第十四話「素人、夜を駆ける」
茂助は、あれきり、表向きは何もしてこなかった。
すれ違っても口をきかない。ただ、あの量るような目だけが、ときどき背に貼りついた。あの男自身に、人ひとり裁くような力はない。陰で囁きを撒くだけだ。それがいつのまにか人を伝って、俺を物頭の前へ引き出した。何もしてこないことのほうが、かえって落ち着かない。
だが、いつまでも身構えてはいられない。陣の仕事は切れ目なく回ってくる。背中のことは、じきに頭の隅へ追いやられた。
その隙を茂助は見逃さなかった。
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その晩、火のまわりに、寅吉がいなかった。
市松が、握り飯を頬張ったまま、首をかしげた。「さっきまで、おったがな」
弥市が、火を見たまま言った。「水を汲みに行くと、立っていった」
水。こんな時間に。
夜の煮炊きはとうに終わっている。寝る前に一杯汲むだけなら、井戸は陣のすぐ裏だ。わざわざ出歩く必要はじゃない。
なら、誰かに言いつけられたのか。そう思った途端、胸の底がざわついた。
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下働きの若いのを捕まえて、寅吉を見なかったかと訊いた。
若いのは口ごもり、それから、声を落とした。
「茂助さんに……北の見張りまで、水を運べと、言いつけられて」
北の見張り。谷の出口の、いちばん前だ。今川の崩れ残りが、まだうろつく辺りだった。
半士分の俺の下についた者を、茂助が使う筋はない。だが寅吉は、ついこの間まで、飯炊き場で茂助に顎で使われていた。命じられれば、断ることを知らない。
背筋が、冷えた。
「市松、誰でもいい、人をかき集めろ。火を持って、北へ来い」
言い捨てて、俺は駆け出していた。
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月は細い。道は暗い。
それでも、足元の踏みあとで、人の通った筋はたどれた。片側だけ、深く沈んでいる。水桶を、肩に担いだからだ。
寅吉のだ。まちがいない。
道が北へ折れるあたりで、桶が転がっていた。水を吸った土。そのまわりに、争った跡。草が、広くなぎ倒されている。
血の気が、引いた。
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繁みの陰に、寅吉は倒れていた。
腹を抱えて、丸まっている。指の間から、黒いものが、にじみ出ていた。
「新兵衛、様」
声が、細い。笑おうとして、しくじった顔だった。
「水を……運べと、言われて。……ちゃんと、運んだのに」
言葉を、かけてやれなかった。傷に手を当てるだけで精一杯だった。掌が、すぐに生温かく濡れた。
俺が茂助を侮ったせいだ。警戒を緩めている間に、寅吉は危険な場所へ送り出された。じわりと広がる血の熱が、それを突きつけてくる。
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寅吉を背負おうとした。その時、草の向こうで、影が動いた。
ひとつ。ふたつ。落武者だ。寅吉を襲ったあと、その場に潜んで待ち伏せていたらしい。痩せて、飢えた目をしていた。
逃げ場はない。寅吉は動けない。
槍を構え、腰を入れる。相手は二人、腕だけで勝てる数ではない。それは自分がいちばんよく知っている。
だが背を向ければ、寅吉ごと追いつかれて終わる。退けない。
怖い、でもやるしかない。
いまの俺は、桶狭間で踏みつけられていた俺じゃない。あれから技を盗み、体を鍛え直してきた。
——そう言い聞かせても、膝は震える。槍の柄が汗で滑った。
二人いっぺんに来られたら捌けない、それだけはわかった。
左にいる落武者が先に動く、刃をあげ、踏み込んでくる。
来る——
考えるより先に、体がのけぞっていた。空を切った刃が鼻先をかすめる。たたらを踏んで後ろへ流れる。その勢いのまま突き出した穂先が、男のどこかを掠った。腿か。手応えはほとんどない。
それでも男は体勢を崩し、低く吠えた。
その声の陰で、右が消えた。
どこだ。
気配だけが、横へ回る。振り向くより早く——腕に、焼けつく衝撃。刃が、肉を裂いて滑った。
遅れて、痛みが来る。
膝が抜け、地面が傾ぐ。倒れる——倒れたら、寅吉ごと。
後ろざまに、背中が岩へぶつかった。すがるように体を預け、片側が塞がる。狙ってじゃない。それでも、両脇からは来られない。
槍が重い、右腕に力が入らない。穂先がひとりでに下がっていく。柄を左手で握り直す。立て直したとはとても言えない。穂先を前へ向けておく。それだけで精一杯だった。
——そのとき、丘の上を火が越えてきた。
市松の声。揺れる松明がいくつも。
落武者が舌打ちする。身をひるがえした男の腿——さっき掠った傷だ。逃げ遅れた、その脇腹へ突いた。穂先が浅く食い込む。深くまでは入らなかったが、男は低くうめいて、闇へ転がっていった。
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寅吉を背負う。腕の傷がずきりと痛む。だが、かまっていられない。
軽かった。痩せた体がこんなに軽いとは思わなかった。背中で、浅い息が首筋にかかる。
「新兵衛様……」
「喋るな」
「……すんません。重たいのに、おぶってもろうて……」
返事はしなかった。喉の奥がつかえて、声にならなかった。
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寅吉は、一命をとりとめた。
腹の傷は深かったが、刃が急所をわずかに外していた。運が良かった、と陣の薬師は言った。
俺の二の腕も、ついでのように縫われた。傷は浅い。しばらくは槍を握るたびに疼くだろうが、それだけだ。
運。寅吉が助かったのは、ただそれだけだ。刃がたまたま急所を外した。次もそうとは限らない。
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茂助は、しらを切った。
寅吉が勝手に水汲みに出た。自分は知らぬ。命じた声を聞いた者は、誰もいない。下働きの若いのは、青い顔で目を伏せた。茂助が、怖いのだ。
黙っていられず、茂助の前に立った。
「寅吉に、北へ水を運べと言ったな」
茂助は飯をかき込む手を止めない。俺を見上げ、薄く笑った。
「知らんな。あの小僧が勝手に行ったんだろう」
気づくと、胸ぐらを掴んでいた。茂助の襟が拳の中でよれる。それでも男は、目を逸らさない。奥に、こちらをおもしろがる光すら灯した。
「証でもあるのかね。半士分どの」
なかった。何ひとつ。掴んだ手から、力が抜けていく。
まわりの侍が何事かとこちらを見ていた。ここで暴れれば、筋を欠くのは俺のほうだ。命じた声は誰も聞いていない。それがすべてだった。
手を離した。
茂助は襟を直し、また飯に戻った。何ごともなかったように。
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火のそばで、寅吉が浅い息をしていた。
眠っている。汗の浮いた額に、前髪が貼りついている。
いちばん下から登ることばかり、俺は考えてきた。
狙われるのは自分だけだと思っていた。まさか自分ではなく、仲間が傷つけられるとは。下から這い上がることに必死で、半士分に上がった気の緩みもあったのだろう。そこまで頭が回らなかった。
守らなければならないものが、いつのまにか、できていた。登るのは前だけ見ていればいい。だが守るのは、後ろにも気を配りながら登らないといけない。
寅吉の指が、眠りのなかで、握りの形にかすかに動いた。あんなに何度も失敗したのに、まだ覚える気でいる。
その寝顔から、目が離せなかった。




