37.エリアス編
結婚式からおおよそ三週間が経過したその日の午前。
イェルドが不意に執務の手を止めて顔を上げた。
「なあ、リーウィア。午後から出かけないか? 最近シルア地区に新たなカフェが出店したらしくてな。なかなかの評判になっているそうなんだ」
「そうですか。お誘いは嬉しいのですけど……」
口ごもり、刺繍をしていたリーウィアはマヤに目をやった。
「本日は魔導卿閣下とラングレン夫妻とともに昼食をご一緒にされる予定になっています。そのあともお客様との面会が二件入っています」
「ごめんなさい。今日は難しそうです」
心から申し訳なさそうに詫びる妻を見て、イェルドは落胆の息を吐いた。
「リーウィア」
「はい」
「私たちは新婚だ」
「ええ、ですからあなたの希望にお応えして、こうして執務室で刺繍をしております」
午後から予定が詰まっているため定例のお茶会もできそうにない。
その埋め合わせという意味もある。これでリーウィアも気を遣っているのだ。
だがイェルドは大いに顔をしかめ、低い声で言い放った。
「追い出そう」
イェルドに言わせれば、新婚夫婦の時間を奪うなど無粋の極みだ。邪魔でしかない。
ヨランは言うまでもなく、客人であるラングレン夫妻も追放の対象だ。
「駄目ですよ。こちらから公王陛下に願い出てお役目を賜っているのですから」
ラングレン夫妻は職務としてレウリアーダ邸に滞在している。
しかもそのお役目を彼らに与えてもらえるよう公王に願い出たのは他ならぬリーウィアなのだ。
それを私情で追い出すなど論外である。
そしてリーウィアは、たとえ彼らがレウリアーダへの駐在員に任じられようと油断はしていない。
クロエの取り込みは、リーウィア主導のもとで現在も続けられていた。
良い感じに都会暮らしに染まってきているところで、もう少しすれば田舎暮らしに戻れない体になるだろう。
ならばとイェルドは不満の矛先を変えた。
「あの人はいつになったら国に帰るんだ……?」
「どなたのことでしょうか」
サシャがスンとした顔で淡白に答えた。
明らかにわかっていてとぼけている。それだけにイェルドは尚のこと機嫌を悪くした。
「お前の恋人の小魔導卿殿だ」
遺憾だが、甚だしく遺憾だが、ラングレン夫妻は認めてやらないでもない。
彼らは愛妻の希望のもと、ヴェステリア公国から職務を与えられて屋敷に滞在している。
だがエリアスは違う。
こちらが暗に「迷惑だからいい加減に国に帰れよ。あんたはノルデンガルの要人だろう?」と嫌味を言ってもごちゃごちゃと意味不明な理由を並び立てては一向に帰る素振りを見せないのだ。
あの男の目当てなどわかりきっている。
「誰が恋人ですか。冤罪をかけるのはおやめください」
「…………」
エリアスと付き合うことは罪なのか。
確かに彼は三十路にもなって未婚なうえ、根性なしの情けない男ではあるが。
(見ていて本当にイライラする。サシャは六つも年下だぞ?)
だというのに、どうしてあの男はあんなにも腰が引けているのか。少年の初恋でもあるまいし、嫁にほしいならもっと押して行くなり率直に求婚するなりしろと、イェルドは何度思ったかわからない。
(なにが小魔導卿だ。小娘相手におどおどしやがって……)
かつて単身で魔獣氾濫に立ち向かった男とは思えない情けなさである。
「……前から言おうと思っていたんだが、そもそもお前はなぜ当たり前のような顔をしてリーウィアに侍っているんだ」
「お尋ねの意味がわかりません。私は奥様の護衛です」
「護衛の任は解いたはずだ。私は間違いなく命令書を書いたぞ」
リーウィアに護衛が付けられたのは、遺憾ながらイェルドの魔の手から守るためだった。
婚約期間中に間違いがあってはならないと。
しかしリーウィアはすでにレウリアーダに籍を入れている。ゆえにイェルドはサシャの任を解いたのだ。
「その命令書なら俺の手元に返ってきているぞ」
執務を続けながら話に割って入ったのは秘書官にして従兄のアーロンだ。
「返ってきているだと? どうして」
「サシャがごねた。それでも団長は断固として命じた。そしたらこいつ、あろうことか奥様に泣きつきやがった。結果、奥様が命令を取り消された。以上だ」
「…………」
簡潔な説明であった。
しかし話はまだ終わらない。
「今回のことを機に私はレウリアーダ騎士団を退団いたしました。こんな理不尽な命令を下す主のもとでやっていけません」
「は……?」
「行き場を失った私に、奥様が直々《じきじき》に専属の騎士にとおっしゃってくださったのです。そのご慈悲に深く感謝し、私はこの身を捧げる覚悟でお受けいたしました」
「そんな馬鹿な話があるかっ」
「馬鹿もなにもありません。私の給金はすでに奥様の私費より支給されています。旦那様は奥様の夫ですからできる限り尊重しますが、私への命令権はございませんのであしからず」
イェルドは弾かれたようにリーウィアを見た。
「だってサシャがいてくれないと寂しいのですもの」
「いや、君が希望するなら叶えてやるつもりだが、せめて事前に相談くらい……」
「しましたよ? もっとも、ベッドのなかででしたけど」
ふふふ、と妖艶に微笑みかけるリーウィア。
令嬢から夫人に肩書を変え、晴れて経験者となった新妻は下ネタを口にできるまでに成長していた。
「あのとき確かに『いい』とおっしゃっていたのですけど……。まあ、他のことに気を取られているご様子でしたし? もしかするとお忘れになっているのかもしれませんね」
「あ、ああ……そうかもしれないな」
イェルドは激しく昂りながらどうにか答えてみせた。
サシャの件などまったく記憶にないので、その「いい」はほぼ確実に別の意味で口にしたのだと思う。
ただでさえ魔力がエロ過ぎたというのに、結婚してからというものリーウィア自身の色気にも磨きがかかり、もはや危険水域に達していた。
そのときドンと、腹に響く低い音が窓の向こうから聞こえてきた。
恐らくエリアスがレウリアーダの兵を相手に魔法でも放ったのだろう。
「困ったものだ」
イェルドはひたすら帰れとだけ思っているが、エリアスは実直な性格の実力者ということもあり、その滞在は武官を中心に歓迎されていた。
彼は世界的に名が知られる魔導師だ。
訓練の相手としてはこれ以上ない人物であろう。
イェルドも当主としての仕事がある。兵を鍛えることも重要な職務のひとつだが、そればかりにかまけていられない。
そういう意味では助かっている面もあるのだが。
「本領での披露目もあるというのに、彼らが帰ってくれないと、いつまで経っても領地に戻れないじゃないか」
祖父グレーゲルと祖母ヘレン、弟レオンとその妻アンジュはすでに本領に戻っている。
彼らが一足先に戻り、本拠地におけるリーウィアの披露目会の準備を差配してくれていた。
独りごちたイェルドにリーウィアが淡々と答えた。
「そのことでしたらついて来られるそうですよ?」
「誰が」
「誰とは言わず、皆様が口を揃えてそうおっしゃっています。ですから気兼ねなくいつでも言ってほしいと」
「冗談だろう……?」
なんの関係があって遠く離れたレウリアーダ領まで足を運ぶというのか。
彼らを結婚式に招待したのは、グランフェルト王室と政府の要請を受けてのことだった。
当然だろう。いかに大家とはいえ一介の貴族家が身内の結婚式に、他国の政府に対し招待状を出す道理はないのだ。
彼らは彼らで自国の外交使節としてグランフェルトに派遣されたのであって、レウリアーダの本領で開かれる披露目会にまで参列する必要はないはずだ。
だからといって無下にもできない。他国人かつ地位がある者ばかりなのだから。
「もう帰れよ……」
イェルドは改めて独りごちて居候たちに思いを馳せた。
◆◇◆
エリアス・シュミットは今日も自室で(自室ではない。他所様の家の客間だ)深い溜息を吐く。
一人の女性を思い浮かべると、甘いような苦いような、なんとも形容し難い感情で胸がいっぱいになった。
「ハァ……これが噂に聞く恋煩いというものか……」
男エリアス。三十にして初恋であった。
「サシャ嬢……」
想い人の名を呟くと、やはり苦く、だが決して嫌ではない、激しく焦がれる気持ちが湧き上がった。
不思議なことにこの家の者たちに彼女の名を告げると、皆が一様に頬を引きつらせながら笑みを浮かせる。
なぜだとずっと疑問に思っていたのだが、ある日ライノという御者(ずっと護衛騎士だと思っていた)が真実を明かしてくれた。
『閣下にこう申し上げるのは恐縮ですが……。じつのところ皆、吹き出してしまわぬよう堪えているのです。当家においてサシャに〝嬢〟をつける者など一人もおりませぬゆえ。かく言う私も噴飯ものでございます』
酷い話だと胸中で憤ったものだ。
「あんなにも美しい女性なのに……」
初めてサシャと出会ったときの衝撃を、エリアスは今でも鮮明に思い出すことができる。
後ろに束ねた炎のように美しき赤髪。
気の強そうな鋭い瞳。スラリと通った鼻に、好色そうなやや厚めの唇。
エリアスをやや上回る高き身長を誇る肉体は、筋肉の塊のごとく厳しく鍛え上げられた――けれど決して筋肉ダルマなどではなく、女性的な丸みを帯びた美しき曲線を持っている。
エリアスは一瞬のうちに魅了された。
「サシャ嬢こそが私が求め続けてきた理想の女性だ」
いつかヨランに男色なのかと酷い疑いをかけられたが、エリアスは普通に女性が好きだ。
「私はただ、デカくてゴツい女性が好みなだけなんだっ……」
なんだかんだ言ってエリアスも小魔導卿などと呼ばれるような男だ。
当たり前にモテたし、有り難いことに縁談話もこれまで数え切れぬほど貰ってきた。普通に女性経験だってある。
しかしだ。
「貴族令嬢というのは……こう、違うんだ……」
華奢でおしとやか。誰も彼もが「うふふ」と上品に微笑み、弱々しく控えめに振る舞う。「私は非力ですから」と、さもそれが美徳であるかのように当たり前な顔で庇護を求めてくる。
そんな、型にはまったお嬢様ばかりだった。
「サシャ嬢はそうじゃない。とてもいい。理想の女性だ……」
近づけば斬り殺すぞ、と言わんばかりの鋭い瞳に睨まれると、背筋にゾクリと熱いものが走る。
恐怖ではない。あまりの凛々しさに、ただただ目を奪われるのだ。
彼女の威嚇は決して虚仮威しではない。それを可能にする精悍な肉体と確かな技、そして日々の鍛錬に裏打ちされた強靭な精神を、彼女はあわせ持っていた。
これほどの強き女性にこそ、エリアスはずっと焦がれ続けてきたのだ。
「だがっ! あと一歩が踏み出せないっ……!」
あの結婚式からはや三週間が経つ。
これまでエリアスなりにサシャとの交流を深めてきた。
女性経験は豊富な一方で恋愛経験がほぼないエリアスだったが、周囲の助言もあって一緒に食事に出かけたり、武器屋巡りなどデートまがいのことも重ねてきた。
「このままでは侍女長やマヤ殿に合わせる顔がないっ……」
特にオーサとマヤが親身になって様々な助言をくれていた。
『できることなら貰ってやってくださいませ』
『旦那様に食い下がったあの戦いを見てかなり見る目が変わっています。どんどん押して行きましょう』
一方で、期待していたリーウィアは一貫して中立の姿勢だ。
会うたびにじーっと観察するような目で見られている。
こちらの動きが遅いせいか、積極性に欠けると見られているのか、最近は敵に回りそうな気配さえ感じるくらいだ。
サシャを任せるに足る男ではないと、見限られてしまったのかもしれない。
「脈はあると思うんだ……」
たとえば食事に誘ったときも、サシャは少しも嬉しそうな顔をせず、
『……まあ、いいですよ。奢ってくださるなら』
などと不愛想に返してくるが、不思議なことに一度も断ってはこないのだ。
デートまがいの誘いに至っては、
『……まあ、いいですけど。でも私、女らしい服とか持っていませんからね? そういうのを期待しないでください』
なんて、わざわざ予防線を張ったうえで応じてくれる。
女らしいだの服がどうだの口にするのだから、彼女もこれをデートだと認識してくれているのだろう。
「……そう信じたい」
ハッキリ言って自信を持てるほどの手応えは得られていない。
だが拒絶はされていない。嫌われてもいないはずだ。
だったら脈があると解釈しても良いのではないか。
そこで先日、これまでよりも思い切って距離を詰めてみた。
その結果がこれだ。
『エリアス様は旦那様と同じで女性経験が豊富なのですよね』
内心がまったく読めない無表情で、さらりと牽制とも受け取れる言葉を告げられた。
「なのですよね、で止めないでくれ! せめて最後に『?』をつけてくれないか!」
不潔だと軽蔑しているのか、それとも魔種という身の上に同情してくれているのか。
そのどちらであるかによって天と地ほどの違いがある。
エリアスにとってはまさに死活問題だ。
しかし事が事だけに、自分から進んで下半身事情の遍歴を釈明できるはずもなく、なにより現実に豊富なのだから否定などできる道理もなかった。
ただそれはそれとして。
「初めて名前で呼んでくれたのは嬉しかったけれどっ!」
独りで勝手に一喜一憂する忙しい夜を過ごしたエリアスだったが、翌日、事態は一変することとなる。
「はっ、告白する前に断られてしまったか。我ながら哀れな男だ……」
今からほんの数時間前にエリアスの初恋は突如として終わりを迎えた。
ふらりとサシャが現れて明確な拒絶を突きつけてきたのだ。
『私はレウリアーダ家を離れ、奥様個人に忠誠を捧げる騎士となりました。主君のもとを離れる気はありません』
彼女はそれだけを一方的に告げてエリアスのもとから去っていった。
「離れるもなにも、私はまだ君に求婚はおろか告白すらしていないのだが……?」
ひとりでに自嘲の言葉がこぼれてしまう。
どうにもサシャは言葉足らずでいけない。
迷惑なら迷惑だとハッキリと口にしてくれれば良いものを。
「……しかし遠回しに伝えるのが貴族というものか」
サシャの言葉は拒絶以外に解釈しようがなかった。
リーウィアのもとを離れる気はない。だからあなたのもとへ嫁ぐことはできない。どうか諦めてほしい、と。
エリアスはこの国の人間ではない。
ましてノルデンガル国王陛下より『小魔導卿』の号を授かっている身だ。
エリアス自身にあまり自覚はないものの、周囲が自分をノルデンガル王国の重要人物と認識していることくらいは理解していた。
ゆえに、もしもサシャがエリアスの妻になってくれたなら、当然彼女はノルデンガル王国へ嫁ぐことになる。
その彼女がグランフェルト王国を離れる気がないと告げてくるということは即ち――。
「……いや、待てよ?」
そう。サシャはなにかと言葉足らずなところがある。
例の下半身事情への牽制にしても、いまだ彼女の真意は不明なままだ。
「リーウィア夫人の個人騎士となった……。よってグランフェルトを離れる気はない……」
これは本当に拒絶の言葉なのだろうか。
「そうかっ!」
エリアスはサシャの言葉の裏に隠された真意に気づいた――いいや、きっとそうに違いないと決めつけることにした。
「あの言葉はつまりあれかっ! 『私が欲しいならあなたが国を捨ててグランフェルト王国民になってください』とっ! そういうことかっ!?」
一変してからさらにもう一変。エリアスは唐突に人生の岐路に立たされることになってしまった。
「よし、明日にでも移民申請を出しに行こう」
一瞬たりとも躊躇うことなく即決であった。
◆◇◆
エリアスが移民申請を提出してから二日後。
王太子妃アンネリーエは政務の休憩時間にゆったりと茶を楽しんでいた。
「アンネ……いいえ、あの名前も聞きたくないチャレンジが終わってからというもの、じつに平和なものだわ」
じっさいのところ、王宮そのものは平和とは程遠い。
あの結婚式でイェルドに叩きのめされた他国の魔種たちを巡り、グランフェルトは現在進行形で外交的綱引きを繰り広げている最中なのだ。
(けれどそちらは管轄外。陛下とユークリウス様は大変そうですけど、わたくしはこうして優雅にお茶を楽しむことができている。なんて素晴らしいことなのかしら)
リーウィアの数々のやらかしによって、アンネリーエは平穏な日常の有り難みを痛感させられていた。
(リーウィアと言えば……そろそろ落ち着いてきた頃かしら?)
彼女とは結婚式以来、一度も顔を合わせていなかった。
新婚であるし、新たにレウリアーダの女主人となったのだから、暫くは忙しない日々が続くだろうと気を遣っていたのだ。
(でもあれからもう三週間ほど経ちますし、そろそろ声をかけても良い頃合いかもしれませんね)
そう思うと、無性にリーウィアの顔が見たくなってきた。
(ふふ、休憩が終わったらあの子に文を書きましょう)
アンネリーエがそう決めた直後、侍女が恐縮した様子で声をかけてきた。
「ご休憩中に申し訳ありません。法務卿と外務卿が面会を求めてお越しになっています。いかがなさいますか?」
「……珍しい組み合わせね」
アンネリーエは王族の一人だ。
たとえ国政を執り仕切る大臣職にあろうと、王太子妃に会うには予約を取る必要がある。
そして彼らはそれを知らぬ人たちではない。
「火急の要件なのでしょう。構いません、お通ししてちょうだい」
「かしこまりました」
案の定、執務室に入ってきた大臣たちは揃って苦虫を噛み潰したような顔を浮かべていた。
「どうされたのです。そのようなお顔をして」
「事前の約束も無しに申し訳ありません」
二人のうちの一人、法務卿が言い出しづらそうに口を開いた。
「王太子殿下に相談いたしましたところ、『それは妻の担当だ』と突き返されてしまい、やむなくこうして妃殿下のもとを訪ねた次第にございます」
「たん、とう……?」
その二文字が鼓膜を震わせた瞬間、アンネリーエの脳裏に強烈な警鐘が鳴り響いた。
「そんな馬鹿な……」
気づきたくなかった。けれど悲しいかな、アンネリーエは瞬時に察してしまっていた。
夫の言う『担当』が、即ち『リーウィア担当』に他ならないことを。
アンネリーエは「ふぅ……ふぅ……」と深呼吸を繰り返す。
どうにか心の準備を整えたかったが、胸中に巣食う絶望感は少しも薄れてくれなかった。
だからといって聞かないわけにはいかない。
「言ってください。リーウィアがなにをやらかしたのです」
「いえ、相談の内容はレウリアーダ夫人のことではありません」
「あら」
法務卿の言葉に、アンネリーエはぱちぱちと瞼を瞬かせた。
「もう、脅かさないでください。何事かと思うではないですか」
「安堵されているところ恐縮ですが、夫人が間接的に関わっている疑いがございます」
「…………」
アンネリーエは、わずか三秒ほどで絶望へと引き戻された。
その手の示唆はリーウィアが関わっているに違いないのだ。
「こちらをご覧ください」
法務卿が差し出してきた一枚の書類。
その表題を見たアンネリーエは眉をひそめた。
「移民申請?」
「問題なのは申請してきた者です」
申請者はエリアス・シュミットと明記されていた。
アンネリーエの反応を待つことなく、沈黙していた外務卿が畳み掛けるように続いた。
「昨日のことです。ノルデンガルの大使が私のところに参りました」
「………………聞きたくありません」
外務卿が深刻な顔をしてぽつりとこぼした。
「リーウィアが動いたぞ、被害に備えよ」
「なんです、それは……」
呆然と問うアンネリーエに、外務卿が眉をひそめた。
「もしや王太子殿下からお聞きになっておらぬのですか?」
「聞いていませんが……?」
アンネリーエは、リーウィアの異名付けが政府内で言葉遊び化していることを知らなかった。
ユークリウスが伝えなかったのは、アンネリーエが知れば怒るとわかっていたからだ。
皆で上手いことを言うのを競い合っている裏で、アンネリーエは現実にリーウィアの尻拭いに奔走させられているのだ。キレて当然だろう。
だが外務卿はそんなことを知る由もない。
「格言です」
「かくげん……」
法務卿が追い打ちをかけた。
「レウリアーダ夫人は政府のなかで『善良なる魔王』とも呼ばれています」
「まおう……」
オウム返しする一方で「どちらも上手いこと言うな」とちょっと感心してしまうアンネリーエだった。
かたや外務卿は王太子妃の拒絶を意に介さず続けた。
「大使は、移民申請を決して受理するなと釘を刺してきました。そのうえで、貴国は我がノルデンガルの英雄を引き抜くつもりなのか、この件はすでに本国へ送信済みであると、極めて強く非難されました」
「聞きたくないと言っているでしょう!?」
法務卿が執り成すように柔らかな声で割って入った。
「お怒りはごもっとも。なれど魔王が動いている可能性がある以上、我らは被害に備えねばなりません。
そもそも今回の件は我らも寝耳に水なのです。
なにゆえ小魔導卿は移民申請など出されたのか……。
妃殿下であればなにかご存知ではないかと縋る思いで相談に参ったのです」
「なにも存じません」
「左様ですか」
「困りましたなあ」
なにか知っているならアンネリーエはこれほど取り乱してはいない。
そもそもの話、
「シュミット卿はまだグランフェルトにいらっしゃるのですか? 結婚式から三週間も経つのですよ……?」
「大使が言うにはレウリアーダ邸に居着いているそうです」
「…………なんですって?」
外務卿の言葉にアンネリーエは愕然とした。
もう確定だ。リーウィアはこの一件に確実に関わっている。
「どうしてシュミット卿がレウリアーダに居着いているのです」
「これは大使経由で聞いた話になりますが……」
なんでもエリアスは国や大使に対し「運命の人を見つけたゆえ、帰国することが叶わない」と釈明しているそうだ。
「運命の人とは誰のことです」
「大使も把握していないそうです。何度尋ねても答えてくれないと。だからか、むしろこちらに探りを入れてくる始末で」
即ちノルデンガルの大使は、エリアスを籠絡した者がグランフェルトの息の掛かった女ではないかと疑っているのだ。
引き抜くつもりなのかというのは、そういう意味であろう。
そしてエリアスがレウリアーダ邸に住み着いているという点があまりにきな臭い。
「まさかとは思いますが、運命の人とはリーウィアのことではないでしょうね」
「…………」
「…………」
二人の大臣は露骨に目を逸らし、口を閉ざした。
リーウィアの魔力特性を知っているからこその沈黙だ。
「……いえ、自分で疑っておいてなんですけれど、恐らくそれはないでしょう。相手がリーウィアならあの嫉妬深い男が黙っているはずがありません」
エリアスの言う運命の人がリーウィアであるなら、今度こそイェルドとのあいだで本格的な戦闘に至っているはずだ。
そうなれば当然アンネリーエの耳にも届く。
だがこの三週間、王都周辺は平和そのものだった。
「わかりました。ひとまずリーウィアに事情を尋ねましょう。どのように対処するかはそれからです」
「お願いいたします」
「申請は私のところで止めておきますゆえ」
だが結果としてアンネリーエはこのとき、リーウィアを問いただすことができなかった。
なぜなら今日という日を境に、次から次へと彼女に厄災が降りかかることになったからだ。
今回のリーウィアのやらかしは、問題が表面化するまで時間を要した。
彼女が善意から蒔いた種はじっくりと時間をかけ、ゆっくりと国境を超えてゆき、そうして他国の大地で花を咲かせたのだ。
その花々は、あたかも帰巣本能であるかのようにリーウィアの元へと帰ってくることになる。
そして最終的に、過去に類を見ない地獄の業火となってアンネリーエの元へ帰結することになるのだが――。
「まったく。少し目を離したらすぐにこれなのですから……」
王太子妃はいまだ、自身がその業火に灼かれるとは夢にも思っていなかったのだ。




