第十二話「素人、別れを惜しむ」
和睦の取り決めは、思ったより早く済んだ。
荷を解き、書を交わし、頭を下げる。それだけのことに何日もかかった。下の者には、何が決まったのかも知らされない。ただ、帰れと言われた。
三河へ発つのは、明日の朝。
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最後の晩も、藤吉郎は来た。
今度は濁り酒を提げていた。どこで手に入れたのか、訊くだけ野暮だった。
「餞別だで。安いもんだが」
欠けた椀に注いで、押しつけてくる。自分の椀にはなみなみと。
酒が回ると、藤吉郎の口はいっそう止まらなくなった。出世した侍の悪口。城下のうまい飯屋。女の話。下らないことばかりを次から次へと。
俺はほとんど相槌だけ打っていた。それで足りた。
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ふと、藤吉郎の手が止まった。
篝火を見ている。笑っていない顔を、初めて見た。皺の一本一本に、火の色が溜まっている。猿の面の、奥にあるもの。それが、ほんの少しだけ表に出ていた。
「侍ってのはな。俺がどれだけ働いても、まず鼻で笑うんだわ。針売りあがりの猿づらが、とな」
声は低かったが、湿ってはいなかった。恨み言ですらない。道端の石ころを拾い上げて、ほれ、と見せるような。ただ、そこにある事実を並べるだけの言い方だった。
その淡々としたところが、かえってぞくりとした。恨みなら、いつか晴れる。熱くなって、燃えて、やがて消える。だが、藤吉郎のは恨みじゃない。冷たくて、底に据わっている。あいつらの上に立ってもなお、消えはしない何かだ。
「だでな、働く。笑う暇もねえくらい働く。気づいたときにゃ、あいつらの上におる。そうやって、ここまで来た」
「上におったら、それで気は済むんですか」
訊いてしまってから、しまった、と思った。
藤吉郎は、すぐには答えなかった。椀の酒を、ゆっくりと干す。
「……さあな。上にゃ、まだ上がある。そこへ行きゃあ、また、その上が見える」
なんでもないことのように言って、にいっと笑った。さっきの顔は、もうどこにもない。
だが、いまの一言は、耳から離れなかった。この男には、ここで止まる、という線がない。上がある限り、登るのをやめない。やめられないのだ。
「愛嬌はな、新兵衛。武器だが、鎧でもあるんだわ。笑うとりゃあ、誰もこっちの底を覗かん」
その底に、何があるのか。
ほんの一瞬、覗いてみたい気がした。だが、やめた。覗かないほうがいい。体のどこかが、そう告げている。なぜそう思ったのかは、わからない。
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夜が更けた。
藤吉郎がごろりと横になって、天を見た。
「お前さん、三河じゃ手下はおるのか」
「何人か、下におります」
「何人だ」
「三人です」
「ふうん」しばらく黙って、それからぽつりと言った。「三河なんぞに置いとくにゃ、惜しい男よ」
俺は、何も返せなかった。
「気が向いたら、尾張へ来い」藤吉郎は目を閉じたまま続けた。「お前みたいなのと、いっぺん肩を並べて働いてみてえ。うちの上様の下でな」
誘いというより、寝言のような言い方だった。本気とも、戯れともつかない。だが、それでも——その一言は、妙に胸の底へ沈んでいった。
この世界に落ちてから、誰かに「来い」と言われたのは、初めてだった。要らぬ者として、ずっと隅に置かれてきた。その俺に、肩を並べたい、と言う男がいる。
しかも、呼ばれた先は尾張だ。生まれが人を縛らぬ国。三河を発つ前、西の空を見て、胸の奥が勝手に騒いだ——あの晩の熱が、ぶり返してくる。ここでなら、根無しの俺でも登れるのかもしれない。そんな国へ、来い、と誘われている。
ああいう国も、いいのかもしれない。生まれを問わず、腕一本で人を抜く国だ。
だが——三河に置いてきた顔が、浮かんだ。首をかけて俺を請け合った権蔵。何かといえば馬鹿でかい声で笑う市松。突きの手本を、口でなく背中で見せる弥市。握りを真似ては失敗して、それでも俺の後ろをついて回る寅吉。あいつらを残して、自分だけ余所へ移っていく。そんな真似は、できない。
出かかった言葉を飲み込んだ。ぶり返した尾張への熱ごと、奥へ押し戻す。
頷かなかった。頷けなかった。
藤吉郎は催促もしなかった。じきに、寝息が聞こえてきた。
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朝が来た。
発つとき、藤吉郎は見送りに出てこなかった。
代わりに、宿のわきの柿の木の下で、所在なげに立っていた。見送りではない、という顔をして、しっかりそこにいた。
「達者でな」
それだけ言って、手をひらひらと振る。湿った別れは性に合わないらしい。
俺も頭を下げた。気の利いた言葉は、ひとつも出てこなかった。
歩き出して少しして、振り返る。
藤吉郎は、もう柿の木の下にいない。
あっさりしたものだ。そういう男だと、もう知っていた。
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陣を出て、東へ向かう。
来たときと同じ道。同じ足。なのに、来たときの俺とは、どこか違っていた。
この国に、俺と肩を並べたいと言う男がいた。三河なんぞに惜しい、と。世辞か、酔狂か。どちらでもいい。そんなふうに言われたのは、この世界に落ちて初めてだった。
その一言を、ふところに仕舞う。
ただ、それと一緒に、もうひとつ仕舞ったものがある。あの篝火の前で覗いた、底の冷えた何か。温かい手と、その冷たさが、同じひとりの男から出ていた。まだ、うまく割り切れない。
三河には権蔵がいる。俺を待つ三人がいる。帰る場所は、ちゃんとある。
帰る場所と、呼んでくれる場所。その両方を抱えて、三河へ帰る道を歩き出した。




