38.リグ・クロエ編(上)
エリアスが人知れず移民申請を提出していた頃、リーウィアはヨランと二人で悪い顔を浮かせていた。
「クロエも近頃は随分と垢抜けてきたのぅ」
「それはもう、今日はこちらに明日はあちらにと、きらびやかな場所ばかりお連れしましたから」
「新婚だというのに夫をそっちのけで他人に構ってばかりとはな。イェルドめが不憫でならぬわ」
言葉とは裏腹に、ヨランは愉快だとばかりにいやらしく笑った。
一片たりとも弟子を不憫に思ってなどいないことがありありと伝わってくる。
「なにをおっしゃいます。旦那様は旦那様で精一杯お尽くししておりますよ?」
「閨でか」
「いやですわ、お祖父様ったら」
ヨランがスケベ根性を丸出しにする一方で、リーウィアは軽やかにあしらってみせた。
艶本を教科書にしていた小娘はもはや存在しない。
辺境伯夫人リーウィアには確かな経験に裏打ちされた余裕があった。
「それはそれとして、例の件の進捗はいかがでございましょう」
「それなのだが……」
密談をだしにしてヨランが顔を寄せてくる。
リーウィアはしわが刻まれた老人のおでこをペチンと打って押し返した。
「いかにヨランお祖父様といえど、限度というものがございます」
「ちょっとした戯れではないか……」
「すぐに触れようとなさるのですから」
「で、例の件だが……」
「ええ」
「ルーカスとフレンダの同意を取り付けた」
「まあ」
リーウィアは花が咲いたように破顔した。
裏で「対魔種決戦兵器」などとささやかれていることを知らぬリーウィアは、結婚式のあと即座にヨランを引き込み、クロエの取り込み要員として手足のように使っていた。
間違いなく王国史に名を残す偉人を顎で使うなど、内情を知らない者が聞けば顔面蒼白になるに違いない暴挙の極みである。
「それは重畳ですけれど、ヨランお祖父様の方は大丈夫なのですか?」
しかしリーウィアにとってはただの甘々なお祖父ちゃんでしかない。罪悪感など欠片も覚えてはいなかった。
「大丈夫とは?」
「ルインヴェルク家の皆様が不満を持たれておりましょう?」
「なにを言っておる。当家に連なる者で誰がこの儂に物を言えるというのだ」
「それはそうかもしれませんけれど……」
言い淀んだリーウィアを見てヨランが片眉を持ち上げた。
「なんだ、儂が死んだあとのことでも心配しておるのか?」
「有り体に申し上げれば。禍根を残すのではないかと心配しています」
「別にそうなったらなったでリーウィアが護ってくれよう? クロエはすでに結婚しておるのだ。レウリアーダで囲えば良い」
「……確かに。じっさいにルインヴェルク家に入るわけではありませんものね」
「うむ、この手の縁組は貴族のあいだではそう珍しくもないことだ。そこのところを当家の者もよくわきまえておるゆえ、儂がくたばったところで大事なかろう」
リーウィアは眉をハの字にしてヨランの手にそっと触れた。
「だとしてもあまり不吉なことをおっしゃらないでください。ヨランお祖父様が居なくなってしまうなんて想像するだけで悲しくなってしまいます」
「案ずるな。あと十年やそこらは死なぬわ」
「十年と言わず、二十年でも三十年でも長生きしてくださいね」
「そなたはまっこと天使のような娘よの……」
「ふふ、娘などと。もう夫人でございますよ?」
この手のことを計算なしで――むしろ純粋な思い遣りから自然とやれてしまうところが、リーウィアが魔種殺しな所以だった。
「ともあれ、こちらの準備は万事整っておるわけだが、肝心のリグとクロエはどうなのだ?」
ヨランはルーカスとフレンダを口説き、リーウィアはリグとクロエの了解を取り付ける。そういう役割分担だ。
「抜かりはございません」
「ならばさっそく手続きに入るとするか」
「構いませんけれど……本当によろしいので? 王室や政府が問題視してくるかもしれませんよ?」
「この策はそなたが言い出したのではないか」
「そうおっしゃるヨランお祖父様も『それは良き考えだ!』と踊りだしそうな勢いで喜んでおられたではないですか」
ふむ、とヨランは白き顎髭を撫でつけながら暫し黙考したうえで、
「……まあ、そなたの言うとおり、あとで国がごちゃごちゃと言ってくるやもしれぬが、縁組は貴族家の専権事項だ。やつらが知る頃には手続きは済んでおる。物申したところで手遅れだ」
「私は、物申されることそのものの是非をお尋ねしているのですけれど」
「ならばやめるか?」
「まさか。ヨランお祖父様には魔導卿という重いお立場がございますから。念のために確認を取らせていただいたまでのことです」
ヨランが呆れたように頬を緩めた。
「リーウィアは豪胆なわりに、妙なところで慎重よのう」
「臆病者でございますから」
「そなたを脅かす者はすべて儂が消し炭にしてくれようて」
「まあ、頼もしゅうございます」
言ってヨランの手をすりすりと撫でるリーウィア。
もちろんヨランはでへでへと鼻の下を伸ばした。
はたから見れば、どう見たって老人をたぶらかしている悪女に見えるに違いなかった。
◆◇◆
ときは、結婚式から一週間が過ぎた頃にさかのぼる。
その頃のリグ・ラングレンは少なくない焦りを感じていた。
リーウィアの勧めで(なぜか魔導卿も一緒になって)レウリアーダ邸に滞在しているものの、すでに一週間が過ぎていた。
もっとも、ここでの生活そのものに問題があるわけではない。
(居心地はいいんだよ)
むしろここでの生活が最高すぎるおかげで、元の生活に戻れなくなるのではないかと心配になっているくらいだ。
たとえば、レウリアーダの使用人たちだ。
主人に招かれて逗留している客人なのだから、使用人たちが甲斐甲斐しく世話をしてくれるのは当然だ。
それでも彼ら彼女らの仕事ぶりは、リグの知る使用人とは完全に別物だった。
一挙手一投足が洗練されており、頼めば瞬時に物が出てくるだけでなく、頭のなかで「欲しいな」と思っただけで出てくることまであるのだ。
誰も彼もが実家の泥臭い使用人たちとは一線を画している。
王宮でも感じていたが、リグはグランフェルトを訪れて初めて本物の使用人を知った。
食もなにを食べても美味い。
味もさることながら祖国では出会えなかった未知なる味がそこかしこにあり、すでに何度も感動させられている。
クロエなんかはあまりの美味しさに涙を流したことも一度や二度ではなかった。
さらに身にまとう衣服も劇的に変わった。
あつらえられた王都の仕立て服は、軽くて肌触りが良いだけでなく、田舎者特有の野暮ったさをすっきりと消し去ってくれる。
クロエに贈られたドレスなどは、国元の夜会なら主役になれるほどの逸品だった。
娯楽の面でも素晴らしい。
先日連れて行ってもらった大劇場での観劇は、リグの価値観をひっくり返した。
故郷の広場で見る旅芸人の泥臭い寸劇とは違い、豪華な衣装、壮大な生演奏、揺れる魔導の照明、なにより洗練された役者の演技に、夫婦そろって開いた口が塞がらなかった。
叶うなら、リグもまだまだこの国で過ごしていたいと思っている。
しかし、そういうわけにもいかなかった。
(名残惜しいけどそろそろ帰らないと。俺は公国の特使としてグランフェルトに来ているんだから)
レウリアーダ家の結婚式への参列を終えた今、リグがこの地にとどまる理由はない。
むしろずるずると帰国を先延ばししてしまっていることに焦りが募るばかりだ。
正式に任を終えるためにも、一度祖国へ戻り、公王陛下に報告せねばならなかった。
「なあ、クロエ」
「んー?」
妻はリグの方を見ようともせず、うっとりと指先を眺めていた。
今日リーウィアに連れて行ってもらった化粧品店で、綺麗に整えてもらったばかりの爪だ。
それを照明の光に透かしながら「きれい……」「嘘みたい……」と夢心地の様子で呟いていた。
「ここでの生活は素晴らしいけど、そろそろ帰らないと」
「わかった。お仕事だもんね。気をつけて帰ってね」
あまりにも流れるような返答だったゆえに、リグは言われた言葉の意味に気づくまでたっぷり三秒の時間を要した。
「……え? 俺一人で帰るの?」
「だって、来週も予定がびっしりなんだもん」
クロエは照明に透かした爪からようやく目を離すと、「これだから男の人は……」とでも言いたげな顔で諭し始めた。
「リーウィア様がご友人を紹介してくださるっていうから、お茶会の約束をしちゃってるし、今さらお断りすることなんてできないよ。
私のためにわざわざご友人に声をかけて回ってくださったんだよ? リーウィア様に申し訳ないじゃない。
エステの予約もあと三回残ってる。
このあいだ注文したドレスだって、まだ職人さんがチクチク縫ってる最中だし。
エステもドレスもすっごいお値段なんだから。
それもこれも『もう帰るので結構です』って、そんな失礼なこと、リグはお金を出してくれている辺境伯様とヨランお祖父様に言えるの?」
リグは反射的に口を開きはしたものの、ついぞ反論の言葉は出てこなかった。
クロエが屈託のない微笑を浮かせて言う。
「リグもすぐに帰ってくるよね?」
「当たり前だ。でもクロエを他国に一人残して、俺だけが帰るわけにはいかないだろう?」
「私、思うんだけど、新婚旅行だと思えばいいんじゃないかな」
「……新婚旅行か」
言葉だけはリグも知っていた。
グランフェルトでは、新婚の夫婦が結婚式のあとに二人だけで旅に出る風習があるそうだ。
ただ、それを行うのは主に平民層であり、貴族は立場や仕事の都合上、長く本拠を空けるわけにはいかない。
事実イェルドとリーウィアも本領への帰還を「新婚旅行」と位置づけていた。
領地へ戻るのを言葉だけ飾ったようなものだが、夫婦の旅であることには違いない。
「お仕事はお仕事だから、まずは公王陛下にご報告をして、ちゃんとお休みの許可をいただいてから、私を迎えに来てくれたらいいんじゃないかな?
そのついでに少しくらいゆっくりしたっていいじゃない。リグもここでの生活は素晴らしいって言ってたよね?」
小首をかしげ、愛妻にそう微笑みかけられようものなら、リグには頷く以外の選択肢など残されていなかった。
「まあ、クロエがそう言うなら……」
イェルドがリーウィアのおねだりに対し、基本「いいよ」と「わかった」しか言わないように、リグもクロエの頼み事を断ることなどほぼ無かった。
リグはしかし、このときはまだ一縷の希望を捨てていなかった。
◆◇◆
「――という次第でして、妻が帰らないと言って困っているのです。しかし私は公王陛下から任を賜ってグランフェルトを訪れています。どうあっても帰国し、国への報告をしなくてはなりません。どうかお二人から、妻を説得していただけませんか?」
リグはすがるような思いで、イェルドとリーウィアの二人を頼ることにした。
もっとも、リーウィアがクロエを構い倒していることはリグも承知している。
二人で毎日のようにお出かけをしては、きゃいきゃいと仲良さそうに騒いでいるのだ。説得など期待できるはずもない。
なのでこれはイェルドに期待してのことである。
責任ある仕事を持つ男として、また、似た魔力特性を持つ妻を抱える同士として、彼ならリグの「早く帰国して責任を果たしたい。けれど妻を他国に一人残したくはない」という切実な気持ちに共感してくれるはずだと信じていた。
もし立場を置き換えたなら、イェルドだってリーウィアを他国にひとり残すなんて絶対に耐えられないはずだ。
イェルドはしかし、
「そうか。気をつけて帰ってくれ」
さらりとそう言って、イェルドは机の引き出しから二通の便箋を取り出してきた。
「こちらが公王陛下への御礼状だ。あとこれは返礼品の目録になる。卿から確実にお渡し願いたい」
「…………」
リグは便箋に目を落として押し黙った。
イェルドが慰めるように言う。
「気持ちはわかる。言いたいこともわかっている。
しかしだ、ラングレン卿。卿が思うように立場を逆に置き換えてみてくれ。
クロエ殿に『リーウィア様とお別れしたくないっ』と泣きつかれたら卿は無碍にできるか?」
リグは「ぐっ、ぅぅ……」と喉から苦鳴じみたものを漏らしながらリーウィアを見た。
「ごめんなさい」
リーウィアは心から申し訳なさそうに詫びてくれていた。
だが裏腹に、彼女はこの展開を予期しており、その手当てとして事前にイェルドへ言い含めていたのだ。
でなければイェルドが見計らったように慰めてくるはずがない。
「わかり……ました。私一人で……帰国、します……」
途切れ途切れの絞り出すようなその言葉が、リグの内なる絶望と、やりきれない敗北感を雄弁に伝えていた。
その姿が同情を誘ったのか、イェルドが再度励ましの言葉をかけた。
「そういう次第でご夫人の説得はできないとはいえ、それでは卿があまりに不憫だ。ラングレン卿が不在のあいだクロエ殿の身の安全を保証させてもらうことは当然として、私からひとつ助言をさせてもらいたい」
「助言ですか……?」
「卿は身体強化魔法は使えるか?」
「ええ、一応は」
「全力とは言わない。八割ほどの出力で使ってみてくれ」
リグは眉をひそめながら、だが別に不利益はないことから言われるがままに身体強化を施した。
「……想像以上に下手だな」
「あなた」
リーウィアにたしなめられて、イェルドがバツが悪そうに苦笑した。
「すまない。侮辱する意図はなかったんだ。御老――魔導卿も言っていただろう? 卿は必要な鍛錬を積みさえすれば、いずれ小魔導卿に迫れるほどの才能を備えている魔種だ」
「お二人が言うならそうなのかもしれませんね。もっとも、私自身にまったく実感はありませんが」
「不躾なことを訊くが、国元には卿を指導できる、高い実力を持つ魔導師が居ないのではないか?」
「……おっしゃりたいことはわかりました。我が国は小国ですから。魔導師そのものが少ないのです」
リグは小国の生まれゆえに良い指導者と巡り会う機会に恵まれなかった。備える力に対して技術が伴っていないのは、環境のせいであることをイェルドは見抜いているのだ。
そして彼の推察は当たっていた。
「夫人の説得に協力できない代わりに、私が身体強化魔法を指南しよう」
「それは非常に魅力的なご提案です。是非ともお願いしたい」
「だからな、ラングレン卿。走って帰ろう」
「…………」
リグは怪訝な顔を浮かべて黙り込んだ。
イェルドが口にした言葉の意味を脳が理解するまでに結構な時間を要してしまい――。
「……え? 冗談ですよね?」
「いいや? 私はいたって本気で言っている。公国からここまで何日かかった?」
「十七日ほどですが……」
イェルドが「十七日か……」と呟き思案する。
クロエを伴っての旅ゆえ当然馬車での移動だが、イェルドが問うているのは純粋な距離感のことだろう。
「純粋な距離だけの話なら、仮に私が全力で身体強化を施して駆けた場合、恐らく二日ほどで公国に着けると思う。魔導卿ならもしかすると、丸一日あればたどり着けてしまうかもしれないな」
「あなたがたは本当に人なのですか……?」
「少なくとも私は人だ。真の人外はあの爺様だけだ」
「…………」
リグは隠すことなく疑いの目を向けた。
イェルドとエリアスの戦いをこの目で見ているのだ。到底信じられるものではなかった。
「そんな目で見ないでくれ。参考がてらに教えると、私は魔導卿との近接戦を極力避けるようにしているんだ。殴り合いでは絶対に勝てないからだ」
「まことですか……?」
目を剥いて大いに驚いたのはリーウィアだ。
「こんなことで嘘をついてどうする」
「ヨランお祖父様は七十二歳ですよ……?」
「だからあのジジイはおかしいって言っているんだ。私であっても遠距離からちまちまと削るしかないんだぞ? もっともそれも速すぎて当たらないんだが」
イェルドはリグへ視線を戻し、話を本筋へと引き戻した。
「だから卿も走って帰ろう」
「なにが『だから』なのか、さっぱりわからないのですが」
「だったら馬車で帰るのか? 往復で一月以上かかるのに? 私の見立てだと卿でも片道四日もあれば帰れると思うんだがな」
「たったの四日で……?」
「ああ、向こうでの滞在を込みで考えても、十日もあれば行って帰ってくることができると思う。卿も早くクロエ殿に会いたいだろう?」
「それは……もちろんっ!」
リグが俄然前のめりになった。
イェルドは善意に満ちた微笑を浮かべて、うんうんと頷く。
「よし、善は急げだ。夕食の前に時間を取ろう。それまでに夫人への説明と帰り支度を済ませておいてくれ」
「ご協力を感謝しますっ」
妻を説得してもらいにきたはずの田舎者は、こうして簡単に騙されてしまった。
祖国へ走って帰るという暴挙が、どれほど過酷を極めることになるかも知らずに。




