第十六話「素人、嵐の前に立つ」
寅吉の腹の傷が塞がるころには、野はもう枯れ色だった。
稲はとうに刈り取られ、田は乾いてひび割れている。
歩くのも槍を担ぐのも、もう危なげない。痩せこけた体に、薄く肉が戻りはじめている。
ある夕、その寅吉がまた槍の握りを直していた。柄を握っては離し、首をかしげる。
「新兵衛様。これで、合うとりますか」
「違う」
言いかけて、やめた。
俺は寅吉のとなりに膝をついた。痩せた手を取り、柄の上へ置き直してやる。指を一本ずつ、あるべき場所へ。
「ここだ。親指をここに掛ける。脇を締めて、体のほうへ引け」
寅吉が目を丸くする。直されるのには慣れている。だが、教わるのは初めてだったらしい。
誰に教わったわけでもない握りだ。暗いうちに弥市の背中を盗み見て、何日もかけて体に刻んだ。それを今、初めて人の手に渡している。
その弥市が、横で鼻を鳴らした。
「……様になってきたな」
俺のことか、寅吉のことか。わからない。たぶん、両方だ。
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権蔵が「でかいのが来る」と言ってから、半月あまりが過ぎていた。その触れが、ついに回った。
大きないくさだ、と誰もが言う。村ひとつを奪い合うのとは桁が違う。三河じゅうの勢が駆り出される。しかも今度は、西の織田と手を組んで攻め上がるという。
あの晩、権蔵に任された荷駄の差配。それが、いよいよ俺の役目になる。
市松が、人が変わったように喋りだした。
「新兵衛、聞いたろ。でかいぞ、此度のは」
目がぎらついている。
「こういうときよ。名のねえ足軽が、一廉の者になれるのは。手柄をひとつ立てりゃ、俺たちだって侍になれる。なあ」
俺は曖昧に頷いた。
市松が大きな夢を口にするのは、今に始まったことじゃない。声がでかく、おだてにもすぐ乗る。何度笑われても、懲りずに同じことを言う。だが今夜は、いつもと勝手が違った。冗談めかす軽さが、どこにもない。
「なあ、新兵衛。覚えとるか、桶狭間を」
ふいに、声を落とした。
「あんとき、俺は踏み殺される側だった。味方が坂の上から、芋虫みてえに這う俺を踏んづけて走っていきやがった。顔も覚えとらん。だが、あの草鞋の裏の感触だけは、今でも背中に貼りついとる」
火を睨むように見る。
「あんな思いは二度とごめんだ。二度と、踏まれる側にゃ戻らねえ。俺は上へ行く。侍になって、名を残す。誰の背中も踏みつけにゃせん。踏まれもせん」
火に照らされた横顔が、子供みたいに輝いていた。
まぶしいと思った。それと同じくらい、見ていてどこか危なっかしい。
なぜそう感じたのかは、わからない。深くも考えなかった。俺はただ、夜気にかじかんだ指を揉んだ。
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だが、西へは向かわなかった。
発つはずの前の晩、陣がふいにざわめきだす。
物見が立て続けに駆け込んでくる。だが、西からではない。東から、南から、三河の内側からだ。
「門徒が、蜂起した」
誰かが上ずった声で叫ぶ。
一向宗の寺を束にして、百姓も地侍も得物を取った。年貢を拒み、砦に立てこもり、殿に弓を引いているという。
俺にはすぐ飲み込めない。仏を拝む者たちが、なぜ、いくさを。
権蔵が苦い顔で吐き捨てた。
「西どころじゃねえ。足元から崩れとる」
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そして、もっと悪い報せが続く。
松平の家中が、割れた。
昨日までこちら側にいた侍の幾人かが、信心を取って一揆へ回ったという。主君より、仏を選んだのだ。
本多の家からも、渡辺の槍自慢からも、寝返りが出たという。同じ本多の姓が、敵と味方に分かれたとも聞く。
俺は、その名のどれも知らない。だが、名のある侍が主家を割って出る——それがどれほどのことかは、陣のざわめきだけで分かった。
これまでは、敵と味方がはっきりしていた。旗が違う。陣が違う。誰がどちらにつくか、目で見て分かった。
だが、今度の分かれ目は胸の内にある。外からは見えない。旗を見ても、顔を見ても、どちらにつくかは分からない。
昨日まで同じ釜の飯を食った男が、こちらへ槍を向けてくる。そういういくさが、始まろうとしていた。
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その晩、茂助の姿が陣から消えていた。
誰も騒がない。下働きの一人がどこへ行こうと、この騒ぎだ。気に留める者などいない。
だが、俺は知っている。あの男の生まれた村が、門徒の多い土地だと。そして、この陣にあの男の居場所がどこにもなかったと。
行く先は、訊くまでもない。
茂助が消えても、背中が軽くなった気はしない。むしろ重くなった。ほっとなどできない。残るのは嫌な予感だけだ。あの男はいなくなったんじゃない。敵として、向こう側へ回っただけだ。
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西へ続くと思っていた道は、ふいに途切れた。
代わりに待っていたのは、身内同士の殺し合いだった。
市松だけは、相変わらずだった。「敵が近くなっただけよ。手柄も近くなったってことだ」と、けろりと言ってのける。
俺には、そうは思えない。
市松の言う手柄が、この戦のどこにあるのか。誰を斬っても、誉れにはならない。
勝っても負けても、後に残るのは味方だった顔ばかりだ。
俺たちの小さな火の外で、もっと大きな火が国じゅうを舐めはじめている。
西へ向かうはずだったその足で、俺は身内に槍を向ける戦へ踏み込もうとしていた。




