23.だから問題ないと言っている(ある)
大満足なデートを終えた翌日。リーウィアが同居を始めて六日目のことである。
「これより第二回お嫁さん会議を開会します」
リーウィアが高らかに宣言すると、周囲は「わぁ」と言った感じにパチパチと歓迎の拍手で応えた。
(こんなはずじゃなかったんだけど……)
当初リーウィアは数々の成功体験と証拠を引っ提げて、義母フレンダにデートの報告を行おうとしていた。
するとフレンダが、
『じゃあ、お嫁さん会議ね』
そこからあれよあれよという間に議員が招集されてしまい、二回目のお嫁さん会議が開かれることになってしまったのだ。
今回議長に据えられたのはリーウィアである。
フレンダが言うには世代交代だそうだ。「まだ会議自体が二回目なのに世代交代とは?」と思わないでもないリーウィアだったが、そこはやはり新参なので長いものには巻かれることにした。
(まあ、話して回る手間が省けるし、皆様と打ち解けるという意味でも悪くない……かも?)
初日に覚えた「皆様のノリについていけない問題」が依然として解決していないものの、習うより慣れよとも言う。
昨日のイェルドとの触れ合いもそうだった。勇気を出して数をこなせば意外と慣れてくるものなのだ。
「すでに皆様がご承知のとおり、私は昨日イェルド様にお買い物に連れて行っていただきました」
無論リーウィア主導(?)で開会されたこの会議は表――「お嫁さんと和気あいあいすること」を目的にした会議である。
リーウィアは今のところ裏会議の存在自体を認識していない。
そしてじつのところ、昨晩のうちに第二十回裏会議が緊急で開かれており、ここにいる議員たちはサシャとライノからデートの様子を詳細に報告されていた。
だがそんなことは誰も口にしない。
なぜなら表会議は、お嫁さん(リーウィア)と和気あいあいする場だからだ。
「――とても素敵なデートでした」
本当に幸せそうに微笑するお嫁さんを目の当たりにし、一部の議員たちが声なき声を以ってざわついた。
ざわついたのは義母フレンダ、義祖母ヘレン、義妹シーラ。さらに今回特別に招集を受けた侍女長オーサの四人。
この場にはマヤとサシャも参席していたが、二人は平静を保っていた。
「なんだか大仰な集まりになってしまって照れくさいのですけど、お茶請け代わりに聞いていただけませんか?」
リーウィアはそれからときに真剣に、ときに面白おかしく、自然体でデートの様子を話して聞かせた。
それを受け、皆がじつに情感豊かに反応してくれた。
「今度わたくしもそのカステラ屋さんに連れて行ってください」
「二人きりで試着室に入るなんて猛獣の檻に生肉を放り込むものよ!」
「ほう、香水にそんな効果が。そんなの初夜につけて大丈夫かねぇ、抱き潰されちまうんじゃないか?」
「奥様のお気持ちは承知していますが、あまり旦那様を刺激するのは……」
ひとしきり賑やかな雑談を終えると、リーウィアは第二回会議の閉会を宣言し、部屋を辞していった。
部屋に残された者たちは大いに困惑した。
「結局あの子はなにがしたかったの……?」
フレンダのそれはヘレンやシーラ、オーサの内なる疑問を端的に表していた。
答えたのは主人をサシャに任せ、部屋に残っていたマヤだ。
「ただ惚気話をしてみたかった、それだけです」
「のろけばなし……?」
偉い人たちの視線を一身に受け、マヤは物怖じしながらも続ける。
「すでにサシャ様とライノ様を通じてお聞きになっていると存じますが、お嬢様は旦那様が置かれている現状を憂いておられます。
ですが、どうか誤解しないであげていただきたいのです。
お嬢様は状況を憂う一方で、皆様と貴家にそうせざるを得ない歴史があることを正しく理解し、納得もされ、またこの身を守ろうとしてくださる皆様のお気持ちに深く感謝しております。
ですから皆様のなさることを有り難く思うことはあっても、異を唱えるつもりなど毛頭ないのです。
そんななかにあり、昨日こんな楽しいことがあったのだと。
ただそのことを皆様に知っていただきたくて、まず大奥様のもとに向かわれただけなのです」
マヤはどこか自慢げにそう語り、綺麗な所作で頭を下げた。
「ふぐっ……」
また例のごとくヘレンの目尻から透明な雫がこぼれた。
誰も彼もがこれまた例のごとく「ええ子や……」とリーウィアの評価を上昇気流に乗ったように上げたのだった。
◆◇◆
「あれで良かったのですか?」
不可解そうに声をかけられ、リーウィアは車椅子を押してくれているサシャを振り返った。
「あれって?」
「ただの惚気話みたいな感じで終わってしまったことです。私はてっきり昨日のデートのことを話したうえで『ほら大丈夫でしょう?』と、旦那様への警戒を解くようおっしゃると思っていたのですけど」
「お義母様たちも身構えておられたかもしれないわね」
「だと思います」
「そのためにマヤに残ってもらったのよ」
リーウィアは苦笑いしながら前に向き直る。
「この手の感情的な隔たりを、サシャの言うような『ほら見ろ』みたいな形で押し通すと、それが事実であろうとなかろうと、言われた側は面白く思わないでしょう?」
「まあ、そうですね」
リーウィアがどれだけイェルドを信じ、どれだけ傍証を積もうとあまり意味はない。
フレンダたちのほうが、リーウィアよりも遥かに長い年月をかけて重ねてきた〝不信の傍証〟がある。
これは出会ったばかりのリーウィアには、どうしたって覆しようがない。
「だからね、私が独りよがりにイェルド様を信じていればいいの」
リーウィアの気持ちがあたかも唯一無二の真実であると、そんな風にフレンダたちに押し付けては駄目なのだ。
「私が信じ続けた結果、もしお義母様たちの警戒心が解けていったなら、それはとても喜ばしいことよ。
だけどそれはあくまでも自然な形で。ご自分の意思で解いていただかないことには、きっとどこかにしこりが残ってしまうわ」
言って、ふとリーウィアは気になった。
「ちなみにサシャはどちら側?」
「私ですか?」
サシャは昨日、劇場でのこと以外のほぼすべてをその目で確かめた人だ。
そんな彼女がリーウィア側に傾いているのか、それとも依然としてフレンダたち側なのか、少し興味が湧いた。
「私はヴォルデガルフの浅ましさをよく知っています」
「……だあれ? その人」
リーウィアがすべきこと、したいことは決まっている。
これからも変わらずイェルドを信じ、そして彼の気持ちに寄り添い続けていくだけだ。
(そうしている内に、きっと私のこの気持ちも――)
添えるものではなく本物になる。
そんな確信に近い予感がリーウィアにはあった。
(だってイェルド様のことを思うと……少しだけ、胸がどきどきしてくるもの……)
◆◇◆
それからさらに数日が経過したある日の夜。
レウリアーダの男衆は、貴族が出入りする高級サロンで酒を酌み交わしていた。
誰もそうとは口にしないものの、敢えて名付けるなら『お婿さん会議』といったところか。
女衆の目と耳を気にすることなく一度胸襟を開いて話し合う必要があるだろうと、アーロンが気を利かせて企画したものだった。
「乾杯」
ルーカスの音頭でそれぞれがグラスを掲げた。
集まっているのはイェルドとアーロン、ルーカスに家宰のベッテル。そしてさらにもうひとり――、
「しかしなんだ、もっと殺伐とした空気になっていると思っていたのだが、存外平和ではないか」
レウリアーダ邸の空気感をそう評したのは魔導卿ヨラン・ルインヴェルクだ。
王国最強の老魔導師はこの日、リーウィアの治療にレウリアーダ邸を訪れていた。
「やはりヨラン殿もそう思っておられましたか」
「当然ではないか。イェルドが背負う業を思えば、そなたらがリーウィアを守らんとすることは容易に想像がつく。特にヘレンを筆頭に女衆が黙っておるまいて」
ルーカスに答えながらヨランがイェルドを見る――が本人は、渋い顔をしてちびちびと酒を舐めるだけだ。
そんな若き当主を横目に伺いながらベッテルが続いた。
「じつのところ、その女衆がこの数日で随分と軟化していまして……」
「ほう、リーウィアがなんぞやらかしたか」
「ご慧眼です。すべては奥様の働きかけによるものです」
ベッテルがここ数日の屋敷内の動静をヨランに話して聞かせた。
転換点となったのは、やはり二人のデートであったことは間違いない。。
その結果として現在、レウリアーダ邸では女衆を中心とした「イェルド擁護派」と、男衆を中心とした「イェルド警戒派」に世論が二分されつつあった。
「ううん? 女衆がイェルドの味方についておるのか? そなたら男衆がこやつに同情しても良さそうなものだが……」
「閣下のご指摘はごもっともなのですが、不思議な状況が生まれつつあるのです」
もちろんその不思議の源泉となっているのはリーウィアである。
デート以来、リーウィアの攻勢は凄まじいものがある。
見ているこちらが冷や汗をかいていることを知ってか知らずか、無防備にイェルドの懐に飛び込み――いいや、その身を丸ごと委ねるような勢いで精神と肉体の両面で接触を強めているのだ。
「ですが旦那様は強靭なる精神力で耐えておられる」
人はおのれの目で見たものを信じたくなるものだ。
無論、女衆は依然としてイェルドのことを危惧している。リーウィアの攻勢に肝を冷やしているのも変わらない。
なぜなら彼女たちは、イェルドが「ただ耐えているだけで凄まじく欲情している」ことをきっちり見抜いている。
「ただ、性衝動に囚われていた頃のお姿を知るだけに、今の旦那様の在りようには『まさかこれほど自制できるとは』と、見直す声が少なくないのです」
「だからイェルドへの警戒心が軟化しておると」
「はい、そういう空気が生まれつつあります」
もちろん女衆の全員ではないが、特に過去のイェルドをよく知る古参の者であるほど、そうした向きに見るものが増えていた。
「なるほどな。ではなぜ同じ男のそなたらがイェルドを警戒しておるのだ」
「イェルドがやるからです」
いつぞやのようにアーロンが断定した。
「…………」
だが断定された当の本人は、反論するでもなく気まずそうにグラスを抱えて俯くのみ。
これがあの名門レウリアーダの現当主かと思うほど、哀れを誘う姿であった。
「俺たちは一般的な魔種ですらありませんから。本当の意味でイェルドの苦しみを理解してやることはできません。
ですが俺たちも男です。
同性だからこそ気付ける機微がありますし、どういう気持ちでいるのかも臨場感をもって想像できます。
最初から無け無しの理性で踏みとどまっていただけなのです。……絶対にやりますよ、こいつは」
ヨランはルーカスとベッテルに目を向けた。
二人が無言で深く頷いた。アーロンと同じ意見ということだろう。
「これは愚息に白状させた話なのですが……」
ルーカスがイェルドを危険視する根拠を幾つか披露した。
もっともそれらは必ずしもイェルドだけが悪いわけではないのだが。
「近頃のリーウィアは、イェルドが出かけるとなると必ず見送りに来るのです」
「結構なことではないか」
「それが普通の見送りであるなら我らも警戒などしません」
リーウィアはイェルドがどれだけ身なりを整えようと、必ずみずからの手で襟を直そうとする。
そして直したあと、毎回顔を真っ赤にしながら「いってらっしゃいませ」とイェルドの頬に口づけを落とすのだ。
「なんと……」
「どう思われます? リーウィアが率先してそのようなことをする子だと思われますか?」
「……イェルドがなにかしたのか」
「していたのです。この馬鹿者は」
そんなことをリーウィアがやるようになったのは、くだんの観劇が切っ掛けであった。
イェルドはあの日、あれだけの我慢を強いられたのだから確かな形で報われたかった。
『じつはリーウィアに頼みたいことがあるんだ』
『なんでしょう』
『その、君が可愛すぎて……嫌でなければ、でいいんだが……口づけを――頬にしてもらえないだろうか』
ルーカスがやれやれとばかりに首を振った。
「本当は『口づけをしてもいいか』と言いたかったようなのです。しかし自分から唇を奪うと裏切り行為になりかねない。なのであの子からしてもらえるよう促したわけです」
「姑息なやり口よな……」
「でしょう? まして唇ではなく頬にしてくれというところが……」
「小者と言う他ないわ」
「我が子ながら、こんな根性無しとは思いませんでした」
「それでイェルドが出かけるたびにリーウィアがしてくれるようになったと」
「自分で自分を追い込んでのたうち回っているのです」
「そなたは馬鹿なのか?」
「…………」
イェルドは黙秘を貫き、明後日の方向に顔を背けて酒をあおった。
「こんな話もあります」
ベッテルが淡々と、しかしどこか感慨深げに語った。
彼が語ったのは「書庫事件」と呼ばれている出来事だ。
「あの日のお出かけ以来、奥様は午後の決まった時間に旦那様とお茶をともにされるようになりました」
その日は仕事が立て込んでいた兼ね合いから、イェルドが声をかけることになっていた。
書庫で待っていると事前に連絡があったので向かってみると、リーウィアが熱心に本を読んでいたという。
『なにを読んでいるんだ?』
よほど本に集中していたのかリーウィアはぴくりと肩を跳ね上げて慌てたように本を閉じた。
『歴史書です』
『本当に? 見せてくれ』
『……これは少し特殊な歴史書でして』
『そんな歴史書が当家の書庫にあったのか。尚のこと見たくなった』
『イェルド様がお読みになっても面白くないと思います』
『そんなの読んでみないとわからないじゃないか』
『……とにかく気にしないでください』
リーウィアは至って涼しい顔で「それよりお茶に参りましょう」と話題を変えたのだが――、
「じつのところ、奥様が熱心にお読みになっていたのは『房事の指南書』だったのです」
「……言葉に窮するが、それはある意味で健全なことではないか?」
「ごもっともです。忌避されるよりもずっとよろしゅうございますから」
「ではなにが問題なのだ」
「いえ、別に問題ではないのです。ただ旦那様が、奥様が閨の作法を学ばれているという事実そのものに大変興奮なさっていたというだけの話です」
「童貞か」
「っ……」
イェルドが物言いたげに口を開きかけたが、やはり一言も発することなく酒を舐める動作に戻った。
「そもそもリーウィアが読んでいた本が、なぜ房事の指南書だとわかったのだ」
「旦那様には表題が見えていたそうです」
「知ったうえでリーウィアを困らせ悦に浸っていたというのか」
「そのようで」
「いやらしい奴だな、変態ではないか」
「あれでございますよ、閣下。十歳くらいの男児が気になる女児にする……」
「語るに落ちるわ」
「このっ……」
ついにイェルドが抗議の声を上げた。
「黙って聞いていればいい加減にしろよ、老害が。なんなら私がテレシア様の元へ送ってやっていいんだぞ……?」
「なんだとぉ……?」
目を細めたヨランが即座にその膨大な魔力を立ち昇らせた。
イェルドもまた呼応するように全身から魔力の奔流をあふれさせた。
「そろそろ逝ったらどうだ。今ならタダで手伝ってやらんでもないぞ?」
「小鳥がなにやらさえずっておるわ」
睨み合う両者のあいだで魔力が干渉し合いバチバチと音を鳴らせた。
「そもそも私は昼間から気に食わなかったんだ。なんだあの治療は……?」
「なんだとはなんだ、儂は一心にリーウィアを――」
「嘘をつけ。べたべたと人の婚約者の体を撫でくり回して、みっともなく鼻の下を伸ばしていただろうが」
「……馬鹿を言うな、あれは治療行為だ」
「目が泳いでいるぞ魔導卿。語るに落ちるのはどちらだ? 七十を超えるジジイが恥を知れ」
我関せずばかりに酒を楽しんでいたルーカスがぼそりと呟いた。
「はっ、所詮はイェルドと同類か」
「な……」
目を見張るヨランの一方で、ベッテルとアーロンも蔑みの眼差しを向けていた。
三人はイェルドとヨランが臨戦態勢を取ろうがまったく動揺などしていない。
この師弟が魔力を飛ばしてじゃれ合うのは日常茶飯事だからだ。
「閣下、やり合うならどうか王都の外でやってくださいますよう。皆様のご迷惑になります」
「イェルド、お前もだ。店の備品を壊そうものならお前個人に請求するからな。レウリアーダを当てにするなよ」
「私は当主だぞ?」
「前にベッテルさんに言われただろう? 尊重してほしいなら相応の振る舞いをしろ。ガキじゃあるまいし、ご老人を相手に嫉妬するな。見ているこっちが恥ずかしいわ」
「そこまで言うか……」
「言わせているのはお前だ」
もはやそういう空気ではなくなってしまい師弟は阿吽の呼吸で魔力を霧散させた。
「そうは言うがな、アーロンよ」
「はい」
「こやつに難癖をつけられた儂がこう言うのもどうかと思うが――」
「難癖ではないだろ。治療にかこつけて性的いたずらをしていたじゃないか」
ヨランはイェルドの抗議を無視した。
「枯れた老人相手に嫉妬してしまうくらいリーウィアに惚れ込んでおるのだ。そこのところを理解してやれ」
「これでも最大限理解しているつもりです。ところで奥様に粗相を働いたというのは本当なのですか?」
「枯れた老人には潤いが必要であろう」
全員が全員「このジジイ開き直りやがった」と思ったが、逆にこのくらいのほうがルーカスたちは本題に入りやすい。
イェルドと同質の、稀有な魔種である彼に相談したいことがあってサロンに誘ったのだ。
「ヨラン殿、少し耳を拝借します」
「うん?」
耳打ちが始まったとみるや、イェルドは盛大に舌を打ってグラスに酒を注いだ。
これまで口数が少なかったのはルーカスたちの考えに酷く腹を立てていたからだ。
やがてヨランが大きく目を見張り、
「……まことか?」
「残念ながら」
ルーカスが明かしたのは、見合いのあのときイェルドがリーウィアに昂ぶりを静めてもらっていたことだ。
「こやつの魔力が妙に凪いでいたのを不思議に思うていたが……。まったく気づかなんだわ」
「私も想像すらしていませんでした。やってくれたものです」
「伯爵は知っておるのか?」
ルーカスが首を振り、ヨランが顔を渋くさせた。
「あれなら存外平然と受け止めるやもしれぬが……」
「言えると思いますか?」
「まあ、そなたには負い目しかないわな」
ただでさえこの縁談は、レウリアーダが政治的圧力をかけてねじ込んだような格好になってしまっている。
そんななかでのイェルドのやらかしだ。ルーカスが言い出せるはずがない。
「フーゴはさておき、アンネリーエに知られては色んな意味で不味いぞ」
王太子妃はリーウィアをいたく可愛がっている。
事が知れれば烈火の如く怒るに違いなく、下手をすると王室との関係まで悪化しかねない。
「ですから耳打ちしたのです。妃殿下でなくともこんなことを他家に知られるわけにはいきません」
「……リーウィアの醜聞になりかねんか」
「ええ、イェルドと当家はどうということはありませんが、あの子に飛び火させるわけにはいきません。どうかご内密に」
「わかっておる」
ヨランは不貞腐れたように酒を煽っている弟子を見て、それからルーカスに尋ねた。
「それで、儂にどうせよと?」
さすがにヨランもこの話がただの雑談だとは思っていない。
起きた事実は消せないが、ルーカスは黙っておくこともできたのだ。
「手前にした話でどれだけ臨場感が伝わっているかわかりませんが、我らは今のイェルドの状態を深く憂慮しています」
「リーウィアに手出しされることが心配か」
「家門としてこれ以上の不始末は容認できかねます」
ルーカスも無粋であることは承知のうえだ。
だが当事者だけで済ませられる話ではない。リーウィアが以前と比較にならないほど積極的になってくれているからこそ、イェルドに対する不安の芽を摘んでおかねばならなかった。
「娼館にでも行くよう勧めたか」
「遠からず近からずです。本人は見てのとおりですが」
「なるほどな」
ルーカスたちが次善として、秘密裏に娼館に行くか娼婦を呼んで性衝動を解消するよう勧めた結果、イェルドが酷く立腹しているというわけだ。
「イェルドにすれば侮辱以外のなにものでもなかろうて」
「しかし苦いものを飲んでこその当主です」
そう言われてしまうとヨランも共感せざるを得ない。
イェルドはまだたったの一月足らずに過ぎないが、すでに名門レウリアーダの現当主なのだ。
「レウリアーダの腕は長いゆえな」
「おのれと妻だけを守っていれば良いというものではない。連なる者すべてを守護することが一門の長たる者の務めです」
「言いたいことはわかった。そなたらの言い分はもっともだと思う」
あなたからも説いてくれと、そう解釈したヨランはイェルドに向かって身を乗り出した。
「だが無駄であろう。なあ、イェルドよ」
「御老……」
ヨランは目を丸くする弟子に向けて心底困ったように微笑みかけた。
「手を出せ」
言われるがままイェルドが手を差し出すと、ヨランはその手を無造作に握り魔力の状態を確かめた。
「よく凪いでおる。リーウィアに鎮めてもらってからずっとこうなのか?」
「あの日から一度も乱れていないな」
「少しもか?」
「ああ」
「性衝動のほうはどうだ。そちらは逆に以前よりも酷くなっておるのではないか?」
「……なっているが問題ない」
ヨランは手を離して酒を一口だけ運ぶと、黙考しながら舌で転がした。
「いっそのことリーウィアに頼んでみてはどうだ?」
慮外な提案に誰もが眉をひそめた。
イェルドにその意志はなく、ルーカスたちもまた、それを避けたいがためにヨランに相談しているのだ。
「雁首揃えてそのような顔をせずとも言いたいことはわかっておる。だがなあ、今さら娼婦を抱いたところで無意味とは言わぬが、以前のような効果は見込めぬと思うぞ?」
「なぜです」
「リーウィアを知ってしまったからだ」
ルーカスにそう端的に答え、ヨランはイェルドに尋ねた。
「答えたくなければ答えずとも良い。リーウィアに〝してもらって〟どうであった?」
「……これまでしてきたことは児戯でしかなかったと」
ヨランは肩をすくめてルーカスに言う。
「と、いうのが少年の頃からあまたの高級娼婦を抱いてきた男の言葉だ。
そんな経験豊富な男が房事の素人に〝軽く撫でられただけ〟で価値観を覆されてしまったと言う。
今さら娼婦を抱いて衝動が収まると思うか?」
アーロンがごくりと生唾を飲んだ。
「なあ、そんなに凄いのか……?」
「筆舌に尽くし難い凄さだ」
いつもなら「リーウィアをエロい目で見るな!」と脊髄反射していそうな下世話な質問だが、イェルドは自慢げに言い切った。
「…………」
「…………」
さらにはルーカスとベッテルまでもが前のめりになって聞いていた。
「アーロンはわかるが、そなたらは五十路であろうが……」
「リーウィアにいたずらをしているヨラン殿に非難される謂れはありません」
「私とて閣下ほど枯れ果ててはおりませぬゆえ」
男の子はいくつになってもスケベなのだ。
「一応言っておくが、リーウィアの手管が凄いわけではないのだぞ?」
「わかっております。あの子の特異な魔力ゆえのことですよね」
「うむ、儂もあと三十、いや二十若ければ……。あのどスケベな魔力で儂の――」
「それ以上口にするなエロジジイがっ。リーウィアが穢れるわ!」
今度はちゃんとイェルドが脊髄反射した。
ヨランはリーウィアの素晴らしさを正しく共感してくれる唯一の人だが、それだけに最も警戒すべき危険人物でもあった。
「で、どうだ? イェルド。恥を忍んでリーウィアに頼んでみては。誠実に話せばあの子は受け入れてくれると思うのだが」
「それはできない」
「なぜだ。あの子はそなたの事情を知ったうえで、それでも嫁ぐと決断してくれた。確かに世の価値観に照らせば不義理にあたるかもしれぬが、不誠実ではなかろう? 寝所をともにしてくれと言っているわけでもないのだぞ?」
「そういう問題じゃないんだ、御老」
ヨランの言うように、なにもかもぶちまけてしまえばリーウィアは応えてくれるかもしれない。
それどころか「どうしてもっと早く言わないのか」と怒られるんじゃないかと、そんな気さえする。
「私は一人の男としてリーウィアの想いに応えてやりたいんだ」
イェルドはリーウィアがくれた言葉をありのまま伝えた。
イェルドの置かれた状況を憂いていること。
しかしだからこそ「私が一番の味方になってあげたい」という溶かされてしまうような優しい想い。
「ここでリーウィアにすがるなど、私の矜持が許さない。
当主の責任があることはわかる。わかるが逆に言おう。当主の私が問題ないと言っているんだ。下々の者がぐだぐだ抜かすな。これ以上の口出しは無用だ」
ヨランがふっと鼻を鳴らせて目尻を下げた。
「ほんに良い女よな。まあ、テレシアには一歩及ばぬが」
「だったら十九の娘にいたずらなどしていないで、さっさとテレシア様に会いに逝け」
「いま死んでも良いのか? リーウィアの脚と傷の治療がまだ済んでおらぬが」
「それは困る。治してから逝ってくれ。ただし今後いたずらすることは許さん」
ヨランがからからと笑ってルーカスたちを見る。
三人は一様に諦念の息を吐いていた。
「仕方ない。イェルドにこれを贈ろう」
言って、アーロンが紙の筒を取り出しイェルドに手渡した。
「なんだこれは」
「暦だ」
「こよみ?」
「結婚式の日に印を打ってある。毎日バツをつけて心の支えにしろ」
「……貴様、馬鹿にしているのか?」
「俺はいたって真剣だ。いいから騙されたと思ってやってみろ。きっと最後の最後でお前を踏みとどまらせてくれるだろう」
アーロンはこれほど言葉を重ねても、やっぱり毛ほどもイェルドを信じていなかった。




