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第十話「素人、妙な凪に気づく」

三河に流れ着いて、二度目の冬が来た。


 あの夜、峠を越えてから、季節はいくつも移ろっている。年も改まった。


 三河の冬はひもじい。粥は薄く、塩は乏しい。指の先がいつもかじかんでいる。


---


 戦がぱたりと止んだ。


 西の尾張との境では、ずっと小競り合いが続いていた。それがふいになくなる。物見も出ない。陣触れもかからない。


 妙ななぎだった。


---


 噂が先に来た。


 飯炊き場で、物見の小者が声をひそめる。


 「松平が……尾張の織田と、手を結ぶらしい」


 誰もすぐには信じなかった。


 西の敵だ。ついこの間まで境で殺し合っていた相手。それと手を結ぶなど、筋が通らない。


 だが、白髪まじりの古参がぼそりと言った。今川は、もう昔の今川ではない、と。


 大将を桶狭間で失ってから、今川は坂を転げるように衰えているらしい。離れていく国衆を、もう束ねきれぬ。年貢ひとつ、ごねられて通らぬと聞く。東をその今川に塞がれた松平が、西の敵と手を結んで背中の憂いを断つ。そう言われれば、わからなくもない。


 敵の敵は、味方になる。それだけのことだ。


 信じたあとは、みな静かになった。膝の上で手を組み直す者、椀の底をのぞき込む者。昨日まで境で殺し合った相手が明日には味方だと言われて、すぐに頷ける言葉を、誰も持っていなかった。


---


 織田、という名は、なんとなく知っていた。


 尾張を束ねる男の名だ、というくらいは。それ以上は何も知らない。どんな顔で、どんな声の男なのか。俺にとっては、ただの名前でしかない。


 ただ、尾張という国の噂だけは、妙に耳に残った。


 関を通るのに銭を取らぬという。市には誰でも店を出せるという。生まれが百姓でも、働き次第で侍に取り立てられるという。


 三河の常からすれば、法螺ほらにしか聞こえない話だった。


 その国と、明日からは味方。


---


 弥市の村は昔、織田の手の者に焼かれたという。寅吉の父親は、尾張との境の戦で死んだと、いつか聞いた。


 上が決めたことだ。下の者には頷くしかない。


---


 俺はその話を、少し違うふうに聞いていた。


 三河に流れ着いたばかりのころ、物見に「尾張の者か」と槍を向けられた。知っている地の名が、それしかなかったからだ。あのとき尾張という地名は、殺される理由だった。


 二年と経たぬうちに、その尾張が味方になる。


 敵と味方は、地面に引いた線でしかない。線は上の都合で、いくらでも引き直される。


 死んだ者だけが、線の引き直しを知らずにいる。


---


 寅吉が火を睨んで黙っていた。父の、仇の国だ。


 慰める言葉は持っていない。だから別のことを言う。


 「飯を食え。腹がふくれてからでないと、明日のことなんざ考えられん」


 寅吉はしばらくして、湯漬けをすすった。


 文句ひとつ言わない。父を奪った国が明日から味方だと言われて、それでも言われたとおりに椀を口へ運ぶ。


 その素直さが見ていられなかった。


 いっそ憤ってくれたほうが楽だった。怒鳴るなり上に毒づくなりしてくれたら。だが寅吉は理不尽を湯漬けと一緒に飲み下してしまう。飲み下せてしまうのだ。


 いちばん下の、いちばん素直な者ほどこういうものを黙って背負わされる。


 痩せた喉がこくりと動くのを俺はただ見ていた。


 弥市は何も言わない。村を焼かれた男のほうが、かえって静かだった。古い傷は、もう痛まぬのか。痛まぬふりが、うまくなっただけか。


---


 数日して、権蔵に呼ばれた。


 尾張へ使いの勢が出るという。和睦の細々とした取り決めに、荷を運び、先方の陣で返事を待つ役だ。


 その中に、俺の名があった。


 「殿が、お前を覚えておられた」


 権蔵は複雑な顔をする。


 「"あの、首ひとつ賭けて物申した男"、とな。わざわざ名指しよ」


 覚えられている。あの若い殿に。


 権蔵がひとつ息をつき、顎をしゃくった。


 「行ってこい。織田の地を、見てこい」


---


 織田の地。


 二年前は、地の名ひとつ知らずに流れ着いた。今度は、同盟の使いとして踏み入る。


 西の空を見た。


 もし、あの噂がほんとうなら。


 三河では、どれだけ爪を立てて這い上がろうとしても、生まれが足首を掴んで離さなかった。下に生まれた者は、下に居場所が決まっている。槍持ちの子は槍持ち、馬の口取りの子は馬の口取り。親が立っていた場所に、子がそのまま立つ。俺がどれだけ段取りを直してみせても、上が量るのは働きぶりではなかった。どこの生まれで、どんな家か。それきりだ。


 だが、向こうの国は違うという。生まれが、人を縛らない。働いた分だけ、上へ行ける。


 ——俺のような根無しでも、上を目指していいのか。


 考えたとたん、喉の奥が熱くなった。慌てて飲み下す。分不相応だ。あかぎれた手で、何を掴もうというのか——そう自分を笑ってみても、熱は胸の底に小さく残って、消えない。


 それが何なのか、まだ言葉にはできない。だが、気づけば足が西を向いていた。


 戦の止んだ妙な凪の底で、俺の中だけが、かすかに騒ぎはじめている。


 尾張へ。知っているようで、何も知らない土地へ。


 線の、外へ。

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