022.無自覚才媛の連続攻撃
中央広場をあとにして、本来の目的地であるシャーリア通りに向かう道すがら、イェルドは状況のやっかいさを痛感していた。
(これは想像以上に厳しい戦いになりそうだ……)
思い返されるのは、ついさきほど大道芸を観に行ったときのリーウィアの行動だ。
イェルドは求められたとおりに、彼女の細い腰を抱き支えながら人混みのなかに向かった。
この時点でイェルドは劣情があふれ出ないよう必死に堪えていた。
リーウィアはただでさえイェルドのような魔種を腰砕けにする、それはもうとてつもない煽情的な魔力をまとっている。
だというのに抱きとめる手から、密着される半身から、彼女の柔らかな感触やら香りやら体温だとかが伝わってくるのだから精神が削られるなんてものじゃない。
大道芸なんてまったく目に入らなかった。
イェルドはただひたすらに「私は紳士だ、紳士だ、紳士なんだ」と自分に言い聞かせ続けるだけだった。
ところがどうだ。
リーウィアは無垢な笑顔を浮かせて「イェルド様」とクイクイと服の袖を引いてくる。
横目に見ると、彼女はそっとイェルドの耳元に口を寄せて「ふふ、ただ呼んでみただけです」と鈴のような美しい声音でささやきかけてきた。
(耳に息を吹きかけられたあの瞬間は本当に危なかった……)
我ながらよくぞ堪えたと自画自賛したいくらいだ。
その場で唇を奪い、馬車に連れ込んで押し倒していてもなんら不思議ではなかったくらいだ。
それもこれもリーウィアの「一番の味方になってあげたい」という美しくも優しい想いがあればこそだ。
イェルドを追い詰めているのはリーウィアだが、リーウィアの想いがイェルドを紳士たらしめてくれている。
(ただ、な……。今日からずっとこんな忍耐を強いられるのか……? 三ヶ月も……?)
イェルドは今から絶望感でいっぱいだった。
けれど耐えねばならない。リーウィアを裏切れるはずがないし、家族や家中の者たちにも半笑い気味に「余裕だが?」みたいな温度感で宣言してしまっている。
そもそもな話、これまでどれだけ口説こうとも、どこか一線を引いている様子だったリーウィアが、こうも前向きになってくれたことが堪らなく嬉しいのだ。
彼女が触れてくれるたび、触れさせてくれるたび、ただ話しかけてくれるだけでもイェルドは幸福に満たされる。
リーウィアの想いと行動を歓迎こそすれ、迷惑に思うなんてことはあり得ない。
(……だがそれだけに、この征くも地獄、引くも地獄な闘いには決して負けられない)
イェルドはおのが矜持に懸けて必ず耐え抜かねばならないのだ。
「なんだか嬉しそうだな」
そう声をかけると、馬車の窓から外を眺めているリーウィアが笑顔のまま首を巡らせた。
「商業地区にはもう一年以上来ていませんでしたから。ただ眺めているだけで嬉しくなってしまって」
「そうか」
イェルドは思う。
(愛しいな。愛しいのに私を困らせる悪い女だ)
そんなことを呑気に思っていられるのは今だけだった。
イェルドはすぐに思い知らされることになる。
ここまではまだ前哨戦に過ぎず、真なる忍耐を強いられるのはこれからだったのだ。
◆◇◆
シャーリア通りに到着した頃、リーウィアは中央広場でのことを通じて自信を深めていた。
(ほんの数時間でイェルド様との距離が凄く縮まった気がするわ)
事前の準備こそ完璧だと思っていたものの、果たしてイェルドに響くのか自信が持てないでいた。
だが様子を観察した限りイェルドは確かに反応してくれていたと思う。
それにリーウィア自身もまだ気恥ずかしくはあるが、彼との触れ合いに少しずつ耐性がついてきた気がする。
(だけど焦りは禁物ね。ゆっくりとイェルド様との関係を育んでいこう)
さきは長いのだし、今日一日だけでやれることも限られている。
幸いにも優秀な教科書のおかげでイェルドの気持ちに寄り添う方法はたくさん用意してある。
でもそのなかには心の準備が必要なものも多かったりする。試みるのはまだ早い。
なので、
(今日のところは触れ合うことに慣れることを目標にしましょう)
中央広場での流れのまま、引き続きイェルドとの接触を増やしていく。
そう方針を改めて定めたリーウィアはさっそく行動に移すことにした。
まず最初に連れて行かれた宝飾品店において――。
「いきなり宝飾品ですか?」
「そう言うと思っていたんだ。リーウィアも好きに選べと言われても困るだろう?」
「はい」
たとえ仮に「金に糸目はつけない。さあ、好きな物を選んでくれ」と言われたところでリーウィアはきっと選べない。
なにせここはシャーリア通りにある宝飾品店。とんでもないお値段の物ばかりに違いないのだ。
「だから今回は私が事前に注文しておいたんだ」
「ということは受け取るだけで済むのですか?」
「済むというのはどうかと思うが。ま、今回は受け取りと調整だけだな。もちろん気に入った物があれば好きに選んでくれて構わないぞ」
「……今後のための見学だけにしておきます」
イェルドが注文してくれていた髪飾りにブローチ、ネックレスなどは、どれも洗練された優雅さがあるリーウィア好みの素晴らしい品々だった。
そのなかでも特に惹かれたのは、ネックレストップにあしらわれたブラックオパールの輝きだ。
夜空に煌めく星のようなその独特の輝きに、リーウィアは思わずうっとりとした吐息をこぼしてしまう。
「気に入った?」
「はいっ、とてもっ」
ふと、リーウィアは思い返した。
(そう言えば、お茶会のとき……)
イェルドは警報機の魔道具を取り上げて手ずからリーウィアに着けようとした。
あのときの彼はとても嬉しそうにしていたように思う。
「よろしければ着けていただけませんか?」
「…………」
なぜかイェルドの表情が三秒ほど凍りついたように動かなくなった――が、わずか三秒ほどのことだ。
「もちろん、喜んで」
「ありがとうございます」
イェルドがとても幸せそうに微笑んでくれたので、なんだかリーウィアまで嬉しくなってしまう。
いやすでに、こんな素敵な宝飾品を贈ってくれた彼の気持ちに嬉しさでいっぱいなのだが。
お茶会のときのようにリーウィアが後ろ髪をかき上げ、イェルドが後ろへ回った。
――そんな二人の様子を観察していた三人組のうちのひとり、サシャがスッと目を細めた。
「また旦那様がヴォルデガルフしておられる。さてはうなじが性癖か?」
「サシャよ、ヴォルデガルフするとはなんだ」
「発情した獣と化すことを指す言葉です」
「……よくわからぬが、私の目にはまさに種付け直前の種馬に見えるな」
「それです」
マヤは「どれだよ」と胸の内で吐き捨てた。
この二人はエロ犬かエロ馬かを論じる前に、まず主人を発情した獣に例えている点を反省すべきだと思う。
一応マヤは、公式見解としてイェルドのヴォルデガルフ化を認めていないので咎める資格があるのだ。言わないけど。
「たいそう欲情されているようだが、お止めせずとも良いのか?」
「大丈夫でしょう。前回ヴォルデガルフされたときも堪えておいででした」
「そうか、ならば野暮な真似はすまい」
「軽々に恋路の邪魔をしてはいけませんよ。種馬に蹴られたらどうするのです」
「はは、上手いこと言う」
マヤは「この人たちは……」と思ったがやっぱり黙っていることにした。
こんなお馬鹿な話に興じているが、彼らがいざというとき本気でイェルドに斬りかかることを実体験として知っているからだ。
あとなぜライノは普通に護衛騎士っぽく控えているのだろう。帯剣までしているし。
たとえ軍属上がりであっても彼の仕事は御者のはずなのだが。
次に訪れた仕立屋において――。
「せっかくの機会だ。ドレスを何着か仕立てておこう」
「仕立てていただいたところで着ていくところがありませんけど……」
「杖なしで歩けるようになれば社交に復帰できるだろう?」
「……治るでしょうか」
社交は貴族夫人にとって義務と呼んで差し支えない重要な務めのひとつだ。
人脈を築くことは当然として、家門の利益を生み、権威を保ち、ときに安全保障にも関わってくることもある。
それだけに、体が不自由なリーウィアの大きな悩みのひとつになっていた。
「きっと治るさ。御老が保証してくれているんだし、私も力を尽くす」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
そうして採寸用のドレスを受け取ったとき、優秀な記憶力を誇る頭脳がリーウィアに気づきをもたらした。
(これは……『アンジェリカの遅い帰宅』で侯爵様に籠絡される場面に似ているのでは……?)
似ているもなにも、濡れ場において主人公アンジェリカがドレスを脱がされるだけのことなのだが、リーウィアはただ「ドレス繋がり」という一点だけで実践することにした。
「あの、イェルド様……?」
「うん?」
「ドレスの着替えを手伝っていただけませんか?」
「……………………え?」
今度は六秒くらいイェルドが固まったが、頼んでいる内容が内容だけにリーウィアはまったく違和感を覚えなかった。
「だって……その、傷が……」
「あ、ああ……。それはわかるけど、さすがに私が一緒に試着室に入るのは……」
「人に見られたくないのです。イェルド様になら一度……ね?」
イェルドはどうにか困惑顔を保ちつつ、しかし内心では「ね?って言われても……」と絶望した。
「……わかった、手伝おう」
イェルドは「そこにマヤがいるんだから……」という台詞が喉の先まで出かかったが口にしなかった。
そんな当然のことをリーウィアが気づいていないはずがないのだ。
だからきっとこのお願いは、彼女の「傷を人に見られたくない」という本心であると同時に「イェルドと仲を深める」という目的を兼ねたものなのだろう。
「ごめんなさい」
「謝らないでくれ。私の方こそ配慮が足りずすまなかった」
試着室ではなにも起こらなかった。いいや、イェルドが起こさなかった――。
「ん……」
「っ……」
「一度見られているとはいえ、やっぱり恥ずかしいですね」
「リーウィアはいつだって綺麗だよ……」
「ありがとうございます。後ろを留めていただいても?」
「ああ……」
ただイェルドは生涯で二度目となる女神の素肌を拝する栄誉を得て、本日最大の苦行を強いられただけだ。
そしてもうひとつ――。
「奥様の大胆な行動に驚かされましたが……。それはそれとして旦那様の目から光が消えていますね」
「うむ、尋常ならざるお覚悟に感じ入るばかりだ」
サシャとライノは試着室から出てきたイェルドの憔悴ぶりにある種の感動を覚え、マヤはマヤで「そこまでやるんだ……」と主人の攻め気に驚いていた。
次なる店はリーウィアから希望した――。
「香水か」
「イェルド様の好みに合うものを使いたいのです」
「嬉しいことを言ってくれる」
愛しい婚約者の気遣いが、消耗していたイェルドの心を少し復活させた。
それが罠であることを知らずに――、
(さっきは視覚で距離を詰めたから……。今度は『荒き吐息の三重奏』で騎士団長をドキリとさせたあの手で……)
ちなみにこの『荒き吐息の三重奏』はマヤに見つかったとき『と、三重奏ってなんですか!? そんなのいけませんよ! 不潔です!』と大いに引かれてしまった一作である。
リーウィアにそんな癖はない。
いけない事であることをちゃんとわかったうえで怖いもの見たさに読んでみただけだ。
ともあれ、二人は仲睦まじい恋人のような距離感で香水を選んでいった。
「いいな、これ」
「お気に召しましたか?」
「私は好みだが、つける君が不快になるなら意味がない」
イェルドが選び抜いた香水の試用品を手渡してきた。
リーウィアは香りを確かめ「いいですね」と頷いたあと、自身の首にひと塗りした。
「香水は体温で表情を変えるものですから。私の肌でどう変わったのか、どうぞ〝聞いて〟みてください」
「…………」
香道の世界では香りを「嗅ぐ」ではなく「聞く」と表現する。
リーウィアらしい教養高い表現だが、イェルドは内心「今度は香りで誘惑してきたか」と戦慄しただけだった。
いや、そうじゃない。頭ではわかっているのだ。
リーウィアは仲を深めようとしているだけで、イェルドを誘惑しているわけではない。
だがここまで我慢を重ねすぎたせいか「この子もう絶対に誘ってるだろ」みたいな被害者意識に囚われ始めていた。
「じゃあ、少しだけ」
だったら嗅がないのかというと、それはもう嗅ぐしかない。
むしろ金を払ってでも嗅ぎたいくらいだ。
イェルドはふらふらと誘われるように(本日二度目)リーウィアの首元に鼻を寄せた。
「――――」
瞬間、世界の色が変わった。
(なんだこれは……)
まさにめくるめくような悦楽と陶酔の嵐が襲いかかってきた。
リーウィアから立ち上っていたのは香水の芳香ではない。
恐らく魔力だ。彼女がまとう煽情的で濃厚な魔力そのものが薫り、鼻腔から脳へと突き抜けていく。
抗いがたい魔力の薫りが、イェルドの内側に制御不能なほどの興奮の火を灯した。
(あ、ああ……駄目だ、これは本当にいけない……)
ひとりでに心臓が早鐘を打ち、あまりの興奮に肌が粟立つ。
もういい。ここまでよく我慢したと思う。
今すぐこの白く細い首に貪りつき「私のものだ」と情欲の痕を刻みつけて――、
「イェルド様……?」
「っ……」
我に返ったイェルドは歯を食いしばり、だがあんまりにも名残り惜しくて最後にひと嗅ぎしてからリーウィアの首元を離れた。
「リーウィア」
「いかがでしたか?」
「この香水はつけちゃいけない」
「あら、お気に召しませんでしたか」
「そうじゃない」
最高すぎて危ないのだ。
今回のように一度や二度なら我慢できるかもしれない。
だがこんな代物を普段使いされようものなら無理だ。イェルドは近い内に必ずリーウィアに襲いかかるだろう。
なのでイェルドはリーウィアの耳元でささやきかけた。
「(まるで君の魔力そのものが薫っているかのように錯覚した。似合いすぎて怖いくらいだ)」
「まあ……」
「(だからこの香水は確保しておくけど――)」
そこでイェルドは言葉を切り、これまでの意趣返しじゃないけれど、ねっとりとささやきかけた。
「(できれば初夜のときにつけてくれないか)」
「っっ……」
イェルドは顔を離してリーウィアの反応を待った。
「それは……」
想像してしまったのだろうか。
視線を泳がせ、必死に動揺を隠そうとしているようだが、燃えるように赤くなった顔は隠しようがない。
リーウィアはちらりとイェルドを一瞥して、けれど逃げるように視線を逸らしてからコクリと、確かに頷いてくれた。
「君は私を殺す気か……?」
婚約者が可愛すぎてイェルドはどうにかなってしまいそうだった。
そうして買い物を終え、昼食をとりに向かったレストランにおいてもリーウィアの攻勢は止むことがなかった。
「このコンフィは素晴らしいですね」
「ああ……」
話しかけてもイェルドがどこか気もそぞろなのは、リーウィアがテーブルクロスの下で彼の脚にイタズラをしているからだ。
足の指先でふくらはぎをなぞってみたり、足の甲でさすってみたりしているのだが、リーウィアは判断に困った。
(『触れてはいけない彼女の指先』の場面を真似てみたけど、これはどうなのかしら……? 反応が薄くて効果があるのかよくわからないわ)
ただマナーがどうとか、はしたないとか、叱ってくる気配がないので嫌がってはいないのだろう。
(地味に足のリハビリになっている気がするし、止められるまでは続けてみましょう)
かたやイェルドはおのれを罵倒していた。
(やめさせるべきなのに、やめてもらいたくない自分が恨めしい……)
そんなことを考えていたら、リーウィアの生足がズボンの裾をくぐって脛に触れてきた。
(これもう襲ってもいいんじゃないか? ……いや駄目だ。リーウィアの想いを言い訳にするなんて最低だ)
イェルドの懊悩はデザートを食べ終えるまで続いた。
買い物をした。お昼も済ませた。
残すはイェルドが用意した本命――観劇のみである。
開演前、貴族用の個室席に着いたそのとき、イェルドとリーウィアはまったく別の方向で緊張していた。
(個室、薄暗い、二人きり、隣り合わせ。ここは天国のなかに生えてきた地獄か? いいだろう、乗り切ってみせるさ……)
(個室に二人きり、マヤたちは部屋の外で控えている。イェルド様のお気持ちに寄り添う絶好の機会が来たわ……)
かたや守勢一辺倒、かたや攻勢一辺倒と、ある意味で二人は相性ぴったりなことを考えていた。
「マヤに聞いたんだ――」
すでに薄暗い室内にイェルドの落とした声が溶ける。
「今日の君はあんまりにもこれまでと違っていたから」
「そう聞いています」
「聞いていたか?」
「直接聞いてはいませんけど、目を見ればなんとなく」
「君たちは本当に仲がいいな」
「ずっと一緒に居ますから。私にとっては姉のような存在です」
イェルドは自然とアーロンを思い浮かべて苦笑した。
あの心配性な従兄弟は今も屋敷で気を揉んでいるのだろうか。
「私を信じてくれるんだって?」
「ご迷惑でしたか?」
「いいや、こんなに嬉しいことはない。一人の貴族として見ても君の在り方は尊敬できるものだ」
「ありがとう存じます。安心しました」
暗いせいかイェルドは体を寄せ、リーウィアもまた自然と彼の肩に頭を預けた。
「もう一度言葉にしておこうと思うんだ。私は君の想いと、スヴェンとの約束を決して違えることはない」
「信じています。心から」
舞台の幕が上がり、二人は無言で舞台に目を向けた。
寄り添うその姿は誰が見ても仲睦まじい婚約者に見えただろう。
だが――、
(手を握るだけじゃ進歩がないわ。ここは勇気を出してっ……!)
(腕を組んでくるだと!? む、むねっ、むねがあたっ……やわらかっ……)
二人の攻防は、今日一番の苛烈さを極めようとしていた。
◆◇◆
そんな――少なくともリーウィアにとっては――大満足なデートを終えた翌日。
数々の成功体験と証拠を取り揃えたリーウィアは満を持して高らかに宣言した。
「これより第二回お嫁さん会議を開会します」




