第十五話「素人、同じ淵をのぞく」
寅吉の傷が塞がるまで、何日もかかった。
熱の引かない夜は市松が水を含ませ、弥市は薬師のもとへ何度も足を運んだ。火のまわりは、いつになく静かだった。
十日ほどして、寅吉がようやく半身を起こした。
起きるなり、痩せた手を槍の握りの形にしてみせる。だが指に力が入らない。形はすぐにくずれた。
「……まだ、しっかりは持てんとです」
しょげる頭を市松が小突く。久しぶりに、火のまわりが和んだ。
俺もつられて笑った。笑いながら、腹はもう決まっていた。
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翌朝、まず探したのは、あの下働きの若いのだった。
寅吉が夜の使いに出された晩、茂助に命じられたと震えていた若い下働きだ。井戸端でひとり、桶を洗っていた。俺を見るなり肩をすぼめる。また茂助の件で責められる、とでも思ったらしい。
「咎めに来たんじゃない」
しゃがんで、目の高さを合わせた。
「今日から茂助の使いはするな。水汲みも夜の使いも、断っていい。断って睨まれたら、俺の名を出せ。あとは引き受ける」
若い下働きは、ぽかんと口を開けた。
「……でも、茂助どのが」
「茂助のことは心配しなくてもいい。今日からお前は弥市につけ。弥市、いいな」
離れて繕い物をしていた弥市が、軽く顎を引く。それで決まりだった。
若い下働きの目が、みるみる潤む。袖で乱暴にこすって、何度も頷いた。
これで、茂助の手駒がひとつ減る。いや——あの若い下働きも、寅吉と同じ被害者だ。駒を奪ったというより、助け出した。そっちのほうが近い。
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その足で、茂助のところへ向かった。
この前は頭に血をのぼらせ、証拠もないのに掴みかかった。あれでは思う壺だ。今度は頭を冷やして。
いつ来るとも知れない次の一手を、待ってはいられない。背を向けたまま生きるのは、もうたくさんだ。
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茂助は薪の山の陰で、ひとり縄をなっていた。
近づくほどに、足が鈍る。引き返せと、体のどこかが言う。それでも止めない。
前に立っても、顔を上げない。手も止めない。
「小僧を抜いたな」先に口を開いたのは、茂助のほうだった。
耳が早い。
「ええ。抜きました」
「俺への当てつけか」
「いいえ。当てつけではない。あんたに使い潰される前に、こっちで引き取った。それだけだ」
縄をなう手が、止まった。
茂助が顔を上げる。下から睨め上げてくる、いつもの目だ。
俺は逸らさない。
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長い沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、また茂助のほうだった。
「……俺はな。十五の歳から、この陣におる」
低い、しわがれた声だった。
「糞も担いだ。死人も片づけた。火の中も、何べんもくぐった。三十年だ」
縄を握る手に、ぎりと力がこもる。
「若えころは思うとったよ。いつか槍を持たせてもらえる、手柄を立てて侍になる、とな。来年こそは、来年こそはと……気づきゃあ、髪が白うなっとった」
宙を睨む目が、暗く乾いている。
「三十年かけて、たどり着いたのが下働きの頭よ。そこへ、どこの馬の骨とも知れん小僧が、二年で俺を飛び越えていく。鳥がどうの、とな」
吐き捨てるように、茂助が言う。
「お前に、何がわかる」
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わからない。
三十年。前の世で過ごした年月に、この世へ落ちてからの年月を足しても、まだ届かない。それを陣の下働きで費やした男の渇きは、本当のところ、俺にはわからない。
だが、ひとつだけ言えることがある。
「寅吉は、まだ十五やそこらだ」
茂助の眉が動く。
「あんたが下で苦しんだ三十年。その同じ場所に、あいつはただ立っていただけだ。あんたに顎で使われ、断ることも知らずに」
茂助の目を見る。
「あいつの腹を裂いて、あんたの三十年が、一日でも報われるのか」
茂助は、答えない。
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最後に、これだけ言った。
「もう、目は逸らさない」
茂助の目を、まっすぐ覗き込む。
「あんたがこれから何をするか、こっちが見ている。次は待たない。何かあれば、こっちから動く」
脅したのではない。もうそう決めて、動きだしている。それだけだ。
茂助はしばらく俺を見ていた。嘲りも、こちらを探る色も、ふっと失せる。
そして、初めてこの男のほうから目を逸らした。
縄を巻き取り、のそりと腰を上げる。すれ違いざま、低く言い残した。
「……いい気になるな。お前も、いつまでも上におれると思うなよ」
薪山の陰から、その背が闇へ消えた。
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戻る道は、足が重かった。
勝った気はしない。
茂助は消えない。陣を出ていったわけでもない。これからもどこかで、俺の背中をうかがっているだろう。いつ足を掬えるかと。棘は抜けない。抜けないまま、背負って歩くしかない。
ただ——ひとつ、ぞっとする考えが浮かぶ。
茂助も、いちばん下から這い上がろうとした男だ。十五でこの陣に入ったころは、きっと寅吉と同じ目をしていた。いつか侍にと願って。だが登りきれなかった。下働きの頭で止まり、あとから来る者の足を掴むようになった。
俺と茂助を分けたものは、何だ。器量か。運か。たまたま、ものの見方をひとつ余分に持って落ちてきた——ただ、それだけのことではないのか。
怖いのは茂助ではない。いつか自分がああならないという保証が、どこにもないことだ。
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火のそばに戻ると、寅吉はまだ眠っている。
市松が、欠けた椀を差し出した。「冷めとるぞ」
受け取って、すすった。薄い粥がいつもより深く沁みる。
その椀を、置こうとした手が止まった。
陣の奥がにわかにざわつきだした。物見がいつになく足しげく行き来する。やがて権蔵が火のそばまで回ってきた。
「上が、きな臭いぞ」声を落とす。「しきりに人を集めて、談合しとるそうだ。近いうちに、でかいのが来る。腹をくくっておけ」
「どこへ、出るんで」市松が半身を起こした。
「まだ言わん。が、村ひとつ取り合うような話じゃなさそうだ」
権蔵の目が、俺で止まった。
「新兵衛。そのときの荷駄は、お前に任せる。人と兵糧の割り振り、いまのうちから頭に入れておけ」
「……承知しました」
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また知らないところで、知らない男たちが、知らない線を引き直しはじめたらしい。
その渦は、じきにこの小さな火のところまで届く。ここで火を囲む何もかもを、ひとつ残らず巻き込んで。
それが、どこまで大きくなるのか。
このときの俺には、まだ、知る由もなかった。




