第九話「素人、首を賭ける」
半士分になってふた月。
松平の勢が三河の奥へ攻め上がった。今川に寝返った国衆を、ひとつずつ潰していく。
俺の下には相変わらず三人。声のでかい市松、無口な弥市、まだ声変わりもせぬ寅吉。たいした数じゃない。それでも、俺が動けと言えば、ちゃんと動く。俺を入れて、四人。
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その日、勢は日暮れ前に止まった。
前は低い峠。両側を黒い杉山が挟んでいる。日が落ちかけて、空だけが血のような赤に染まり、山のなかは、もう夜の色だった。
進めば、あの闇へ、頭から突っ込むことになる。
誰かが言った。
「殿が、お渡りをためらっておられる」
殿。松平の若い当主。俺はまだ顔も知らない。
陣はざわついていた。峠の杉山に、伏せがあるやもしれぬ。だが物見は、何も見なかったと言う。あるとも、ないとも知れぬ——決め手がない。
その迷いに、縁起が重なった。烏が朝から鳴いている、悪い兆しだと、二の足を踏んだまま動かない。
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権蔵が走ってきた。
「新兵衛。お前を、前へ呼んどる」
なぜ俺を、と訊く間もなかった。
思い当たることは、ひとつしかなかった。鳥で伏兵を言い当てた、あの一件。尾ひれのついた話が、こんなところまで転がってきたのか。
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篝火のそばに、若い男がいた。
歳は俺とそう変わらない。十八、九というところか。良い具足を着ているが、肩が妙に強張っている。
落ち着かない男だった。何かをしきりに噛んでいる。薬草か。苦そうな顔で、噛んでは吐く。指の爪も、深く噛みすぎてささくれている。そうしながら幾度も、暗い峠へ目をやる。
脇に控えた老臣が、低く何か言上している。男は、聞いているのか、いないのか。生返事を返すだけだ。
老臣まで付き従えている。相当の侍だ。物頭か、その上の侍大将か。殿のそばに仕える、名のある侍にちがいない。
その目が、ふいに俺へ向いた。上から下まで、品定めするように。
「お前が、鳥を読むという男か」
声が若い。だが、尖っていた。
「読む、というほどでは。見えたものを言うだけです」
「峠だ」男は顎で前を示した。「あの杉山に、伏せはおるか」
俺は暗い山を見た。
梢が風で揺れている。鳥は寝ぐらに帰って騒いでいない。山際の草も倒れていない。
隠れているなら、こうはならない。
「……おりません。少なくとも、人が伏せる数では」
「なぜ、そう言い切れる」
男が、一歩、詰め寄った。
「鳥が、騒いでおりません」
「鳥だけで、分かるのか」
「鳥だけでは、ありません」俺は峠の下、麓のほうへ目をやった。
「来がけに、ふもとの村を抜けました。家から煙が立って、女が井戸で水を汲んでおりました。あの山に兵が伏せておれば、村の者は逃げるか、荷運びに駆り出されているはず。あんなに静かに、水は汲めません」
男は、すぐには返事をしなかった。
俺ではなく、峠を見ている。だが、視線の端だけが、まだ、こちらに残っていた。
「……もし」低い声だった。
「もし、伏せがおったら。お前の言葉を信じて渡って、横から食らったら、どうする」
一瞬、声が出なかった。
心の臓が跳ねた。詰め寄った男の目が、まっすぐ俺を捉えている。篝火の向こうの侍も、老臣も、息を止めてこちらを見ていた。さっきまで遠かった話が、急に、俺ひとりに降りてきた。
みぞおちが、固く縮む。
逃げ道を探す癖が、頭をもたげる。「見えたままを申しただけです」——そう言って、あとはお偉方の決めること、と退けばいい。いつもの俺なら、そうやって身を縮めてやり過ごしてきた。
だが、今度はそれが通らない気がした。考えるより先に、足の裏が冷えて、体が固まりかける。
固まるな。胸の内で、自分を押さえつけた。
強張った頭で、それでも算盤だけは弾いた。
濁したところで、助かりはしない。曖昧に逃げても、渡って何かあれば、責めはどのみち末端に転がり落ちてくる。後ろ盾のない半士分の首ほど、咎を着せるのに手頃なものはない。逃げても、言い切っても、外せば飛ぶ首は同じだ。
ならば、勝ち目のある賭けは、ひとつしかない。
腹の底から、声を絞り出した。
「……外れていれば、この首が飛びます」
言ってしまうと、震えが、すこし引いた。
「嘘をついて、得することは、何もありません。だから——見えたままを、申し上げました」
胸を張ったわけではない。怖いまま、ただ自分の首を算盤に置いて、勘定しただけだ。それでも、逃げはしなかった。
男が、すこし、目を見開いた。
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「烏が、鳴いた」だが、男はまだこだわった。「朝から、ずっとだ」
烏。
そこで、ようやく見えた。
この男が本当に恐れているのは、峠の伏兵ではない。空から降ってくる、目に見えぬ兆しのほうだ。
思わず、言ってしまった。
「烏は、餌があれば鳴きます。山に、誰かの捨てた兵糧でもあるんでしょう。祟りでも、兆しでも、ありません」
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まわりの侍が息を呑んだ。
誰かが刀の柄に手をかけた。
そこでようやく、空気がおかしいことに気づいた。だが、何を間違えたのかわからない。
若い男の頬が、ひくりと動いた。
怒鳴られる、と思った。
だが、男は怒鳴らなかった。噛んでいた薬草をぺっと吐いて、低く笑った。笑った、というより、息が漏れた。
「……祟りでも、兆しでもない、か」
もう一度、暗い峠を見る。今度は、長く。それから短く言った。
「渡る。先手、出せ」
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勢が動いた。
峠に伏せはなかった。烏の騒いでいた杉の根方に、よその勢が捨てていった腐りかけの糧があった。それだけだ。
夜のうちに、峠を越えた。
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越えてから、権蔵に肩を掴まれた。
「お前、あれが誰だか、わかっとるのか」
わからない、と答えた。
権蔵の顔は青かった。
「殿だ。松平の、お屋形さまだぞ」
……殿。
あの、薬草を噛んでいた男が。
俺は殿に向かって「祟りでも兆しでもない」と言い放ったらしい。
首が飛んでもおかしくなかった、と権蔵は言った。
なのに、殿は刎ねなかった。代わりに、ひとつ訊いたという。
「新兵衛、と答えておいた」権蔵がため息をついた。
「お前、覚えられたぞ。良くも、悪くも」
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覚えられた。
数でしかない雑兵の一人が、三河の主に。
あのとき、品定めするだけだった目が、わずかに見開かれた。初めて、俺という人間を見た目だった。
夜風が、汗の引いた首筋を、冷たく撫でていく。
良くも、悪くも、と権蔵は言った。
覚えられるというのは、良い時にだけ名を呼ばれる、ということではない。
その「悪くも」のほうが、なぜか、長く耳に残った。第九話「素人、首を賭ける」




