第十一話「素人、尾張で絡まれる」
尾張は、三河よりもざわついていた。
清洲の城下。人が多い。市が立ち、銭が飛び交い、声が大きい。負けて沈んだ三河の城下とは、何もかも勢いが違った。
城の主は、よほどの変わり者らしい。町の者が「うつけ様が、また妙なことを始めたげな」と笑うのを、通りすがりに聞いた。けなしているふうではない。むしろ、どこか得意げだった。
うつけ。その一語が、妙に引っかかった。なぜなのか、自分でもわからない。
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俺たちは城下の外れの陣で、返事を待たされていた。
松平の使い。ついこの間までの敵だ。和睦が成ったとて、織田の者の目は冷たい。荷運びの俺たちなど、なおさらだった。
水を汲みに出たときだった。
井戸端に、織田の足軽が三、四人たむろしていた。いくさのない昼下がりの、退屈を持て余した顔だ。
俺が釣瓶に手を伸ばすと、そのうちの一人がわざと俺の手桶を蹴った。からん、と乾いた音を立てて転がる。
「三河の田舎者が。井戸を使うな」
水が土にこぼれる。
黙って桶を拾った。三河では、曲がりなりにも下に数人を預かる身まで来た。その手が、いま見ず知らずの足軽の前で、泥にまみれた桶を拾っている。喉元までせり上がるものを、奥歯を噛んで飲み下した。
こういう手合いは、三河でも飽きるほど見た。先頭で吠える男が一人。その後ろで、笑って様子をうかがう二、三人。吠える男は、後ろの目を気にしている。仲間の前で、引けなくなっているだけだ。
ここで言い返せば、男は意地でも引かなくなる。黙っていても、それはそれで、つつく口実になる。どちらに転んでも、長引く。
仕方なく、いちばん波風の立たない言葉を選んだ。
「……すみません。汲ませてください」
だが、男は鼻で笑った。引くつもりは、はなからないらしい。
「ついこの間まで殺し合うとった三河もんが、よくも図々しく顔を出せたな」
一人が、俺の襟を掴んだ。布越しに、指の力がかかる。後ろの連中が、にやにやと寄ってくる。
逃げ場を、目で探した。井戸を背に、退路はない。
ここは織田の地だ。荷運びの足軽ひとり、何かあったところで庇う者はいない。
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そのときだった。
「まあまあまあ」
間延びした声が、割って入った。
小柄な男だった。俺の肩ほどしか背がない。日に焼けて皺が多く、頬がこけて、目ばかりが大きい。猿だ、と思った。本当に、猿に似ていた。
その男が、足軽と俺のあいだにするりと体をねじ込んだ。揉め事に割って入る、という硬さがない。世間話でもしに来た、とでもいうような、ゆるい入り方だった。
まず、襟を掴んだ男の肩を馴れ馴れしく叩く。
「よう。精が出るなあ、お前さん。暇か」
咎めるのではない。からかうように、笑いかけた。掴んだ手の力が、ほんの少しゆるむ。
その隙を、男は逃さなかった。
「やめときゃあ。これでも、和睦のしるしに来た客でな。客に井戸の水も飲ませなんだと、上に知れてみい。叱られるのは、お前さんらだがや」
脅してはいない。案じてやる、という口ぶりだった。お前のためを思って言うのだ、という顔で、相手のいちばん嫌がるもの——上の覚え——を、そっと指の先でつついている。
先頭の男の顔から、勢いが抜けた。引く口実を、与えられたのだ。この男がうるさいから今日は見逃してやる、という顔で、引けるように。
「……ちっ。猿が、出しゃばりやがって」
「おうよ、出しゃばりの猿だ。へへ」
悪態を、笑って受け取る。逆らわない。振り上げた拳の下へ、ふわりと座布団を差し入れるように。
気づくと、足軽たちは井戸から押しのけられていた。誰も殴られず、誰の面子も潰れず。舌打ちひとつ残して、散っていく。
鮮やかなものだった。拳を一度も使わずに、笑いだけで、その場が収まっていた。
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男は俺の手桶を拾って、井戸へ放り込んだ。
「気にすんな。あいつら、退屈しとるだけだで。戦がにゃあと、ああやって弱いもんをつついて、憂さを晴らすんだわ」
くるくるとよく動く男だった。喋りながら、もう水を汲んでいる。
「お前さん、変わった喋りするがや。松平の使いで来たくせして、三河の訛りがにゃあ。生まれはよそだな」
また身構えた。
だが、男はけらけら笑った。
「ええがや、そんなもん。俺なんざ見ての通りの猿づらよ。人のことは言えせんわ」
自分の頬をぴしゃりと叩いて、また笑った。
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その晩、男は俺のところへ飯を持ってきた。頼んでもいないのに。
「客人が冷や飯ってのは、いかんがや」
握り飯と、少しの菜。織田の陣の飯だった。自分の分も横で、すごい勢いで掻き込んでいる。喋りながら食う。食いながら喋る。
俺の素性を、根掘り葉掘り訊いてきた。在所は。親は。歳は。
いつもなら詰まる問いだ。だが、この男には、不思議と正直に言えた。
在所も親もない。流れ着いた三河の陣で、糞桶を担ぐところから始め、下働きから半士分まで、どうにか這い上がった。
男は握り飯を頬張ったまま、うんうん、と頷いた。
「ええなあ、それ」
「は」
「下から這い上がる。ええがや。俺と、おんなじだ」
男は若いころ、針を売り歩いていたという。その前は何をしていたか、自分でも忘れた、と笑った。
「俺の親父はな、半分は百姓で、半分は足軽よ。普段は鍬を握って、戦となりゃ駆り出される。その足軽働きで足を傷めて、田んぼに戻った口だがや。俺はそのまた倅でな。侍からすりゃ、人の数にも入らんわ。それがこうして、織田の陣で飯を食っとる。たいしたもんだろうが」
軽い口ぶりだった。だが、握り飯を干す手がふと止まった。
「……餓鬼のころはな。侍の子に田んぼへ蹴り落とされて、よう笑われた。猿だ、猿だ、とな」
声が、一瞬だけ低くなる。火の色が、その横顔の皺を深く刻んでいた。
笑ってはいた。だが、目の奥だけは笑っていない。あのとき自分を蹴り落とした侍の子は、今ごろどうしているか——その身の上を、損か得かで量るような目だった。乾いて、底が見えない。
それも、瞬きの間のことだった。
次の瞬間には、もう、いつもの猿の顔に戻っている。
「血筋がどうの、家がどうの。そんなもん糞食らえだ。要るのは、頭と、足と、愛嬌だがや」
言って、また、にいっと笑った。歯の抜けた、子供みたいな笑顔で。
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最初は、ただのお調子者だと思っていた。よく喋り、よく笑い、よく食う。中身のない軽い男だと。
だが、違う。
誰が何を恐れているか。どこを押せば人が動くか。さっき井戸端で、この男は瞬きの間にそれを読み、誰の面子も潰さず、笑いひとつで収めてみせた。
俺も、人の機微は読めるほうだと思っていた。あの足軽どもの腰が引けているのも、見えてはいた。だが、見えていただけだ。読んだそばから手を伸ばす度胸も、捌きも、俺にはない。
この男には、それがある。
そして——ふと思った。あの目は、いま、俺のことも読んでいる。
助けてくれた。飯をくれた。素性を訊いて、うんうんと頷いた。その何もかもの裏で、この男は静かに勘定している気がした。こいつは使えるか、使えぬか。荷になるか、駒になるか。
いやな考えだった。すぐに打ち消した。現にこの男は、俺によくしてくれている。裏を勘ぐるほうが、よほど浅ましい。
ただ、ひとつだけ、妙なことがあった。
誰かに値踏みされて、それを温かいと感じたのは、生まれて初めてだった。
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「お前さん、名は」
「新兵衛、です」
「新兵衛。ええ名だ」適当に言って、男は立ち上がった。「俺は、木下藤吉郎」
猿のくせに、木の下とは。そう思ったのが顔に出たらしい。
男は、また、けらけら笑った。
「みんな、猿と呼ぶ。お前も、そう呼べ」
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藤吉郎は、それから毎日、俺のところへ来た。
返事を待つ幾日かのあいだ。織田の陣の歩き方を、銭の使い方を、人への取り入り方を、頼みもしないのに教えていった。
会ったばかりの俺に、なぜ、こんなによくしてくれるのか。
わからなかった。わからないまま、俺はこの男に惹かれていった。
返事は、じきに来るだろう。来れば、俺は三河へ帰る。
帰りたくない、と思った。
妙な話だった。この世界に落ちてから、帰りたい場所など、ひとつもなかった。帰る家など、もとよりない。それが当たり前だと思っていた。
なのに、この笑う男のそばだけは、離れがたい。
どこの誰でもいい、と笑ってくれた男。そのそばで俺は、この世界に落ちて初めて、帰る家にも似た何かを感じていた。




