19.会議は荒れる
イェルドの「問題ない」発言によって、かろうじて保っていたヘレンの我慢の堤が一瞬にして決壊した。
「ベッテル! あたしの剣を持ってこい!」
「はっ、ただちに」
「待て待て待て!」
刹那の逡巡すらなく即応したベッテルに、さしものイェルドも慌てた。
「得物を与えるな! 婆様は斬ると言ったら本当に斬る人だぞ!? ベッテルも知っているだろう!?」
「坊ちゃまの自業自得では?」
ベッテルが吐き捨てるように言う。
今しがた「おお、殊勝な態度……」と感心しただけに、イェルドの居直り発言には心底失望していた。
「誰が坊ちゃまだ。私は現辺境伯だぞ」
「……ふ」
至極当然な主張を受け、しかしベッテルはこれみよがしな失笑で応えた。
「現当主といえどほんの一月ほど前に叙されたばかりの駆け出しではないですか。三代にわたって仕えている私に言わせれば、ただのはなたれ小僧に過ぎませぬ」
「言わせておけば……」
「尊重されたくば相応の行いをなされよ」
「どうでもよいわ、そんなこと!」
ヘレンが拳の腹でテーブルを叩き割らんばかりに打ち据えた。
「剣を持ってこいと言っている! 貴様も一緒に処されたいのか!?」
「畏れながらッ!」
勇気を奮い立たせ、ベッテルの行く手を阻むように腕を広げたのはオーサだ。
議長がすでに処断に傾いている今、事を収められるのは自分しかいないという決死の覚悟だった。
「ハァ……」
「…………」
事実、ルーカスは頭が痛いと言わんばかりにこつこつと額を指で叩いていて、自称議長のフレンダは表情を消して無言。どちらも執り成す気配が一切ない。
「…………」
「…………」
かたやアーロンは静観の構え。
シーラはシーラで、その呆れ顔には「処置無し」という感情がありありと浮いていた。
「……オーサ、あんたイェルドの肩を持つのかい?」
「そうではありません。私が願うことはお家と奥様を安んじることのみです。
旦那様のご発言は私もいかがなものかと思います。
しかしたった一言のみを取り上げ、処断の決を下すこともまた、いかがなものかと思うのです。
相応の事情があるやもしれません。もう少し旦那様の存念を伺ってから結論しても遅くないはずです」
ですよね、旦那様――と、オーサが口にしかけたそのとき、
「(……じっさいどうだったのだ?)」
「(そのような生々しいことを言えるわけがないでしょう?)」
ルーカスとイェルドのひそめた声が聞こえてしまった。
「――――」
オーサはレウリアーダに仕えて三十余年、初めてのことだった。
(こいつら……)
たとえ内心といえど、主人たちに悪態をつくことなどただの一度もなかったのに。
誰のために必死になっていると思っている。
「旦那様」
「あ、ああ……どうしたオーサ、お前までそんな怖い顔をして」
残念なことにイェルドは、自分が侍女長の心を折っていたとは欠片も思っていなかった。
それどころか、
「この際だから言っておくが、私はこの状況そのものを不本意に思っているんだ」
なぜ自分とリーウィアのこと――敢えて言うなら〝夫婦〟の個人的なことについて、周りからこうもあれこれ言われなければならないのか。
「最初に言ったとおり皆が怒るのはわかる。心配になる気持ちだって理解しているつもりだ。現に私は昨日の騒動について皆を責めたりしなかっただろう?」
昨日の騒動とは、くだんの魔道具お試し事件のことだ。
あれはフレンダたちがイェルドを信用していない証であり、魔道具の存在はイェルドに伏せられていた。
イェルドはしかし、リーウィアから事情を聞いたとき「当然の措置だ」と理解を示し、その後も家族を責めたりしなかった。
フレンダが重い唇を開いた。
「そう言うあなたはリーウィアさんに手を出していた」
短い言葉だが、その場にいる全員がフレンダの言わんとするところを正しく理解し、共感もしていた。
魔種――それも上澄みの魔種たるイェルドが抱える性衝動は、理性で抑え込むには限界がある。
それはこれまで長い年月を通じて思い知らされてきた実体験だ。
だから周囲は万が一に備えて魔道具を用意した。リーウィアに身に着けてもらえるよう頼んだ。
図らずもこの危惧は、あろうことかイェルドが見合いの日に行った暴挙によって裏付けられてしまった。
イェルドはリーウィアを二年かけて思慕し続けてきたが、リーウィアはそうではない。
彼女は見合いの日がイェルドとの初対面だったのだ。
イェルドはしかし、
「その件については道理にもとる行いだったと理解しています。甘んじてその責めは負いましょう。
ですが母上、これは卑怯な例え話になるかもしれませんが、仮に母上が灼熱の砂漠のなかを数日さまよい歩いていたとします。
すでに水の一滴すら残っていない。
そんなとき、目の前になみなみと注がれている水の入った革袋を差し出されたらどうされますか?」
誰もが複雑な胸中を、顔を歪めることを通じて表に出した。
「私はあのとき飲まずにいられませんでした。渇望してやまなかったリーウィアという水を。
この尋常ならざる衝動を理解できるのは、世界でただひとり我が師だけでしょう」
ただ、とイェルドはみずからを囲んでいる家族、そして家族に等しいひとたちの思いを汲んで続ける。
「私はレウリアーダの当主です。リーウィアとの結婚が家門全体に関わる大事であることを承知しています。
当然、説明の責任がある。ですからまずは結論として『問題ない』とは申しましたが、必要な説明をするべくお召しに応じた次第です。もちろんそれで皆が納得できるかは別ですが」
そこでイェルドは一度言葉を切って一同の様子をつぶさに観察――温度感がすっかり変わっていた。
あれだけ怒り狂っていたヘレンでさえ話を聞く姿勢になっている。
(ふ、チョロいものだ)
イェルドは内心でほくそ笑んでいた。
家門がどうとか、説明責任がどうとか、殊勝なことをさえずってみたものの、本音ではそんな高尚なことなど考えていない。
面倒で仕方ないが、周りがやかましいので説明してやっているだけのことだ。
(いいさ、このくらい許してやろう。リーウィアという至宝を手に入れ、魔力の乱れが失せた私はかつて無いほど万全だ)
イェルドはこのとき完全に調子に乗っていた。
リーウィアと同居してまだたったの三日目だが、もう楽しくって仕方ない。
口説くたびに彼女は可愛い反応を返してくれる。
手を握るだけでなく、さすっても嫌がらず、顔を赤くして憎まれ口を叩くくらいがせいぜいで、昨日は初めて――頬にだが口づけまでしてくれた。
こんな楽しいひとときが三ヶ月も続き、さらにそのあと結婚式という幸せの絶頂が訪れ、挙げ句それすら上回る新婚生活まで控えている。
もう幸せの奔流に溺れてしまいそうなのだ。
(周りがうるさいくらいどうということはない。寛容になろうじゃないか)
イェルドはそんな内心を隠しつつ『問題ない』と結論した根拠を並べていく。
「今から話すことは決して私自身の言い訳ではないことを明言しておきます。
リーウィアが私を慰めてくれたあとで、彼女が明かしてくれたことなのですが――」
イェルドは見合いの日にリーウィアが披露してくれた魔種への考察を話して聞かせた。
「つまりリーウィアは『昂りを処理すること』を通じて私の魔力の状態を確かめ、それを手掛かりに王家や当家の意図を完璧にまで考察してみせたのです」
イェルドのそれは説明の体を取った単なる嫁自慢であった。
だがそれだけにレウリアーダの人々へぶっ刺さってしまう。
「可愛くて人当たりが良くて、控え目で優しいうえに頭までいいとか、もううちのお嫁さん最強じゃない?」
「お義姉様は王国学舎を首席で卒業された才媛ですよ? このくらいは当然です」
「同居した翌日に女主人の仕事を学びたいと言ってきたそうじゃないか。本当にできた嫁だ」
「ああ、祖霊は我らを見捨ててはおられなかったっ……」
「奥様のご器量を以ってすれば次代のレウリアーダも安泰ですな」
そんな感じで、またリーウィアの知らないところで評価が青天井で高まっていく。
「まさに奇跡だ。イェルドは悪徳しか積んでいないのに、こんなことがあっていいのか?」
「おい」
イェルドはアーロンの言葉だけは聞き捨てならなかった。
ともあれ、リーウィア自慢を通して場の空気が随分と弛緩したものになった。
そこでイェルドはさらなる論拠を積んでいく。
「私が『問題ない』と言ったのは、なにも精神論的なものだけが理由ではないのです」
イェルドが次に投じたのはリーウィアが持つ特異な魔力についてだ。
それ自体はこの場にいる全員がすでに知るところだ。
だがその効果のほどは、リーウィア自身がそうであったように、魔種でない彼らにとって共感できない感覚である。
「じつのところ、あの日リーウィアに慰めてもらって以来、私の魔力は完全に安定しています」
これには一同が目を剥いた。
「まことか」
「間違いありません。リーウィアからもお墨付きを得ています」
ルーカスに続いてヘレンが問う。
「ならどうしてそんな大事なことを黙っていたんだい」
「問題自体が解消したわけではないからです。リーウィアのおかげで魔力は安定するようになりましたが、……性衝動そのものは収まっておらず、むしろ以前より強くなってしまっている有様で」
「それは、その……お義姉様の魔力がとても……煽情的だからですか?」
「そうだ。だけどシーラは知っているだろう? 私がスヴェンと約束したことを」
イェルドは最後にスヴェンと交わした男と男の約束を皆に話して聞かせた。
「お話したとおり、私はすでにリーウィアのおかげで魔力の暴走に怯えずとも良い状態にあります――が、依然として性衝動の問題は残ったままです。
ですがそれはある意味、私の純然たる覚悟が問われるだけのこと。周囲に被害をもたらす心配はないのです。
ただ一人の男として三ヶ月のあいだ紳士であれば良い。
私は誓ってリーウィアとスヴェンを裏切るような真似はしません。
母上たちの懸念は理解しますが、どうかこの愚息めをお信じいただきたい」
イェルドは押し黙っている皆を見渡した。
「よろしいか」
「わたくしからひとつだけ」
これまで積極的に発言してこなかったシーラが一通の便箋を取り出した。
「イェルドお兄様以外の皆様で内容をお確かめください」
シーラはまず父ルーカスに便箋を手渡し、そのあとイェルドに告げた。
「リーウィアお義姉様を当家に迎えるにあたってスヴェン様より頂戴していたお手紙です」
「スヴェンから……?」
手紙に目を通した誰もが眉間にしわを刻む。
だがイェルドは眉をひそめながらも、全員が手紙を読み終えるのを待つことしかできない。
やがて手紙が一巡すると、シーラが口を開いた。
「わたくしはイェルドお兄様のお覚悟を聞き、そのお手紙をお兄様にお見せするべきか否か迷っています」
「私たちの判断を聞きたいと」
「ええ、お父様」
ルーカスに先んじ、ヘレンが重々しい声でイェルドに問うた。
「いま吐いた覚悟を違えたとき、辺境伯位を返上しろと言われたら、あんたは頷けるかい?」
イェルドはほとんど迷わなかった。
「私は別に辺境伯位にこだわりなんて持っていません。レオンかシーラが継いでくれるなら私は素直に譲りますよ? さすがにリーウィアに平民暮らしはさせたくありませんので、当家が持つ子爵位あたりを頂戴したいとは思いますが」
「ほう? あんたはリーウィアを辺境伯夫人にしてやらずとも良いと言うのかい」
「…………」
「辺境伯夫人って肩書きは安くない。あんたがあの子にあげられる最上級の贈り物のひとつだ。本当にいいのかい? それで」
ヘレンは手元にあるスヴェンの手紙をコツコツと指で叩いた。
「ここに書いてある内容は重い。リーウィアへの愛に溢れているだけじゃない。イェルドへの思いも綴られてある。
だから今この場であんたに読ませるのもひとつの手だとは思う。覚悟をより重くさせるという意味でね。
だけどあたしは敢えて読ませるべきじゃないと思うんだ。
どうだい、イェルド。自分が吐いた言葉を貫いたそのとき、義弟の真実に触れるっていうのは」
イェルドは不敵に口の端を持ち上げた。
「いいでしょう。みずからの行動で以ってスヴェンの心に触れる資格を得ます」
「わかった。もう良い、行け」
「では」
イェルドが部屋を辞したのち、部屋のなかは「やりきった感」のような空気が漂っていた。
「まあ、いい年した男があそこまで言うんだ。信じてやろうじゃないか」
イェルドの詰問を締め括ったヘレンがそう口にしたことで、なんとなく全員がそうした方向に傾いていく。
「そうですね、魔力が暴走する心配がないなら……」
「お兄様もまさかここにきてお義姉様とスヴェン様を裏切る真似はなさらないでしょう」
フレンダとシーラが渋々ながら共感を示すと、続いてルーカスとベッテルが頷き、
「爵位の返上というのはともかく、それだけの枷をかけられても頷いたと思えば」
「そうですね、依然として旦那様の行動は注視しつつも強硬策を講じるのは行き過ぎかと」
だが、この結論に納得していない者が二人いた。
「イェルドは襲いますよ」
「信じるに値しません」
アーロンとオーサが断固として不信を主張した。
さきに動いたのはアーロンだ。
「女性に聞かせるのはちょっとあれなので、叔父上、ベッテルさん、ちょっとこちらに……」
アーロンに促され、男衆は部屋の隅でほんの少しのあいだだけ密談を交わした――その結果、
「本人はああ言っていたが、それはそれだ。やはり家として対処は必要だろう」
「旦那様のご意思にかかわらず、そもそも間違いを起こせない環境を作るべきです」
「……あんたら、アーロンになにを言われた?」
アーロンの仕事が終わるやいなや、今度はオーサが動いた。
「私は昨日、この目でじかに旦那様の状態を確かめてきました」
オーサはサシャが飼っていた雄犬ヴォルデガルフの話を聞かせた。
それはもう、かの犬の姑息な性格まで丹念に。
「私とサシャは――マヤさんも公式には認めませんでしたが見立ては一致しています。
旦那様は現時点すでに理性の薄皮一枚といった状態なのに、奥様はまったくお気づきではない。それを『信じてみよう』など、正気の沙汰ではありません」
「そ、そうなのかい……」
そのあと色々と揉みはしたが、最終的にアーロンとオーサの主張は認められることになった。
こうしてイェルド包囲網は確実に狭められていったのだった。




