第十三話「素人、問い詰められる」
三河の陣は、発ったときのままだった。
薄い粥の匂い。湿った藁。聞き慣れた、訛りの濃い声。たった十数日いなかっただけなのに、ずいぶん長く留守にした気がした。
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戻った俺を、三人が迎えた。
市松がまっさきに肩を小突いてくる。「おう、生きとったか。尾張の連中に食われたかと、思うたぞ」
弥市はいつものように、軽く顎を引いただけ。それで十分だった。
寅吉が駆け寄ってきた。
「新兵衛様。お帰りなさいませ」
言って、なぜか槍を構えてみせる。留守のあいだ稽古をしていた、と言いたいらしい。握りは相変わらず、まるで違っていた。
「そこじゃない」
「……あ。また、違うのか」
しょげる寅吉の頭を、市松が小突く。火のまわりが、笑いに包まれた。
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だが、その晩から妙だった。
すれ違う男が、目を逸らす。飯のとき、横がまた空くようになった。半士分に上がったころとは、空き方が違う。あのときは遠慮だった。今度のは、もっと冷たい何か。
弥市が、独り言のように言った。
「お前が戻ってから、妙な風が吹いとる」
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権蔵に呼ばれたのは、翌朝だった。
いつもの無骨な顔が、苦そうに歪んでいた。
「お前が尾張で、織田の者とずいぶん親しくしとった、という話が回っとる」
藤吉郎のことだ、とすぐにわかった。
「飯を、馳走になっただけです」
「それを、そうは取らん者がおる」権蔵は声を落とした。「同盟したとはいえ、つい先頃まで斬り合うとった相手だ。その敵方と酒を酌み交わして、何を喋った、何を売った……。お前は、ここへ来てまだ日が浅い。長く面を突き合わせてきた古参なら、誰もこんな勘ぐりはせん。だが新参は、こういうとき、いちばん疑われる」
使いには、ほかにも三河の者がいた。俺が毎晩、織田の男と飯を食うのを見ていた連中だ。誰かが何気なく口にしたのだろう。
それを、ただの世間話で終わらせない。間者の疑いにまで育てる。そんな真似をする男に、心当たりは一人しかいなかった。
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その日のうちに、俺は物頭の前へ引き出された。
筵の上に座らされる。左右と背後を、侍が固めた。逃げ道はない。上座に、髭の濃い男。探るでも、怒るでもない。その無表情のほうが、よほど息苦しかった。怒っている相手なら、まだ御しようがある。
間者と決まれば、待つのは磔か、斬首だ。この座にいる誰もが、それを知っている。口に出さないだけだ。
「尾張で、織田の何という者と会うた」
体の奥から、あの感覚がせり上がってくる。喉が縮む。舌が上顎に貼りつく。指先から血が引いて、手のひらにだけ、嫌な汗が滲む。肝心なときにかぎって、体が強張る。何度くぐっても、これだけは慣れない。
飲み込め。いま竦めば、それがやましさに見える。ここで呑まれたら、終わりだ。
頭の隅で、必死に損得を並べた。名を隠せば、隠したというそれだけで、疑いは黒くなる。なら——隠さない。むしろ、会った相手がどれほどしがない男かを、見せてやればいい。
「木下藤吉郎、という……下働きあがりの、足軽です」
声が掠れないよう、腹に力を込める。わざと、相手の格を低く言う。間者がわざわざ通じるような大物ではない、と匂わせた。
言いながら、胸の隅がざらりとした。つい先日、初めて俺を対等に扱ってくれた男だ。その藤吉郎を、我が身惜しさに、しがない下働きあがりと値切っている。あの男なら、けらけら笑って許すだろう。それが、よけいに後ろめたい。
「何を話した」
髭の男の声に、抑揚がない。次の一言で斬る、とでもいうような、平らな声だ。背後の侍の気配が、ぴくりと動いた。
ここも、隠さない。隠すほどのことを、ひとつも話していないのだから。
「飯のことと、女のことと……出世した侍の、悪口を」
侍の一人が、鼻を鳴らした。馬鹿にしたのではない。笑いを、こらえそこねた音だ。
その小さな笑いが、ありがたかった。石のように張りつめた座に、ひとすじ、息の抜ける隙間ができる。
だが、髭の男は笑わなかった。隙間は、すぐにまた塞がった。
「松平の陣立ても、兵の数も、話したか」
これが本丸だ。
飯の話も、女の話も、ここへ辿り着くための前置きだった。陣立てと兵の数。それを敵方へ流したか否か——間者かどうかは、この一問だけで決まる。ここを踏み外せば、さっき頭をよぎった磔柱が、絵空事でなくなる。
うなじを、冷たいものが伝い落ちる。唾を飲む音さえ、この静けさでは聞かれてしまいそうだった。
「話せるほど、何も知りません」
できるだけ、静かに言った。慌てれば、それだけで嘘に聞こえる。
「俺は荷を運んだだけの男です。陣のどこに何があるかも、誰がどう動くかも、知らされていない。売ろうにも、売るものがひとつもない」
言い終えて、息を止めた。
髭の男の目が、すっと細くなった。得心したのか、それとも疑いを深めたのか——その一瞬、俺には読めなかった。
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しばらく、誰も口をきかなかった。
火桶の炭が、ぱちりと鳴った。
待つあいだに気づいた。いま俺を助けているのは口のうまさじゃない。俺がどうでもいい人間だってことだ。在所もない。名乗る家もない。売れるほどの中身もない。間者を一人忍ばせるなら、誰だってもっと使える駒を選ぶ。取るに足らない男——茂助がいつも嗤うその軽さが、今日にかぎって盾になっている。
やがて、髭の男が言った。
「そもそも、お前を尾張へやったのは、誰だ」
「……権蔵さんの組から、選ばれました。殿の、お指図で」
その一言で、座の空気が変わった。
殿、と口にして、あの夜の顔が浮かんだ。暗い峠で苦い薬草を噛んでいた、若い侍。伏兵の有無を俺に問い、去り際に名を訊いていった——あの人だ。
俺を間者と呼ぶことは、その殿の目を疑うことになる。名もない足軽を選んで敵地へやった、その判断を。
髭の男は、しばらく俺を見ていた。それから、面倒そうに手を振った。
「行け。次は、軽々しく敵の飯を食うな」
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助かった。
助かったが、背筋はまだ冷えたままだった。
陣へ戻る道で、気づいた。
俺を救ったのは、俺の働きではない。殿が名を覚えていた、それだけだ。
その同じ名で、俺は敵地へやられた。覚えられていたせいで危地に送られ、覚えられていたおかげで、そこから助かった。良くも、悪くも——権蔵がいつか言った両方が、今日、同じ一本の糸から来た。首にかかった、細い糸から。
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陣の隅に、茂助が立っていた。
俺を見ても、何も言ってこない。ただ、あの目でこっちを見ている。睨むでも嗤うでもない。こいつはいつまでもつか、と勘定している目だ。
物頭の疑いなら、まだましだった。面と向かって問われれば、答えようがある。筋を通して返せる。
でも、茂助は問うてこない。何もしてこない。ただ、陰で囁くだけだ。囁きには、こっちが問い返す隙がない。表立って咎めようにも、相手は同じ陣の味方だ。手の出しようがない。
刃を抜いて向かってくる敵より、笑って何もしてこない男のほうが、よっぽど恐ろしい。




