21.無自覚才媛の善意攻撃(本命)
つつがなく――少なくともリーウィアのなかでは――初デートに出発したのちも、彼女の「お気持ちに寄り添い作戦」は攻めの手を緩めることなく続けられていた。
「せっかくのデートですから」
リーウィアは敢えて言葉足らずに言って、隣のシートをぽすぽすと叩いてみせた。
「君がそう言うなら遠慮なく」
イェルドは促されるままリーウィアの隣に腰掛けた。
愛しい人から「隣り合わせに座ろう」と誘われて断る理由などあろうはずがない。
開幕から褒め言葉を贈られ、間近に顔を寄せながら手を撫でられたことに動揺させられたが、すでに落ち着きを取り戻している。
イェルドは本来口説く側なのだ。
この程度のことに翻弄されているようでは格好がつかない――はずなのだが、
「……リーウィア?」
「せっかくのデートですから」
リーウィアは同じ言葉を口にして、そっとイェルドの手を握った。
「今日はどうした?」
「ご不快ですか?」
「まさか」
「なら良いではないですか。ところで今日はどこに連れて行ってくださるのですか?」
昨日デートに誘った段階で「お買い物に連れて行って」とお願いしているので、買い物に行くことは決まっている。
ただそれ以外の予定についてはイェルドにお任せになっていた。
「体のことがあるからな。無理はさせたくない」
だったら「お買い物だけ?」と目で問うリーウィアに、イェルドが口元を緩めた。
「ちゃんと考えてある。午前は買い物をして、午後からは観劇だ」
「まあ」
「それなら座っていられるし、負担は少ないだろう?」
「はいっ、嬉しく存じます。でも昨日の今日でよく席が取れましたね」
「私の持ちうる全権力を使った」
じっさいに使い走りさせられたのはアーロンだが、そんなことをイェルドは言わない。
イェルドがリーウィアのために手を尽くした。この点だけが重要なのだ。
現実に誰が汗をかいたかなんてことは些末なことである。
「お買い物はどちらで?」
「シャーリア通りを考えていたが、希望があるならどこへでも」
シャーリア通りとは、貴族街の商業地区のなかで最も華やかな通りのひとつだ。
立ち並ぶ店は流行の発信地となるような高級店が多く、たとえ伯爵令嬢のリーウィアであっても入るのに尻込みしてしまうような店も店も少なくない。
「あの、お気持ちは嬉しいのですけど……」
「金は身分相応に使ってもらわないと困る」
綺麗に先回りされてしまいリーウィアが口をつむぐと、イェルドは慰めるように微笑みかけた。
「言いたいことはわかるが、リーウィアは辺境伯夫人になるんだ。当家の面子を損ねることは本意ではないだろう?」
リーウィアはありありと困り顔を浮かせてため息をついた。
「慣れるしかないのですね」
「諦めてくれ」
「わかりました……」
それも夫人の務めと受け入れた直後、リーウィアの優秀な頭脳が「シャーリア通り」を材料に閃いた。
「シャーリア通りに向かうならイール橋を渡りますよね?」
「ああ」
王都は王城の傍らを流れる川を境に東西で二分される構造になっている。
これは貴族街も例外ではない。レウリアーダ邸があるのが東側、シャーリア通りがあるのは西側だ。なので川を渡って向こう側へ行く必要がある。
「でしたら中央広場に寄っていただきたいのですけど」
「中央広場? あそこは平民街だが……」
「平民街といっても富裕層が住む場所ですから。治安は貴族街と遜色ないほど良いのですよ?」
「まあ、そうだが。中央広場になにか用事が?」
「事故に遭う前に通っていたお菓子屋さんがあるんです。久しぶりに食べたいなって」
「ああ、そういう……」
「学生の頃はアンネリーエ様ともよくご一緒したのですよ。もちろんお忍びで、ですけど」
「平民街に通う殿下も殿下だが、お伴する君も君だ」
「当時のアンネリーエ様はあくまでもユークリウス様の婚約者に過ぎませんでしたから」
「君は知らないかもしれないが、王太子殿下の婚約者は準王族として遇されるんだぞ」
「まあ、そうなのですか?」
「よく言うよ。困った二人だな」
苦笑するイェルドだが、リーウィアはさらに苦笑の種を差し出した。
「そのユークリウス様もご一緒されることがございましたけど」
「そうかい、王族と準王族に振り回されていた当時の近衛の苦労が忍ばれるよ」
呆れながらイェルドがコツコツと御者席の窓を叩いた。
「店の名は?」
「アン・パティスです。場所はマヤが知っています」
「わかった、ライノに寄るように言おう」
「ありがとうございます」
こうしてリーウィアの願いは叶えられ、恋愛小説(艶本だが)から授かった手管を披露する機会を得たのだった。
◆◇◆
菓子店アン・パティスに滞りなく到着したものの、そこでイェルドとリーウィアはちょっとした押し問答となった。
サシャかマヤに買いに行かせるものと思い込んでいたイェルド。
反対に、当然自分で買いに行くものと思い込んでいたリーウィア。
ただこの押し問答は、リーウィアが途中で方針を変えたことであっさりと決着がついた。
『お願い、イェルド様……』
『わかった』
言葉で説くのではない。上目遣いで仕留めにいく。
イェルドは「ふぅ……ふぅ……」とかすかに吐息を荒くさせつつ、頑なだった態度を軟化させた。
艶本(恋愛小説風)の知識が実証されたことで、リーウィアは内心「これは本物だわ……」と教科書への信頼を厚くした。
「ふふ」
アン・パティスを出たリーウィアはご機嫌だった。
抱える紙袋から漂ってくる甘い香りに自然と頬が緩んでしまう。
「カステラひとつでそんなに幸せそうな顔をして」
背後から小さく吹き出す声が聞こえ、リーウィアはムッとした顔で振り返った。
「いけませんか?」
「いいや? 少しもいけなくはないけど、この分だと高級品を贈ってもあまり喜んでくれそうにないなと思って」
「そんなことはありませんよ? 高くとも安くとも良いものは良い、それだけです。このカステラのように」
愛おしそうに紙袋を撫でるリーウィア。
イェルドは参ったと言わんばかりに肩をすくめると、困ったような、それでいて愛おしそうな眼差しを婚約者に向けた。
「至言だとは思うけどな。これから買い物にエスコートする身にもなってくれ。宝飾品店や仕立屋を回っても『もしカステラに負けたら』と思うと選べなくなるじゃないか」
「まあっ」
リーウィアは堪らず吹き出した。
「イェルド様の懸念はごもっともですけど、いくらなんでも宝石とカステラを比べたりしませんよ」
「ならいいが」
リーウィアは小気味良く会話に応じながら、しかし内心では心臓の鼓動を早めていた。
(私の手にはひと口大のカステラ……。これで『若き騎士のしつけかた』に出てくるあの場面を再現できる……)
もっとも主人公エレノアが使ったのは皮を剥いたブドウなのだが。
しかし指で摘んで男性の口に運ぶことが要点なのでカステラで代用しても良いはずだ。
(……かなり大胆だけど、これもイェルド様のお気持ちに寄り添うためよ)
そんなリーウィアの内心を知れば、マヤあたりは「それはもう仲を深めるというより、単なる性的挑発でしかないですよ」と優しく諭してあげたかもしれない。
だがこのときのマヤは少し離れたところで自分用に買ったカステラをぐまぐましているだけだった。
「お味はどうですか?」
「めちゃくちゃ美味しいです」
「焼き立てというのがなお良いですな」
もちろんサシャとライノもおすそ分けしてもらって一緒にぐまぐましている。
お付きの者たちは皆、カステラに夢中になっていた。
リーウィアはいそいそと紙袋を開くと、蜂蜜がかかった丸いカステラを摘んで口にした。
「外で食べるなんて少々はしたないぞ、馬車はすぐそこじゃないか」
苦言を呈されることは織り込み済みだ。
リーウィアは振り返り、イェルドに見せつけるように蜜に濡れた指を〝ねぶって〟みせた。
「っ……」
指を舐めるなんて尚のことはしたない行為だが、イェルドはリーウィアの口元を凝視して生唾を飲むだけだ。
「このカステラは焼き立てが一番美味しいのです。イェルド様もおひとつどうですか?」
リーウィアは無垢な善意を装った微笑みで〝唾液で濡れたままの指〟でカステラを摘んだ。
それを「ん」とイェルドに向けて持ち上げる。
「あ、ああ……」
イェルドはうわ言のような声を発し、ふらふらと顔を寄せていく。
リーウィアは開かれた口の深くまでカステラを運び、その帰り道で唾液のついた指を拭うように彼の舌をなぞった。
「っ!?」
不意の刺激を受けて無意識に反応したのかもしれない。
図らずもイェルドが唇を閉じようとしたせいで、リーウィアの指が抜けるそのとき「ちゅぷ」と淫猥な音が鳴った。
リーウィアはそこで終わらず〝イェルドの唾液で濡れた指〟を自身の口に運ぼうとして――、
(そこまでは無理っ……!)
顔を真っ赤にしながら手を明後日の方向に向けると、阿吽の呼吸で濡れたハンカチが手渡された。
無論それは、できる侍女マヤの迅速なる対応である。
リーウィアが指を拭ってハンカチを返す。
「…………」
「…………」
いたって真面目な顔で頷き合ったのち、マヤは一言も物申さず元の位置に戻っていった。
お付きの侍女は優しく諭すどころか「今の良かったですよ!」と発破をかけて去っていった――が、入れ替わるようにサシャが近づいてきた。
手招きで護衛騎士を呼び寄せたイェルドが言う。
「……少しだけ外す。サシャ、頼むぞ」
「御意」
イェルドは返事を待たずにマヤとライノが控えている場所に向かった。
「今日のリーウィアは明らかにおかしい! なにか知ってることはないか!?」
ひどく動揺している様子のイェルドを見て、マヤがさもありなんとでも言うように深く首肯した。
マヤとしてもこのまますれ違い気味になってしまうことは本意ではない。
「お嬢様は、旦那様がご家族や家中の皆様から警戒されている現状を憂いておられます」
マヤはリーウィアの想いをありのまま語って聞かせた。
リーウィアは現状を憂いている一方で、そうせざるを得ないフレンダたちの気持ちにも共感し、深く感謝もしている。
けれどイェルドがあれだけの決意を示しているのだから、もう少し信じてあげても良いのではないか。
「ですから旦那様のお気持ちに寄り添えるよう距離を詰め、そのうえで紳士でいてくれたなら、きっと皆様の警戒心も自然と解けていくはずだと」
マヤは一度そこで言葉を切り、主人の一番大切な想いを口にした。
「お嬢様は『私はあの方の妻になるのだから一番の味方になって差し上げたい』とおっしゃっています」
「そう、か……。リーウィアは私を信じてくれているのだな」
「もしご迷惑であれば私からお止めいたしますが」
マヤは割と本気で提案していた。
リーウィアの(色)仕掛けは確実に効いている。
たださきほどの「度が過ぎたあーん」もそうだが、仲を深める以上に「私をおいしく食べて?」的な要素が強く出すぎてしまっている。
艶本を手本にした弊害だろう。
なので、ここで一旦立ち止まらせることもひとつの手だと思う。
猶予を貰えれば恋愛弱者のマヤだって、もっと健全な方法を調べてリーウィアに教えることもできるはずなのだ。
(まあ、ここまで言われて旦那様が止まれるはずがないんだけど……)
事実、イェルドは神妙な面持ちで首を振った。
「不要だ。私がリーウィアを妻に求めたのだ。その彼女が妻として私の味方になろうとしてくれている。こんなに嬉しく誇らしいことはない」
「よくぞ申されました」
黙って成り行きを見守っていたライノが感無量といった感じに強く頷いた。
「このライノ、旦那様が道を違えることあらば命を懸けてお斬りしましょうぞ」
「ん? 斬るのか?」
「はい」
「応援してくれるのではなく?」
「応援はいたしますとも。しかし間違いがあってはならぬことは変わりませぬ」
イェルドは内心「そうか? いや、そうか」と、釈然としないものを覚えながらどうにか納得した。
そこへサシャに車椅子を押されたリーウィアが合流してきた。
「イェルド様」
「ああ、ひとりにさせてすまない」
その刹那の時のあいだにマヤは目配せだけでリーウィアに状況を報告した。
「…………」
「…………」
長年連れ添ってきた仲である。
リーウィアはそれだけでマヤの言わんとするところの七割方を察した。……残る三割は知らない、ということにしておく。
「あの、お願いしたいことが……」
「なんだい?」
「向こうで大道芸? らしき催しがされているようなのです。観に行きたいのですけどお許しくださいますか……?」
「…………」
イェルドはマヤとライノから「あれあれ? あんな啖呵を切っておいてまさか断ったりしないよな?」みたいな圧を感じた。
そんな彼の胸中など知る由もないリーウィアが続ける。
「車椅子で行くのは皆様のお邪魔になるかもしれませんので、できればイェルド様に、その……支えていただきたいなと……」
リーウィアは次なる手を考えていた。
(駄目かしら……? これも『未亡人ラヴィニアは月夜に鳴かされる』に出てきた状況に似ているんだけど……)
夫を無くした主人公ラヴィニアが葬儀の場で憔悴し、ふらりと倒れかけてしまう。
それを咄嗟に支えたのは夫の兄であった。
彼は反射的にラヴィニアを抱きとめただけだったが、伝わる体温や香り、その体の柔らかさがどうにも忘れられず、以来弟の妻を女として意識するようになるという場面だ。
なにぶん艶本なので行き着く先はもちろん濡れ場なのだが、そんなことをリーウィアは気にしない。
どのみちイェルドとは結婚するのだし、なにより彼の覚悟を信じている。
(自分から「体に触れて欲しい」ってねだっているみたいで凄く恥ずかしいけど、恋人同士だと思えばこのくらい……)
この三ヶ月は仲を深める期間だと思えばいい。
イェルドの保証までついているのだから、リーウィアは勇気を振り絞って行動するのみだ。
「あ、ああ、もちろん。リーウィアが望むなら喜んで」
「ありがとうございますっ」
イェルドの声が若干かすれていた気がしないでもないが笑顔で快諾してくれた。
そうしてリーウィアはイェルドに腰を抱かれながら催しがされている人だかりに向かった。
その背中を見つめながらライノがこぼした。
「なんと慈悲深いお人だ。奥様は女神か……」
「なんです、それ」
「聞いてくれ、サシャっ。奥様がいかに慈愛に満ち溢れたお人なのかをっ」
イェルド、シーラに続き、ライノが「リーウィア女神説」を唱える仲間になった瞬間だった。
のちにリーウィアはレウリアーダにて聖女のように崇められるようになるのだが、この手のことはほぼライノが原因だったりする。
「頑張ってください。旦那様……」
マヤはイェルドの背中に向けてささやかな応援を贈ったのだった。




