24.是非もなし
深夜――イェルドは今晩も自室にて、もはや習慣となりつつある儀式を行っていた。
この営みが希望と絶望を同時にもたらしてくれる。
「あと八十二日……」
イェルドは従兄弟がくれた暦にバツ印を打った。
結婚式までまだ八十二日もあるという絶望。
しかし八十二日だけ耐え抜けば、誰はばかることなく肥大しきったこの劣情を解放できるという希望。
恥ずかしながら「下々の者がぐだぐだ抜かすな」と盛大に啖呵を切ってからものの三日しか持たなかった。
それ以来、イェルドは毎晩こうして絶望と希望を噛み締めている。
「だってあんなの無理だろう……?」
自分しか居ない部屋のなかで、それでもイェルドは言わずにいられなかった。
たったの三日で前言を翻していることは重々承知している。しているがっ、イェルドにだって言い分がある。
「リーウィアがっ……」
めちゃくちゃ甘やかしてくるのだ。
一例を挙げるなら「いってらっしゃいの口づけ」に加えて「おかえりなさいのハグ」が加わった。
毎日のお茶会で手を繋ぐことが常態化し、さらに出てくるお菓子を「あーん」までしてくれるようになった。
疲れていると見ると、膝枕して優しく頭を撫でてくれる。その流れで耳掃除までしてくれたのだ。
「持つわけないだろこんなのっ……!」
凄い柔らかいし、凄い良い匂いがするし、そもそも魔力がエロすぎる。
ゼロ距離攻撃されたらひとたまりもない。
「いったいどこで間違った……?」
イェルドはバツ印を打った万年筆を無意識にへし折って自問した。
家族の前で「余裕だが?」と調子に乗ってしまったあのときか。
デートしたときか。それとも父やヨランの提案を蹴ったときだろうか。
もしかするとスヴェンと約束してしまったあの瞬間にはもう、この結末を迎えることが決まっていたのかもしれない。
もしあのとき――、
「無茶を言わないでくれ、スヴェン。君のお姉さんは魔種を悩殺するドエロイ魔力をまとっているんだって説得しておけばっ……!」
そうは思えど詮無きことだ。たとえあの日に遡れたとしてもイェルドはきっと誓いを立てるだろう。
義弟に情けない姿を見せられるものか。
だがムラムラしすぎて狂いそうだ。
「ふぅ……ふぅ……、落ち着け。私はやれる。絶対に耐えられる。自分を信じろっ」
イェルドは残りカスのような理性をかき集めて明日の闘いに備えた。
◆◇◆
その日もまた、闘いを終えたイェルドは暦に新たなバツ印を打った。
「あと八十日……」
今日はいけるかと思っていたところ、最後の最後にリーウィアの奇襲を許してしまった。
これだから片時も油断ならない。
ついさっきのことだ。
なんとリーウィアが部屋を訪ねてきたのだ。こんな夜更けに。
「幼子のような無垢な顔をして『今日はおやすみなさいを言えていませんでしたから』って。私が部屋に連れ込んでいたらどうするつもりだったんだっ……!」
知っている。どうするもなにも、襲いかかろうものなら警報機を作動させられるだけだ。
そしてイェルドは色んな人から色んなものを失うことになるだろう。
「いや……もしかしたらリーウィアはそのまま受け入れてくれたかも……って違う! そうじゃないだろっ!」
本格的にまずい。「どうやったらバレずに事を成せるか」みたいなことを考え始めている。
「私はいつから不逞の輩になった……?」
こんな馬鹿な話があってたまるか。
結婚間近の婚約者を相手に、どうして手籠めにする方法を考えねばならない。
「自分ではまだ正常だと思っていたが……、もう狂ってしまっているのか……?」
イェルドは自分自身を疑い始めるほど追い詰められていた。
◆◇◆
イェルドは今日も今日とて暦にバツ印を打つ。
「あと七十九日……」
今日はアーロンに「死相が出ているな」と言われた。
だがそれだけだ。死相が出ていようが助けてくれる気はないらしい。
むしろ従兄弟の様子から察するに「頑張っているな! 応援しているぞ!」みたいなことを考えていたように思う。
嬉しい気持ちとは裏腹に、無性に腹が立って魔法で灼いてやりたくなった。
「私はもう駄目かもしれない……」
ついに弱音がこぼれてしまう。
それはここに来て唯一の希望を絶たれてしまったせいかもしれない。
今日は義弟スヴェンがリーウィアの様子を見に来ていた。
イェルドとリーウィアとスヴェンの三人で楽しくも賑やかなひと時を過ごすことができた。
それはいい。問題はその後に起こった。
『義兄上、少し話せますか?』
スヴェンが帰り際に神妙な面持ちを貼り付けて『二人きりで話したい』と申し出てきたのだ。
『姉上に代わってお詫びを。申し訳ありません』
開口一番、頭を下げてきた義弟にイェルドは大いに眉をひそめた。
『義兄上がただならぬご様子なのは姉上のせいではありませんか?』
『君は……』
『僕も男ですから』
聞けば、スヴェンはさきのお茶会のなかで、姉のイェルドに対する距離感があり得ないほど縮まっていることに驚き、これはなにか事情があるのではないかと勘ぐったそうだ。
『義兄上は一貫して紳士であられましたから、原因はきっと姉上にあるのだろうと思ったのです』
スヴェンはマヤに事情を尋ねたそうだ。
『義兄上と貴家のご事情を踏まえ、姉上が取った行動は、じつに〝らしい〟感じではあります。でも姉上のやっているあれは「性的挑発」以外のなにものでもありません』
スヴェンはマヤに重ねて尋ねたという。
なにをどうしたらあんな誘惑じみた行動になってしまうのかと。
『……………………お嬢様はおもに恋愛小説を参考になさっているようです』
妙に長い間があったことが引っ掛からないでもないが、原因がはっきりしたのでスヴェンはリーウィアをたしなめることにしたそうだ。ああいうのは良くありませんよと。
イェルドは内心『なんてできた義弟なんだ!』と感動した。
救いの神はこんなところにいてくれたのだ。
『ですが……』
リーウィアはこう答えたと言う。
『ふふ、そういう男女の機微のことは、スヴェンにはまだ早いかもしれないわね』
などと、さも自分が恋愛巧者であるかのように上から目線であしらわれてしまったらしい。
『マヤは姉上のあれを「無自覚善意攻撃」などと言っていましたが……阻止できず申し訳ありません』
『無自覚善意攻撃……』
『不出来な姉ですがどうかよろしくお願いします』
そんな捨て台詞を最後に、スヴェンは去っていった。
「スヴェンっ……! もっと頑張ってくれてもいいじゃないかっ、簡単に諦めるな……!」
イェルドは自分のことを棚上げして役立たずな義弟に八つ当たりした。
◆◇◆
またバツ印を打つ。どうして時の流れはこんなにも遅いのか。
「あと七十六日……」
イェルドは方針を変えることにした。
自業自得とはいえ、外的要因はどうすることもできない。
ならば内的方法――このムラムラをなにかしらの方法で解消するしかない。
そこで兵とともに王都の外周を十周ほど走ってみた。
体感だが、一周は四〇キラメトルほどだろうか。
鉄の心臓を持つと謳われたレウリアーダ軍の兵ですら一周で音を上げた。
イェルドには準備運動にもならない。却って体温が上がり血の巡りが良くなったくらいだ。……逆効果だ。
「あと七十五日……」
ひたすらリーウィアのことを考えて過ごしてみることにした。
そもそもな話。いかに特殊体質といえど、婚約者を過度に性的な目で見ること自体が間違っている。
別にイェルドはリーウィアの魔力や肉体だけに惹かれているわけではない。
彼女の内面も確かに愛しているし、一人の貴族として敬意も抱いている。
清らかな気持ちでリーウィアを思えば、いくらか劣情が収まってくれるかもしれない。
「…………」
目を閉じればバスローブ一枚をまとったリーウィアの姿が思い返される。彼女の柔らかな声、肌の熱。……気がつけば、新調した万年筆を握り潰していた。
「はは……、所詮男は劣情から逃れられないということか……」
また別の日、イェルドは震える手で新たなバツ印を打った。
「あと七十三日……」
もはやイェルドの理性は限界を迎えていた。
湧き上がり続ける性衝動はさながら煮えたぎる大釜のごとく、今にもあふれんばかりであった。
「我ながらよく耐えた。よく律した……」
リーウィアと清らかな関係を堅持し、スヴェンとの約束を守る。
その決意は今も小揺るぎもしていない。
だが、だが、この下腹部の熱だけは、今すぐどこかへ捨てなければ、自分が内側から焼き切れてしまいそうだった。
「限界だ。私という獣をこのまま放置すればきっとリーウィアを傷つけてしまう」
不思議と心が鏡のように澄みわたっていた。
これが我慢の末に至った境地なのか、それとも諦めゆえか、イェルドにはわからなかった。
マヤはリーウィアの行動を無自覚善意攻撃などと言うけれど、まさに彼女は善意から――きっと恐れもあっただろうに、全力でイェルドの気持ちに寄り添ってくれた。
そんな愛しき人に今さら昂ぶりを解消してくれとは死んでも言えない。
なのにだ、今日この日、ついにリーウィアの口から悪魔のささやきがもたらされた。
『あの……ずっと気になっていたのですけど、イェルド様はお見合いの日以来……なんと言いますか〝殿方のこと〟をまったく口にされませんよね?
もしお辛くなっているならおっしゃってくださいね?
なにか方法を考えて皆様にはバレないようこっそり〝処理〟しますから』
リーウィアはレウリアーダ邸に居を移した当初からそう考えていたと言う。
良くないことではある。けれど体質によるものなら、イェルドに罪はない。
頼まれたなら向き合う覚悟でいたのだと。
イェルドは彼女の慈愛に満ちた想いに触れ、もう何度目になるかわからないが、改めてリーウィア・マイエルという女性を心底惚れ直した。
だが無論のこと、イェルドの答えは決まっている。
『ぜんぜん大丈夫だよ、気にかけてくれてありがとう』
女神が直接「慈悲を与えても良い」と手を差し伸べてくれた。
だからこそイェルドは限界を悟った。
慈悲に縋ることは簡単だ。縋りたい気持ちでいっぱいだった。
「だが私はおのが矜持に懸けて決意を違えない」
だから耐えるだけの日々は終わりにしよう。
今日を境にイェルドは元のイェルドを取り戻すのだ。
「……もはや是非もなし」
イェルドは窓を開け、闇に溶けるように屋敷を飛び出した。
王都を人外じみた速度で駆け抜け――郊外へとたどり着く。
「…………」
イェルドは星が煌めく夜空を見上げた。
時間はすでに深夜深く。王都は静まり返り、人々は寝静まっている。
「ここに、ほんの少しだけ……」
溜まりに溜まった衝動を放って逃がせばいい。
大丈夫。誰も傷つかない。誰にも迷惑はかからない。ただ少しだけ別の光が夜空に煌めくだけだ。
イェルドはどこまでも純粋な心地で――手のひらにこれまで蓄積された「リーウィアへの愛(という名の情欲)」をすべて凝縮させた。
◆◇◆
同時刻――私室にて深い眠りにつくリーウィアは、ドンドンと扉を乱雑に叩く音に起こされることになった。
「……なぁに?」
体を起こして瞼を擦ったと同時に、サシャが部屋に飛び込んできた。
「奥様! ご無事ですかッ!?」
どうやら酷く慌てているのはサシャだけではないらしい。
開け放たれたドアの奥から家中の者が声を上げ、走る足音が複数聞こえていた。
「ご無事って、こんな夜更けにいったい何事ですか……?」
「旦那様が監視の目をくぐり抜けて消えました!」
「えっと……?」
リーウィアとしてはそもそもからしてイェルドの監視という話が理解できない。
しかしサシャはこちらの理解を待たずにまくし立てる。
「きっと旦那様は奥様のお部屋に――ってあれ?」
「……イェルド様は来られていませんよ? そもそも監視というのは――」
その瞬間、カーテンが引かれた窓の隙間からまばゆいばかりの光が差し込んできた。
「奥様ッ!」
「きゃっ!」
サシャが叫び、覆いかぶさるように押し倒してくる――が、暫く待っても特に何事も起こらず、
「……危険はなさそうだし、窓の外を確かめてもらえる?」
「かしこまりました。ここを動かないでくださいね」
「ええ」
サシャが壁に体を寄せて慎重に窓の外を窺い見た。
「……奥様、ご覧ください。危険はなさそうです」
「そう?」
リーウィアがおっかなびっくりといった感じにカーテンの隙間から外の様子を確かめた。
「…………………なにあれ」
「さあ? なんでしょうね」
翌日、リーウィアに王太子妃アンネリーエからの出頭命令が下された。




