬢が、クソ田舎の素朴な菓子をこれほど嬉しそうにパクパクと食べている光景は、リグにとって驚き以外の何物でもなかった。
「じつのところ私、こういうお菓子をずっと探していたのです。王都のお菓子はどれも乳脂や砂糖がふんだんに使われていて、まるで『甘いことこそが正義』と言わんばかりの物が多いのです。もちろんそれはそれで悪くはないのですけれど……私には少し重くて」
リーウィアは小さな女の子がするようにいたずらっぽくチロリと舌を出して、四つ目となる菓子を指で摘んだ。
「ですがこれは、生地の甘みが控えめで、その分、噛むたびに果実の自然な甘酸っぱさと、素朴な木の実の旨味が強く感じられます。甘さを控え目にしているのはきっと、素材そのものの豊かな味わいを楽しんでもらいたいという意図なのでしょうね。
お国のお菓子とのことですけど、ヴェステリアの皆様の純朴で優しいお人柄をそのまま形にしたようなお菓子だと思います。
無駄な飾りを削ぎ落とし、素材の良さを実直に活かす。そんなお国の美徳がこの小さな焼き菓子から感じられて、自然と頬が緩んでしまいます」
リーウィアの長々とした口上は、なんだか興奮気味で、とても世辞で口にしているように見えなかった。
いいや、別にもう世辞でも構わなかった。
「夫人っ……」
リグは喜びに打ち震えた。
愛するクロエを喜ばせたくて、リグは身を削りながら菓子を潰さぬよう駆けてきた。
だが残念なことに妻にはあまり響いた様子がなく、しかしそんな折にリーウィアの大絶賛だ。嬉しくないはずがない。
(俺はなぜこんな善い人のことを女狐だなんて思ってしまっていたんだっ……)
些細な菓子を通じて祖国やそこで暮らす人々のことまで褒めてくれた。
そもそもこんなエロい魔力を放つ美人に褒められて悪い気になるはずがなかった。
無論リグはクロエ一筋だが、そこは男だ。
これで良い気にならないようなら、そんな奴は男をやめてしまえばいい。
リグは公王に「全身全霊を以って学んで参ります」と威勢よく啖呵を切ってきたはずだが、イェルドに丸め込まれたことから何一つ学習できていなかった。
良く巡る手首を持つ男である。
「あ、そうでした。さきほど駐在員とか聞こえてきたのですけれど」
「そうなんですっ。公王陛下が私たちをレウリアーダ家への連絡窓口として駐在員に任命してくださったんですよっ!」
「まあっ」
驚きを露わにするリーウィアに、リグはもう諦めの境地で肩をすくめるしかなかった。
自分で絵を描いておきながら、この人はどうしてこうも自然に驚けるのか。
役者になっても大成するんじゃないかと思ってしまう。
「そういう次第でして。当面のあいだは、引き続き貴家でお世話になることになりそうです」
リグはただ肯定するだけに留めた。
すべては彼女の掌の上の出来事だ。こちらも別に不満を覚えているわけではない。
絵師である本人がこれほど白々しく驚いているのだから、今さら「貴女の思い通りにいきましたよ」などと、そんな野暮なことを言う気になれなかった。
ただ、
「レウリアーダはお二人の駐在を心より歓迎いたします」
「ありがとうございます。貴家と当国の架け橋となれるよう尽力する所存です」
リグはすぐに自身の認識が、それでもまだ甘かったことを思い知らされることになる。
「クロエ様、例の件は?」
「いえ、まだです」
リグはその短い掛け合いだけで即座に不穏な気配を察した。
クロエがおずおずと、けれど決して嫌ではない空気感をまといながら切り出した。
「あのね、リグ。ヨランお祖父様がね? 私のことをね? その、是非とも養女に迎えたいって言ってくださっているの……」
「……………………は?」
リグが思考停止に陥った間隙を穿つように、リーウィアが淡々と語り始めた。
「お二人は他国人でございましょう? グランフェルトでどのような活動をなさるにせよ、後ろ盾となる者が居た方が良いだろうとヨランお祖父様はお考えなのです。
言うまでもないことですが、魔導卿の娘という肩書は国内のみならず他国にまで影響力が及ぶ極めて強力な身分です。
お祖父様は、クロエ様の純朴さをとても愛おしく思っておられます。だからこそ、万が一にもご夫君が傷つくようなことがあってはならないと、ラングレン卿のお気持ちをも慮っておられます。
お祖父様のお申し出はお二人への善意に他なりません。
ラングレン卿はそのような尊いお気持ちを無下になさるような方では決してないと。私はそう申し上げたのですけれど、まずはそなたから話してみてくれないかと頼まれたのです」
口をパクパクさせることしかできないリグに、リーウィアはなおも薬指に宿す突剣をねじ込んでいく。
「私はお祖父様のお気持ちに触れてハッとさせられました。
ごもっともなお考えではございますけれど、であればラングレン卿のお立場はどうなのだろうと。
お二人は元よりご夫婦ですが、ラングレン卿には新たに『魔導卿閣下の娘の夫』という肩書が加わることになります。
そうなったとき、ともすればラングレン卿がグランフェルトの貴族たちからあらぬ嫉妬や侮りを受けるやもしれません。
これは良くありません。
夫と義父に相談しましたところ、驚くべきことに『ならば卿を当家の養子に迎えてはどうか』とのお言葉を頂戴したのです。
私はなるほどと得心しました。ラングレン卿を当家に迎えれば、お二人は『魔導卿の娘』と『レウリアーダ辺境伯の義弟』となり、これ以上ないほどに家格の釣り合ったご夫婦となられます。
公王陛下より駐在員の任を賜ったとのことですし、きっとお二人のご活動にも資するに違いありません。
いかがでございましょうか?」
リグは戦慄した。
(……嘘をつけ。養子縁組までして本物の身内にしてしまおうだなんて、奴やルーカス卿の入れ知恵じゃないだろう!? クロエのことだって絵を描いたのは絶対にあんただ! 決まってる!)
なんという女だ。
たかが十九歳の小娘風情が、大国の英雄、大家の当主、そして前当主までをも、おのが思うがままに操っている。
(……この女は女狐なんかじゃない。狡猾な蛇だ……一度食いついたら意地でも放さない蛇女だっ!)
リグの掌はまたも鮮やかに返ったのだった。
◆◇◆
そうして時は現在へ舞い戻る。
エリアスによる移民申請事件が発覚してから一夜明けた午前。
王太子妃アンネリーエは、エリアスがレウリアーダ邸に居着いているという情報を受け、リーウィアから事情を聞くべく文(事実上の召喚状)をしたためているところだった。
彼女はしかし、その文を最後まで書き終えることができなかった。
「……昨日の今日で一体なんなのです」
そう訝しむアンネリーエの前には四人の男たちが並んでいた。
昨日エリアスの問題を持ち込んできた法務卿と外務卿に加え、軍務卿と典礼卿までが王太子妃の執務室を訪れていた。
代表して法務卿が口を開いた。
「またもや事前の約束もなく押しかけてしまい申し訳ありません」
「いえ、構いませんけれど」
「国王陛下に相談いたしましたところ、『それは義娘の担当だ』と捨鉢気味に突き返されてしまい、やむなくこうして妃殿下のもとを訪ねた次第にございます」
「ぐっ、うぅ……」
堪らずアンネリーエは声にならない苦鳴を漏らした。
法務卿が口にした台詞はわざとかと勘ぐってしまうほど、昨日のそれと似ていた。
ユークリウスだったところが国王に置き換わっただけだが、国王が捨鉢気味にこちらへ放り投げてきたというところからして、昨日よりも状況が深刻であることが察せられる。
堪ったものではなかった。
「聞きたくありません」
アンネリーエはなけなしの抵抗を試みた。
だがそれを諌めたのは典礼卿である。
「聞かねば殿下のお立場を悪くさせるやもしれません。御身のためにもどうかお聞きください」
「……なんですって?」
典礼卿とは、王族の身の回りの世話をする侍従や侍女たちの人事権を持ち、王宮内の私的な秩序を維持することを責務とする、言うなればグランフェルト家の家宰にあたる大臣だ。
彼は王室と王室各人を最優先とすることを職責としている。
そんな典礼卿の諌めの言葉だからこそ、アンネリーエに一層重く響いた。
アンネリーエは諦念に肩を落とし、小さく頷くことで報告を始めるよう促した。
それを受け、法務卿が続ける。
「此度のことは複雑な事情がございますゆえ、複数の事柄を繋ぎ合わせ、それらを一本の線とする必要がございます。英邁な妃殿下であれば必ずや問題を正しく気取れるであろうと確信しています」
「前置きからしてすでに頭が痛いのですけれど……」
「お察し申し上げます。各大臣より報告させていただきます。まずは私、法務卿から」
法務卿は昨日、アンネリーエにエリアスの移民申請の件を報告したのち、ふと嫌な予感を覚えたという。
「なにか確たる根拠があったわけではございません。ただなんとなく気になったのです。『移民申請を出しているのは、果たして小魔導卿のみであるのか』と」
そこで法務卿は、最近提出された移民申請を洗ってみたと言う。
「一人だけでしたが、私でも名を知る魔種が含まれていたのです。これはきな臭いと感じ、名簿を作って軍務卿の元へ持ち込んだ次第です」
他国の魔種は国家戦力である。よって他国の魔種の情報を最も多く握っているのは軍部であった。
レウリアーダ家の結婚式に政府が一枚噛んでいたのは、リーウィアの「他国から魔種が派遣されてくるのではないか」という提言を受けてのことだった。
言うまでもなくイグサーマクとの戦争で大功を挙げたイェルドは元より衆目を集めており、また、リーウィアとの婚約を結んだことを契機にイェルドの娼館通いが止まっている。
この二人を餌に、他国から魔種が集まってくるなら未知の魔種を新たに把握できるかもしれない。
そう考えた政府は今回の結婚式に、魔種の特定要員として宮廷魔導師を紛れ込ませることにした。
この試みは成功のうちに終わる。グランフェルトはこれまで未知だった他国の魔種を幾人も特定することに成功していた。
法務卿のあとを継いで軍務卿が報告する。
「法務卿が持ち込んだ移民申請者を照合したところ、現時点で十八名の魔種が移民を申請していることが判明しました」
「十八名も……」
「しかもこれは最小の人数です。我が国が把握しきれていない魔種が密かに申請を出している可能性を否定できません。また、現時点でこれだけの申請者がいることから、今後も暫くはこの傾向が続いていくと予想されます」
「まだ増えていくと」
「あくまでも予想です。当面の措置として、未知の魔種が移民申請を出してきた際に漏れなく察知できるよう、宮廷魔導師を法務局に出向させることにしました」
「わかりました」
続いて典礼卿が端的に述べた。
「レウリアーダ夫人は貴族のあいだで殿下の懐刀と目されております」
アンネリーエにとってその発言はやや唐突に感じられた一方で、内容そのものにはなんら違和感を覚えないものであった。
「ただの友人なのですけどね」
そのごく短い返答には幾つもの意味合いが込められていた。
貴族たちにそう噂されていることは承知している。
これだけリーウィアを王宮に呼びつけているのだから、そう目されるのは自然なことだ。
しかし敢えて否定するまでもない取るに足らぬことだと受け止めている。
典礼卿はただ首肯だけして、法務卿に目配せをした。
「昨日の夕刻のことです。法務局の窓口が閉まる直前を狙い撃つかのように、このようなものが提出されました」
すわまた移民申請か、とアンネリーエが戦々恐々としながら受け取った二枚の書類。
「……なんですこれは」
「ご覧のとおりで貴族名簿への登録申請です」
またおかしな物を持ち出すものだと怪訝に思いながら、アンネリーエは内容を確かめた。
「御老が養女をお迎えになったの? こちらは……ルーカス殿も?」
ヨランが縁組したのはクロエ・ルインヴェルク・ラングレン。
ルーカスが縁組したのはリグ・レウリアーダ・ラングレンとされていた。
ラングレンという性が共通していることから、このクロエとリグという者たちは兄妹か、そうでなくとも身内であろうことが推察できた。
「ラングレン……ラングレンね……」
アンネリーエはどこかで聞いたような覚えがあり、呟きながら記憶を掘り返した。
大国の王太子妃のなかではヴェステリアのような小国――ましてそこから派遣された特使の名前など、率先して記憶するような情報ではなかった。
そこで最も憔悴した顔をしている外務卿が助け舟を出した。
「その二人は、ヴェステリア公国よりレウリアーダ家の結婚式に派遣された特使夫妻です」
「…………」
目を見開き硬直するアンネリーエに、外務卿が絞り出すように続けた。
「法務卿より報せを受け、朝一番でルインヴェルク邸を訪問いたしました。どういう事情があって他国の特使の妻を養女に迎えられたのか。その点をヨラン殿にお尋ねしたところ……」
――貴族家の養子縁組は専権事項だ。ぐだぐだと国に物申される謂れなどないわ。それともなにか? 貴様は儂と娘の仲を引き裂こうとでもいうのか? なあ、外務卿よ。
「そう凄まれて追い出されました。あの様子だと、王室の方々であっても聞く耳を持っていただけるか怪しいものです……」
外務卿を始め、大臣たちもアンネリーエも、クロエがリーウィアと同様に魔種の魔力を調律する能力を有していることを知らなかった。
だからこそ彼らは、ヨランほどの国士が門前払いも同然の対応を取ってきたことに酷く困惑していた。
だがそれはある意味で当然のことなのだ。
リーウィアとヨランは国からの横槍を避けるために、共謀してこの縁組を秘密裏に進めたのだから。
そこで典礼卿がもう一度告げた。
「レウリアーダ夫人は貴族のあいだで殿下の懐刀と目されております」
「…………」
無意味に同じ言葉を繰り返すはずがない。
そう思ったアンネリーエは情報を整理していく。
(シュミット卿が移民申請を出した。それを契機に最低でも十八名の魔種が我が国に移民を求めていることがわかった。御老とルーカス殿はどういうわけか唐突にヴェステリアの特使夫婦を養子に迎えた……)
そして典礼卿は「リーウィアはアンネリーエの懐刀だと見られている」とすでに知っている情報を二度にわたって告げてきた。
「まさかっ……!」
弾かれたように首を巡らせたアンネリーエに、大臣たちが一様に痛ましい顔を貼り付けて告げた。
法務卿が言う。
「あの魔導卿が養女を迎えたのです。しかも養女となった娘は他国の特使の妻であるなど、驚天動地でございましょう。すでにこの話は貴族のあいだに広まっています」
軍務卿が言う。
「多数の魔種の移民申請も然りです。多くの者がすでに知るところです」
外務卿が言う。
「それらの話を聞きつけたのでしょう。ノルデンガルの大使が再度面会を求めてきました。無論、妃殿下の同席のもとでです。あと補足として申し上げますと、前辺境伯が養子に迎えたリグ・ラングレン卿は魔種でございます」
とどめに典礼卿が問いかけた。
「披露宴の席においてレウリアーダ夫人に対し『魔種に広く門戸を広げるべし』と助言されたのは妃殿下であられると聞き及んでおりますが、これは事実でございましょうや」
「あれはわたくしに断りもなく、リーウィアが勝手に言い出したのです!」
アンネリーエは造りの良い扇子を床に叩きつけた。
「わたくしが企てたなどと陰謀論もいいところですッ……!」
「承知しております。しかし今起こっている事象を並べて俯瞰してみますと『アンネリーエ妃殿下が懐刀であるレウリアーダ夫人を餌とし、他国から魔種をおびき寄せ、グランフェルトに取り込もうと画策している』ようにしか見えぬのです」
ついにリーウィアのやらかしが、しかも過去に類を見ない大厄災として露見した。
周辺国を揺るがす『魔種の大量流出事件』の発生。それは他国から見れば、グランフェルト王国による戦力強奪に他ならなかった。
そしてこの前代未聞の事件の黒幕は、他でもない王太子妃アンネリーエと見なされていたのだ。
「重要なお話の最中に申し訳ありません……」
「なんですっ!?」
身を小さくしながら話に割って入ってきた侍女を、アンネリーエが凄まじい形相で睨みつけた。
侍女もこの状況で声など掛けたくなかったが、彼女は王太子妃付きの侍女として高き誇りを持ち、且つ職務に忠実な女性であった。
「今しがた、話題となっているレウリアーダ夫人より文が届きました」
「っ……! 寄越しなさい!」
「こちらに」
アンネリーエは差し出された文をやや乱暴に開き、内容に目を通していく。
この状況下にあり、果たして善良なる魔王はなにを書いて寄越したのだろうか。
大臣たちも侍女も固唾を呑んでアンネリーエが手紙を読み終わるのを待った。
「ディートリヒ・フォン・ロッシュフィルトですって……?」
「い、いま、ディートリヒと申されましたか!?」
「なんと……」
ぽつりとこぼしたアンネリーエに、外務卿と軍務卿が劇的な反応を示した。
「ええ……。結婚式と披露宴で騒動を起こした、あのイグサーマクの公子がリーウィアを訪ねてきたそうです。謝罪に参ったと」
「続きを」
「我らの報告はのちに」
外務卿と軍務卿の顔の強張り方が尋常ではない。
アンネリーエは大いに眉をひそめながら続ける。
「ひとまず屋敷への滞在を認めたものの、イグサーマクとは交渉の最中であろうから、どう扱えば良いのか、わたくしに指示を請いたいと書いてあります。それで、あなたがたの報告とは……?」
外務卿は絶望顔で生唾を飲んだのち、低い声で告げた。
「公子はイグサーマク王国の公式見解として現在行方知れずとなっています」
驚愕の報告にアンネリーエのみならず法務卿も典礼卿も、侍女までもが一緒に息を呑んだ。
軍務卿があとに続く。
「こちらとしては、公子の処罰を避けたいがためのイグサーマクによる欺瞞情報であると判断しており、軍部が現在、諜報組織を用いて情報の裏取りを行っているところでございました」
「イグサーマクが言うには、ディートリヒは公爵家から金を盗んで出奔したと……」
「そのような者がレウリアーダ夫人の元にいるとなると……」
「大変なことになります。まして妃殿下は黒幕と目されている最中です。どのように事が転ぶか想像もつきません……」
「あ……」
額に手を当てたアンネリーエの体がぐらりと揺れた。
「「「「「殿下ぁぁ……!」」」」」




