39.リグ・クロエ編(中)
イェルドに「走って公国に帰る」という正気の沙汰とは思えない提案をされ、すっかりその気になったリグが部屋を辞した。
イェルドと二人きりになるとリーウィアは大いに眉をひそめつつ、呆れた様子で尋ねた。
「本当に公国まで走って帰れるものですか? 私の目には丸め込んだように見えましたけれど」
「いけるんじゃないか?」
イェルドのそれは「いや、知らないけど」とでも続きそうな口ぶりだった。
「確証はないのですね……」
「そうでもない。以前に言ったかもしれないが、結婚前にムラムラを発散しようと王都の外周を十周ほど走ったことがあるんだ。一周がだいたい四〇キラくらいだな」
「あなたは一日で四〇〇キラを走破できたと」
「ああ」
「ですがそれは、あなたやヨランお祖父様だからできることではないのですか?」
「別に私も、彼に同じことができるとは思っていないぞ」
続くイェルドの解説では、リグの話から逆算する限り、王都から公国までの距離は多少長めに見積もっても五〇〇キラを超えることはないという。
公国は周囲を高い山脈に囲まれた陸の孤島であり、恐らくどこかで大きく道を迂回するか、峠を越えねばならないはずだ。しかしその点を踏まえても、リグなら四日もあれば十分にたどり着けるとのことだ。
「もっと言うなら身体強化はありふれた魔法だ。別に私や御老だからどうこうという性質の魔法じゃないだろう?」
「それはそうなのですけど……」
確かにイェルドの言うとおりではあった。
身体強化は一般的な魔法だ。使える者はいくらでもいる。
ただ、魔力効率の面では元素魔法に次いで悪いことから、そう長い時間は維持できない魔法だ。
たとえば魔力量の乏しいリーウィアなどは、ほんの数秒ほど維持するのが限界だった。
「それよりも卿に伝えてやらなくても良かったのか?」
夫の問いかけに、リーウィアは困った風に微笑んでみせた。
「公国でのお話がどう転ぶかわかりませんから。不確定な情報をお知らせして、向こうで話がこじれてでもしたら目も当てられません」
それもそうかと答え、イェルドが窓に目をやった。
「そろそろレオンが公国に着いたか、着く頃だな」
「ええ」
じつのところ、リーウィアは結婚式が終わった翌日には、義弟レオンをレウリアーダ家の使節に任じ、ヴェステリア公国へと派遣していた。
もちろん正式に命令を下したのは当主のイェルドだが、要請したのはリーウィアだ。
義弟は単騎で駆けている。道程に問題がなければ、そろそろ公国に到着している頃合いのはずだった。
不意にイェルドが小さく吹き出した。
「どうされました?」
「いや、君に『公国に行ってきてくださる?』って頼まれたときのレオンの顔を思い出してなっ。顔を引きつらせて『えっと、いつですか?』って訊くレオンに、リーウィアが笑顔で『明日発ってください』って……。あれはひどいっ。レオンのやつ絶望していたぞっ?」
その件についてはリーウィアも心から申し訳なく思っている。
しかし、この重要な任に能う者がレオンしかいなかったのだ。
ただの使者なら臣下でも良い。だがヴェステリア公王へ拝謁を願い出るとなると、最低でもレウリアーダの直系親族でなければならなかった。
「本当はグレーゲル義祖父様にお願いしたかったのですけれど、まさか六十六歳の義祖父様に『山を越えてください』とは言えませんでした」
「本人は行く気満々だったけどな」
義祖父グレーゲルはさすがに先々代辺境伯ということもあり、隣国の国主である公王とも面識があるのだという。
だが高齢の義祖父を派遣するわけにもいかず、彼には公王への文をしたためてもらうに留めてもらった。
「しかしなあ、クロエ殿一人を取り込むのに、公王陛下まで巻き込むか。私の妻は剛腕に過ぎる」
「あら、クロエ様のことだけではありませんよ? クロエ様とラングレン卿は一体なのですから、才能豊かな強き魔種をも迎えられます。それにヴェステリア公国と誼を通じることは、国境を接する当家の益になることでございましょう?」
「まあ、そういうことにしておこう」
しれっと言い切る妻に、夫は苦笑を向けたのだった。
◆◇◆
街道の静寂を切り裂くように、リグは絶叫しながらひた走っていた。
「俺を騙したな人外どもがッ! 化物目線で気楽に勧めるなッ! ふざけるなよクソったれがッ……!」
イェルドから叩き込まれた「正しい身体強化魔法」は確かに劇的だった。
リグの脚は馬車を置き去りにするほどの速度で大地を蹴り、景色が凄まじい勢いで後ろへと流れていく。
ここまでは良かった。
イェルドの計算どおり「確かにこれなら四日足らずで公国へ着けるかもしれない」と思えた。
しかし問題はそこからだ。
「足が痛てぇっ……! もげるっ……!」
イェルドたちは「ありふれた魔法」と軽い調子で話していたが、身体強化魔法を――しかもイェルドの指南によって高効率化されたその出力を、延々と八割に維持したまま走り続けるなど、リグにとっては未知の領域だった。
一歩進むごとに、まるで鉄塊を叩きつけられているかのような衝撃が己の膝と足首を襲う。
少しでも魔力の制御を緩めれば、筋肉が速度に負けて断裂しかねない。
「なにが『卿なら余裕で四日で帰れる』だ! 片道だけで命がいくつあっても足りんわ!」
絶え間ない精神集中と、己の肉体がガタガタと悲鳴を上げる恐怖。
これらは馬車に揺られているだけでは決して味わうことのなかった、未知の地獄だった。
「ハァ……ハァ……、もう、むりだ……。し、しぬっ……。しんでしまう……」
日中のみの移動とはいえ、日暮れに宿場町へ滑り込む頃には、リグの体力も魔力も完全に底を突いていた。
夕食が喉を通らず、泥のようにベッドへ倒れ込む日々。おまけにレウリアーダ領を抜けて自国との国境に近づくにつれ、街道の整備状況は悪化し、険しい山道の凸凹が容赦なくリグの体力を削り取っていった。
「くそっ、クロエに会いたいよぉ……」
それでも足を止められないのは、王都に残してきた愛妻クロエのもとに一秒でも早く帰りたかったからだ。
この地獄を提案してきたイェルドへの憎しみもあった。
「許さんぞ……! イェルド・レウリアーダぁ……!」
汗と泥にまみれ、太ももの筋肉を爆発させそうになりながら、リグはヴェステリア公国を囲む峻険な山脈の登り坂へと突っ込んでいった。
◆◇◆
グランフェルト王都を出発してから三日目の夕暮れ前に、リグはとうとう公都への帰還を果たした。
「ハァ……ハァ……気力も体力も限界だ……。今日のところは実家で休ませてもらおう……」
リグはクロエと二人暮らしだ。
自宅に帰ったところで食事ひとつ用意するのもままならないことが容易に想像できた。
すでに日が傾きかけているなか、今から公城へ上がるなど無礼なことはできない。リグとしては一刻も早く報告を終えてグランフェルトに取って返したいところだが、今日のところは実家の世話になることにした。
家族たちはリグの突然の帰国に驚きつつも、温かく迎えてくれた。
牧歌的なお国柄か、国民たちもおおらかな性格の人が多い。
レウリアーダの使用人のような洗練されたものはまったくないものの、実家の使用人たちが親戚のおばさんのような気安さで世話をしてくれ、リグは「ああ、帰ってきたんだな」と一息つくことができた。
その報せが実家に届いたのは、さて食事でもと思ったときのことだ。
「公王陛下がお呼びだって?」
「ああ、ひとまず報せだけ送ったんだが、夕食を一緒にとろうとお誘いくださっている」
父の言葉を受け、陛下が誘ってくださっているならと、リグは疲れ切った体に鞭打って公城へと赴いた。
そこでリグを待ち受けていたのは、想像だにしていなかった人物だった。
「おおっ、よくぞ戻ったリグよ!」
破顔して迎えてくれた公王は良い。
「ご機嫌麗しゅうございます、公王陛下。リグ・ラングレン。陛下より賜った任を無事に終え、その報告に戻りましてございます」
「うむ、ご苦労であった」
一国の王としては少々威厳に欠ける人柄かもしれないが、臣下や民を身内のように扱ってくれるこの王を、臣下国民は心から慕っていた。
問題はもう一人の人物にある。
「先日ぶりですね、ラングレン卿。突然のお戻りに驚かされました」
「それはこちらの台詞ですよ、レオン殿」
リグは瞬時にきな臭いものを覚え、思わず顔が引きつりそうになったのをどうにか抑え込んだ。
(なんで辺境伯家の次男がここにいる。……さては奴の差し金か?)
自然と脳裏をよぎったのは、地獄の底へ叩き落としてくれたイェルドのことだ。
レオンがどうして公城に居るのか気にはなる。
なるが、それ以上にリグは「お前の兄貴さあっ!」とレオンを詰めてやりたい衝動に駆られた。
公王はリグとレオンの様子を視線を巡らせることでつぶさに確かめたあと、おおらかに微笑んだ。
「さあ、まずは食事だ。食べながら報告を聞かせてもらうとしよう」
それからリグは公王への報告に終始した。
グランフェルト王との謁見の際に授けられた言葉、レウリアーダ家の公国に対する意向、あるいは自身が見聞きしてきた王都の様子など、報告は多岐にわたった。
もちろんイェルドから預けられた礼状や返礼品の目録も提出した。
ただ、レオンが同席していることにやり辛さを感じていたこともあり、報告を始める前に「(他国の者が同席していても)良いのですか?」とハッキリと口にして尋ねてみたが、公王は一向に気にしていない様子だった。
そのことが尚、リグに警戒心を覚えさせた。
両者のあいだで何らかの合意があると推察できたからだ。
その合意がリグに無関係であるなら良い。だがレオンは待ち構えるように公王とともにリグを迎え、この報告の場にも同席を許されている。
この状況下で自分が無関係だと思えるほど、リグは鈍くなかった。
やがて食事が終わり、食後の酒を楽しむ場面となった。
「レオン殿を我が国に派遣するよう求めたのは、リーウィア夫人なのだそうだ」
「そうでしたか」
王からそう明かされてもリグは取り立てて思うところはなかった。
強いて言うならイェルドの仕業でなかったことが明らかになり、そのことが喜ばしいような、逆に少し残念なような、微妙な気持ちになった程度だ。
「レオン殿は我が国との親善を目的とした使節であると申しておる。これをそなたはどう見る?」
リグは王の言わんとするところを自然と察した。
レウリアーダ家はリグたちを厚く遇してくれた。
ヴェステリアとの誼を通じたいとの意向も、イェルドとリーウィアそれぞれの口から直接聞いてもいた。
しかし、
「親善という目的そのものは偽りではないでしょう。しかしそれとは別に夫人には企図するところがあると推察します」
リグは内心が窺えない静かな面持ちをしているレオンに目を向けた。
「レオン殿は王都をいつ出発されたのですか?」
「結婚式の翌日です」
「使節として我が国に訪れることが決まったのはいつのことでしょう」
「披露宴が終わった直後ですね」
苦笑気味に、しかし素直に答えてくれたレオンを怪訝に思いつつも、リグは王に向けて続けた。
「レウリアーダ領はヴェステリアと国境を接しています。地政学上の理由から我が国と親交を深めることは彼らにとって有益――とは断言できかねますが、少なくとも損はないでしょう。
使節を派遣する動機は十分にあります。
ですが、それにしては動きが速すぎるうえ突然にすぎる。夫人の企図するところを勘ぐらずにいられません」
王は感情を表に出さずに、ひとつ首肯した。
「であるなら、夫人の企図するところとはなんであるか」
「妻クロエの取り込みではないかと考えます」
リグは言い切ったそのとき、レオンの反応をしっかりと確かめた――が、
「…………」
彼は特段の反応を示さなかった。
驚きはおろか不快感すら見せていない。むしろ淡く微笑んでさえいた。
(……内心を隠すのは当然だろうが、こっちは夫人を疑っているとまで言っているんだ。ここは黙ってやり過ごすんじゃなく、「無礼だ」と眉をひそめるくらいはすべき場面だろうに)
王がかすかに口の端を持ち上げて言う。
「よもやそなた、妬いておるのか?」
「ご冗談を。さきほど報告させていただいたとおり、リーウィア夫人の妻へのご執心ぶりはいささか度を逸しております」
「なるほどの」
言って、王が問うような眼差しをレオンに向けた。
見られたレオンは〝したり顔〟とも見える表情を貼り付けて目礼した。
「公王陛下の思し召しのままに」
「ならば余の好きにさせてもらうとするか」
レオンの態度はリグの目には少々無礼に映ったものの、王はどこか楽しげに笑みを返した。
「余の読みもそなたとそう違わぬが、夫人の企図するところに対する評価はやや異なっておる」
王はテーブルの脇に置いてあった、十枚をゆうに超えるであろう書類をリグに差し出した。
「レオン殿を通じて夫人から届けられた書類だ。読んでみよ」
リグは一枚目の書類の最上部に書かれている、まったく慮外であった表題を認めた瞬間、大きく目を見開いた。
「ヴェステリア公国とレウリアーダ辺境伯領を繋ぐ街道整備計画について……?」
内容を読み込んでみると、この提案がただの絵空事でないことがよくわかった。
予算に工期、人足を手配する手段についてまで具体的な数字を根拠に示されている。
レウリアーダの独力で成し遂げる形式と、公国とで予算と人員を分担する形式の両方を示しており、協議を前提としながらも公国政府が検討しやすいよう各種の数値が提示されていた。
また、街道を整備する必要性やそれがもたらす経済効果、安全保障の面などの政治的意義についても不足なく述べられていた。
「夫人がどれだけ肝を入れてその計画を持ちかけているのか、よく伝わってこよう?」
「はい……」
リグは短時間のうちに到底読み込めないであろう書類を、表題だけ確かめていった。
「連絡窓口となる駐在員の設置……。学術・人的交流……。職能訓練制度の策定……。共同出資による商会の立ち上げ……。学生の受け入れと教育支援……。軍の合同訓練……」
そのどれもが詳細に――それこそ街道整備に劣らぬ高い熱量で提言されていた。
リグはひとりでに胸が熱くなり、形容し難い情動が腹の底からせり上がってくるのを感じていた。
(私はなにを……)
不覚にも視界が熱くなり、涙がこぼれそうになった。
リグが「妻への執着」などという狭い視野で邪推を巡らせていたその裏で、あの五つも年下の若き夫人は、自分よりもずっと深く、ずっと真剣に公国の発展を考えてくれていたのだ。
己の浅薄さがひたすらに情けなく、悔しい。
だがそれ以上に、祖国の未来をこれほどまでに想ってくれたリーウィアの、そして彼女の行動を認めてくれたイェルドの気持ちが、どうしようもないほど嬉しかった。
(レオン殿を「お前の兄貴さぁ!」って詰めなくて本当に良かった……)
いいや、詰めたい気持ちはいまだにあるし、王都に戻ったら必ずイェルドに物申してやるつもりでいる。
だがもし、レオンを詰めたあとでこれを見せられていたなら、もうバツが悪いどころの話ではなかっただろう。
そのレオンがリグへ言う。
「じつのところ私は今回公国に派遣されるにあたり、義姉リーウィアよりかなり大きな裁量権を与えられています」
「というと?」
「ラングレン卿が今ご覧になっているその書類ですが、様々な分野で提案されているでしょう?」
「ええ、よくぞこれほどと感嘆するばかりです」
「卿は好意的に捉えてくださっているようですが、公王陛下、ならびに公国政府がどう受け止めるかは別の話です」
「ああ、そういうことですか……」
リグは感動すら覚えたものの、この書類は内政干渉とも受け取れる代物だ。
目にした者によっては「他国の、しかも一介の貴族家風情が何様だ。慈悲のつもりか」などと激怒してもおかしくない。
むしろ怒るほうが自然だ。
おおらかなこの王だからこそ、委細構わず受け止められたのだと思う。
「ですから義姉は、どの書類を公王陛下にお見せするか、あるいはまったくお見せせずに親善の意思だけを伝えるに留めるか、それらの判断を含め、すべてを私に委ねたのです」
「この書類がすべてでしょうか?」
「ええ、公王陛下のお人柄に触れて、これは包み隠さず義姉の想いを奏上すべきと思った次第です」
「このような考えをお持ちだったなら、夫人も一言いってくださればよかったのに……」
書類に目を落とし、苦い顔をするリグを王が咎めた。
「思慮が浅い。夫人がそなたに伝えなかったのは、そなたの身上を思ってのことであろうに」
リグが言われた言葉の意味を咀嚼できずにいると、王が深い溜息をついた。
「もし仮にそなたが事前に話を聞かされ、夫人の提案を好意的に受け止めていたとしよう。だが先んじて公国に派遣されたレオン殿は余に書類を見せていない、あるいは見せたうえで余が不快に思っていたとしたらどうなる?」
「あ……」
「その逆もあり得る。そなたが不快に思い、余は好意的に受け止める。どちらの場合であっても、余とそなたの関係に影を落とす始末となりかねぬであろう? そこを夫人は危惧したのであろうよ」
前者であれば、リグは王を説得しようとしたかもしれない。
後者であれば、リグは王を諌めたかもしれない。
どちらの場合も両者の思いはすれ違っている。
今は結果的に双方とも好意的に受け止めているが、それはまさに結果論でしかないのだ。
リーウィアがもたらす結果論が厄災にならなかった初の事例であった。
「そなたの報告を聞いた限り、夫人がクロエの取り込みを画策していることは、恐らくそうなのだろう。
しかしな、クロエのことはきっかけに過ぎぬ。
レオン殿は結婚式の当日に我が国に行くよう命じられたと言うが、ならば夫人はその提言を一晩で練って書き上げたのか?
そのようなことは無理であろう。
夫人はレウリアーダ家に嫁ぐにあたり、かねてより隣国である我が国のことを様々に思案していたのだ。
つまり、そなたの手元にある書類こそが、夫人が真に画策していたことだと余は考える」
王はさらに、懐から一通の便箋を取り出した。
「これも読め。夫人が個人として余にしたためた文だ」
「……よろしいので?」
「むしろそなたこそが読むべきだ。少なくない時間をともに過ごしたというに、どうもそなたは夫人の人となりを誤解しておるようだ。主君として恥ずかしくすらある」
リグは公王個人に宛てられた文ということもあり、恭しく受け取ってから丁寧に開いた。
目を通してみると、貴族的な言い回しを用いた挨拶に始まり、自身の結婚を祝してくれたことの御礼、またリグやクロエの特使としての働きぶりを称賛する言葉などが綺麗な文字で綴られていた。
そのなかで後半に綴られていた一節が、リグの心をこれでもかと激しく揺さぶった。
◆
もしかするとレオンよりお聞き及びかもしれませんが、私、リーウィアは傷物の女でございます。
畏れ多いことに魔導卿閣下が治療に尽力してくださり、今は一人で歩けるまで回復しております。
しかし閣下のお力を以ってしても、この身に刻まれた傷跡のすべてを消し去ることは叶いませんでした。
ですからやはり私は傷物なのでございます。
事故に遭ってから半年余りが過ぎ、ベッドから起き上がれるようになった頃、私は女としての幸せをすべて諦めておりました。
とはいえ、これでなかなかしぶとい女でございまして、人生そのものに絶望していたわけではありません。
ただ結婚も、そして自分の子を産み育てることも、この体ではもう叶わないだろうと諦念していたのです。
そんな私の前に夫イェルドが現れました。
夫は魔導卿閣下に比肩しうる、類まれなる強き魔種でございます。
陛下は、魔種が恒常的に強い性衝動を覚えることをご存知でしょうか?
夫ほどの強き魔種にもなると、日常生活をまともに営めぬほどの苛烈な衝動に駆られてしまうのです。
ただ本質的な問題は性衝動そのものにあるのではありません。
彼らは性衝動を解消することを通じて、人の身に過ぎた膨大な量の魔力の乱れを抑え込んでいるのです。
夫もまた酷く苦しみ、性行為を通じてしか抑え込めない魔力の乱れと一生付き合って行くしかないと、ある意味で人生を諦めていたのです。
私は夫を通じて己に備わる特別な魔力の性質を知りました。
信じられないことに、私は夫の魔力の乱れを調律することができると言うのです。
それから様々な紆余曲折があり、私は夫と結婚いたしました。
私も、そして夫も、互いが互いを必要とし、諦めていた相手の人生を救ってやり、また、救ってもらったのです。
本当に驚くべきことですが、陛下の臣であられるリグ・ラングレン卿の妻、クロエ夫人も私と同様に、魔種の魔力を調律する力を持っていることがわかりました。
ラングレン卿の魔種としての器は、魔導卿閣下と夫が認めるほどでございます。
そんな彼が夫のような不幸に遭わなかったことは、ひとえに幼馴染であるクロエ様がお側におられたからでしょう。
魔導卿閣下もそうでございました。
私たちと同様の調律能力を持つ、夫人テレシア様が閣下の従妹だったのです。
ラングレン卿は、クロエ様という幸運の星のもとにお生まれになった魔種でございます。
しかしながら、魔種の誰もが私たちのような者と巡り会えるわけではありません。
これは個人的な推測に過ぎませんが、私やクロエ様、あるいはテレシア様のような存在が希少であることには、いくつかの理由があると考えております。
そもそも魔種が少なうございます。
その少ない魔種が私たちのような存在に出会える確率は果たしていかほどのものでございましょう。
まして私たちがどうしてこのような調律能力を有しているのかすら不明なのです。
仮に魔種の方々が私たちのような者を探したくとも、現状では手掛かりすらございません。
繰り返しとなりますが、私は夫に人生を救っていただきました。
そして私は夫の人生を救って差し上げたのです。
私はこのような力を授かって生まれたことに、独り勝手に使命感を覚えております。
私が救ってもらったように、私が救ってあげたように。
もし他に苦しんでいる魔種の方々がおられるなら、私こそが手を差し伸べるべきだと思うのです。
そのためには私の持つ魔力を紐解かねばなりません。
私一人よりもクロエ様と二人、もし他に見つかったなら二人より三人と、研究対象が多いに越したことはございません。
ですから畏れ多くも公王陛下に伏してお願い申し上げます。
もし私が提案させていただいた駐在員の設置案にご賛同いただけるのであれば、どうかレウリアーダ家への駐在員にラングレン夫妻を任じていただきたいのです。
当然ながら、いかに研究対象とはいえ、クロエ様に精神・肉体を問わず、ご負担をかけるような真似は決していたしません。
このことは当家と私、そしてイェルド・レウリアーダの名に懸けてお誓い申し上げます。
突然このような申し出をした無礼をお詫びするとともに、ご一考いただけますことを切に願って。
レウリアーダ辺境伯家 当主夫人 リーウィア・レウリアーダ
追伸。
そう遠くないうちにレウリアーダの本領にて私の披露目会を催す運びとなっております。
その際にヴェステリア公国を訪問いたしたく存じます。
公王陛下におかれては、どうか夫と私に拝謁する栄誉を賜りますようお願い申し上げます。
◆
「なあ、リグよ」
「……は」
公王はまるで子の成長を見守る父親のような柔らかな眼差しをリグに向けた。
「グランフェルトはどうであった?」
「…………」
リグは言葉に窮した。
その所感はすでに手前でした報告を通じて事細かに伝えていたからだ。
公王は答えを求めていなかったのかもしれない。リグの答えを待たずに続ける。
「グランフェルトをその目で見てきたそなたに問おう。ヴェステリアに戻ってまずなにを思った?」
「それは……」
「遠慮は要らぬ。思うまま述べよ」
リグは迷い、強く躊躇ったからこそ経過を飛ばして確かな思いだけを口にすることにした。
「私はこの国が好きです。公王陛下のもと、民は皆、心を安んじて暮らしております」
公王は容赦なくリグの退路を断った。
「ただ停滞しているだけのことを、あたかも価値あることかのように飾るな」
「停滞しているなどっ、決してそのようなことはありませんっ……!」
思わず声を荒げたリグに、王は嬉しそうに目を細めた。
「王たる者はいつ何時も国を栄えさせ、民を豊かにすることを目指さねばならぬ。そうでなければ王など要らぬ。称する資格もない。余は常々そう思っている」
言って、王は深く苦笑した。
「だがなあ、この国にはなにもないのだ。先人たちもどうにかしようと知恵を絞ってはいたのだろうが、我が国は時を止めたかのように姿形を変えられずにいる。
争いとは無縁でいられたことが唯一の美点だな。
だがそれだけだ。
世界が絶え間なく時を刻み続けているというのに、ヴェステリアだけが取り残されておる。格差は広がっていくばかりだ」
だが――と言って王がリグの手元にあるリーウィアの提案書を指さした。
「ようやく我が国も転機を迎えようとしているのかもしれぬ。
みずからの力で変えられないと半ば諦めている我らを外から変えてやろうなどと、じつに奇特なことを考える女性が現れた。
その文によると、彼女は縁もゆかりも無い他人を救ってやることに使命感を覚える変わり者のようだ」
黙って聞いていたレオンが堪らず吹き出して「それは曲解が過ぎるのでは?」とぼそりと呟いた。
そのレオンにリグは率直に尋ねた。
「レオン殿、リーウィア夫人はなぜこのような提案を我が国に持ちかけられるのです。レウリアーダに益があるように思えませんが」
リグの疑問を受け、王とレオンが顔を見合わせた。
「義姉の言葉をそのまま用いるなら、レウリアーダを豊かにするためにヴェステリアに投資するのです」
「……どういう意味です? 我が国から搾取されるおつもりですか?」
「ぐはっ!」
今度は王が「こやつはなにを言っておるのだ」と盛大に吹き出した。
「決して搾取などではございませんよ。
ヴェステリアが豊かになれば、乗じて我らレウリアーダも豊かになれる。それだけのことです。
私も義姉の申すことを完全に理解できているわけではないのですけど、まずは貴国に物流と商流の体制を作り、その後は労働力を低廉に確保できることを活かして加工産業を育成する。
これなら資源や耕作地が乏しくとも富を創出できます。
並行して教育水準を引き上げつつ、また、技術交流などを通じて手に職を持つ人材も増やしていく。
どれも長い時間と大きな金銭を要することですが、幸いにも当家は港を持っておりますから、それなりに資金力がございます。
さすがにすべてを賄うことはできないものの、初期投資くらいは借款を貴国に融通することもできると、そう義姉は申しておりました」
続くレオンの説明によると、彼自身も今回の任を受けて初めてこの提案書の存在を知ったという。
「私はともかく兄ですら知らなかったのですよ? 本人は『結婚したあと、きちんと相談するつもりでいたのです。でも急にこんなことになってしまったから……』などと言い訳をしていましたけど、困った人です」
呆れの笑みを貼り付けるレオンの一方で、リグは語られた話を半分すら理解できずに、ただただ口を半開きにするのみだった。
「つまりだ、リグよ。そなたの今の反応が我が国の民の実情なのだ」
「えっと……」
「有り体に言えば学が無いのだと言っておる。愚かだと言っておるのではないぞ? 物事を生み出す源泉たる教養が決定的に不足しておるのだ」
王はちらりとレオンを横目に見て続ける。
「レオン殿が言うには、夫人は王国学舎を首席で入学し、その地位を一度も譲ることなく卒業してみせた才媛なのだそうだ」
「それはまた……」
「まあ、学があるからといって、万事が上手く行くわけではない。夫人も我らも、これからいくらでも苦労しようが……」
「畏れながら陛下」
「うん?」
「義姉は施策を発案した際、まず最初に経験豊かな文官に図ることから始めます。彼らの意見に耳を傾け、不足があれば埋め、危ういと感じたなら未練なく取りやめてしまいます。決して学だけの人ではございませんので、その点だけはお含みおきのほどを」
「隙がないのぉ……。レウリアーダの女主人となったばかりだというのに、すでに立派な為政者ではないか」
「陛下からお褒めの言葉を賜りましたことを、必ずや義姉と当主に伝えましょう。当家の者も口を揃えて『レウリアーダは今代において、さらに身代を大きくするだろう』と申しております」
「辺境伯は良い妻を娶ったものだ」
「私もそう思いますが、欠点が一つございまして」
「ほう、興味深い話だが……。他国の王に欠点を明かしても良いのか?」
「構いません。義姉は酷く小心者ゆえ、何事においても最優先で保身に走る癖があるのです」
「なんと、まことか?」
「はい、レウリアーダは恐れ知らずを尊びますから、家中の皆が苦笑いしております」
「それは良い話を聞いた」
レオンが軽く目を見張ると、王はニタリと笑いかけた。
「あの提案はすべて保身に走りがちな夫人が考案したものなのであろう? きっと失敗を恐れて隅々まで綿密に練り込んであるに違いない」
「ははっ、陛下のおっしゃるとおりかと。おみそれいたしました」
ひとしきりレオンと笑いあったのち、王はいまだにすべてを理解しきれていないリグに語りかけた。
「余はこの国の王として、そなたの愛国心を嬉しく思う」
「畏れ多いことにございます……」
「だからこそ、そなたは世界を知るべきなのだ。考えてもみよ、辺境伯から魔法の指南を受けられたからこそ、そなたはたったの三日ほどで帰国できたのであろう?」
「それもまた世界を知ることであると……?」
「然りだ。今回の特使の任を通じてそなたが得たものは五つある」
王が人差し指を立てる。
「大国グランフェルトの威容を肌で感じられたこと」
続けて王は中指を立てた。
「魔導卿ヨラン・ルインヴェルクの知遇を得たこと」
王はまた薬指を立てた。
「レウリアーダ辺境伯と小魔導卿エリアス・シュミットとの戦いを観戦できたこと」
さらに王はそこに小指を加えた。
「魔種のなんたるかを教わり、また妻の特異性を知れたこと」
最後に王は親指を立て、ついに手のひらを開いてみせた。
「リーウィア・レウリアーダという稀有な女性と出会えたこと」
そうして王は広げた手のひらを畳み、拳を固めた。
まるで得たものすべてを飲み込んでみせろとでも言うように。
「彼らを通じて学び、鍛え、おのが血肉とし、いつの日かリグ・ラングレンが祖国へ還元できるよう、みずからを高めるべきである。その道こそが、そなたが最も国に尽くせる道であると余は信じる」
王は目を細めて命じた。
「リグ・ラングレン、ならびにクロエ・ラングレンの両名を、レウリアーダへの駐在員に任ずる」
リグは数瞬のあいだ息を呑んで硬直したのち、戴く王に片膝を立てて恭しく礼を取った。
「拝命いたしました。全身全霊を以って学び鍛えて参ります」
「頼むぞ」
「はっ」




