第十七話「素人、退き場のない敵に挑む」
砦は枯れ田の向こうに、低くわだかまっていた。
寺を取り込み、急ごしらえの柵で囲ってある。中にどれだけの人がいるのかは、わからない。ときおり、柵の奥から声が湧いた。経のようでもあり、鬨のようでもある。ひとしきり続いては、また静まる。
あれが、敵だった。
だが、ただの百姓一揆ではない。あの中に立てこもっているのは、昨日まで松平の禄を食んでいた侍たちだ。寺と門徒、土地の地侍、そして主家を割って出た武士が、束になっている。信心は、その旗印にすぎない。
まだ、信じられなかった。つい先日まで同じ陣で飯を食った男が、今は柵の向こうで槍を構えている。そういう日が、本当に来るとは。
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権蔵の顔が、ずっと苦かった。
「あの中にゃ……俺の在所の連中も、おる」
ぽつりと、それだけ言った。
権蔵の生まれた村も、門徒が多い。幼なじみも、遠い縁者も、いまは砦の向こうにいるのかもしれない。
「上は、容赦するなと言う。逆らう門徒は、根切りにせよ、と」
つまり——皆殺しだ。
権蔵は、それきり黙った。
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法螺が鳴った。
寄せる。
俺の持ち場は、本来うしろのはずだった。荷駄の割り振り。だが、容赦のない総攻めに後方も前もない。矢と兵糧を前へ運ぶうちに、人波に呑まれた。気づけば俺も、槍を手に寄せ手の列にいた。
数百の足が、いっせいに田へ降りていく。水を抜いた田は、それでもまだぬかるんでいた。足を出すたび、泥が足首をくわえて離さない。一歩が、重い。前へ進んでいるのか、沈んでいるのか、わからなくなる。
砦の柵から、矢が来る。
ひゅっ、と耳のわきで何かが裂ける。少し先で、男が声もなく前のめりに倒れる。首のうしろに、矢が生えている。さっきまで、俺のすぐ横で息をしていた男だ。
考える前に、体が低くなる。前を行く者が押し立てた楯の陰に、身を縮めて進む。脈が、耳の奥でうるさく鳴っている。口の中に、土の味が広がる。
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いくさは押し引きで決まる、と権蔵に教わった。
矢を浴びせ、槍ぶすまを突きつける。すると寄せ手のどこかが怯む。足が止まる。列が乱れる。その乱れ際を衝く。崩れた側が逃げ、追う側が勝つ。にらみ合いの長さで勝ち負けはあらかた知れる。権蔵はそう言っていた。
だが、柵の向こうは、にらんでもにらんでも崩れない。
退いた先に行き場がないからだ。あの中にあるのは、自分の村であり、寺であり、家族だ。逃げれば焼かれ、降れば殺される。だから退かない。
率いているのも、戦慣れした侍だった。松平の戦い方を、こちらと同じだけ知っている。どこを衝けば寄せ手が崩れるか、向こうも先に読んでいる。
今までは、相手の怯みにつけ込むことができた。だが、ここにあるのはいくさだ。
これまでと訳が違う。
怯まない敵とこちらを読みきった敵が、ひとつの柵の中で束になっている。つけ込む隙が、どこにもなかった。
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柵に取りついた。
誰かが縄をかけ、何人もで引き倒す。丸太が、めきめきと傾く。倒れた柵を踏み越えた瞬間、向こう側の誰かとぶつかる。
その胸の具足が、こちらと同じ作りだった。それだけが、目に残る。
もう、隊も組もなかった。
敵と味方が、ひとつの塊になって、押し合う。前へ行きたいわけではない。うしろから押されて、行くしかない。胸が、前とうしろから押し潰される。息が、半分も入らない。
誰かの肘が、顔に当たった。鼻の奥が、つんと痺れる。鉄の匂い、汗の匂い、糞の匂い。息を吸うたび、それが喉の奥に絡む。
足の裏に、柔らかいものが来た。
石でも、ぬかるみでもない。踏み込んだ重みが、ぐにゃりと沈む。布の下に、肉がある。骨がある。まだ、温かい。
——人だ。
足をどけようとした。退けない。うしろから押されて、体ごと前へ送られる。否応なく、そこへ体重が乗っていく。
見るな。
下を見れば、足が止まる。足が止まれば、次に踏まれるのは俺だ。歯を食いしばって、その柔らかいものを踏み越える。何かが足の下で、小さく鳴いた気がした。声か、漏れた空気か。確かめる勇気は、出なかった。
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その塊の中から、一人、こちらへ抜け出てきた。
若い男だった。俺と、そう変わらない歳の。鍬を振り上げている。だが、その目は、恐怖で見開かれていた。
こいつも、こわいのだ。
そう気づいたが、もう遅い。鍬が、振り下ろされる。
考える間は、なかった。
体が動いた。いや——動かした。腰を入れて、突く。
穂先が、男の喉の下へ入った。
骨も、何もなかった。やわらかいものが、ぶつりと裂ける。その手応えが、まっすぐ腕に伝わってきた。布を裂くのと、変わらない。
男の動きが、止まった。
目が、俺を見た。恨むでも、驚くでもない。ただ、不思議そうな目だった。なぜ、おれは死ぬのだ、と訊くような。
ずるりと、穂先が抜けた。男が崩れ落ちる。鍬が、ぱさりと泥に落ちた。
手のひらが、男の重みを、まだ覚えていた。
胃の腑が、せり上がった。だが、吐いている暇はない。すぐにまた、人の塊に押し戻される。
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すぐうしろで、怒号がした。
権蔵の組が、崩れていた。
味方のはずの足軽が、数人、敵のほうへ駆けていく。もとから門徒だったのだ。土壇場で主家ではなく、向こうにいる身内を選んだ。
「待て……待たんか!」
権蔵が、追おうとした。引き止めようと、手を伸ばす。その背が、がら空きになった。
横合いから、敵が来た。
「権蔵どのっ」
俺の声は、間に合わなかった。
槍が、権蔵の脇腹を、深く貫いた。
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権蔵が、膝をついた。
駆け寄って、傷を押さえた。両手で、力いっぱい。脇腹の肉がぱっくりと口を開けている。指を当てても、隙間から熱いものがどくどくと押し返してくる。止まらない。
名もない俺を、初めて「人」として見てくれた男だ。
死なせてたまるか。傷口に両手を食い込ませ、ありったけの力を込めた。指を、もっと深く押し当てる。血の出どころを、塞ぐ。塞いでみせる。
押さえても、押さえても、手のひらの下のものがぬるく、薄くなっていく。脈を打つ間が、ひと打ちごとに開いていく。
「……おまん、か」
権蔵が、俺を見た。焦点の合わない目。血の泡が口の端でふくらんで、はじけた。
「わしの在所の田はな。……春になると、蛙が、やかましいんだに」
脈絡のない言葉だ。だが、それがいまどこにあるかはすぐにわかった。逃げれば焼かれ、降れば殺される、あの柵の向こう。権蔵は最期に、そこへ帰ろうとしている。
「権蔵どの、喋るな。血が——」
「ええ。……もう、ええんだ」
血まみれの手が、俺の手首を弱く押さえた。止めるな、と言うように。
「逃げろ、とは……言わん。けどな。……生きろ。おまんは、まだ、なんも始まっとらん」
胸が一度、大きく上下する。吸い込んだ息が半分も入らないのが、押さえた手から伝わってくる。
「……これからだに。おまんが、なに者に、なるかは——」
それきりだった。
手首を押さえていた指が、ずるりと滑る。泥の上に落ちて、動かない。
俺はまだ、傷を押さえていた。もう押し返してこない血を、両手で押さえ続けていた。離したら本当に終わる気がして、手が動かない。
桶狭間で、この手は、この男を繋ぎとめた。あの一度が、俺のすべての始まりだ。なのに二度目の今日、同じ手は、同じ男を、死なせた。
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顔を上げた。
崩れた柵の上に、見覚えのある背中があった。
茂助だった。
こちらを、見ている。睨むでも、嗤うでもない。いつものあの目だ。権蔵の骸も、俺の血まみれの手も、そこに転がる石くれと変わらぬように、ただ、見下ろしていた。
そして、ふいと背を向けた。砦の、向こう側へ。
あの男は、もう、こちら側にはいない。線を越えて、敵になった。
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砦が落ちたのは、日が傾くころだった。
戦が引いたあと、俺は田の畦に膝をついて吐いた。
胃の腑が空になっても、まだえずく。あのやわらかい手応えが、腕から抜けてくれない。喉の下を裂いた、あの感触が。
吐きながら、ぼんやりと思った。俺はいま、人を殺したことに吐いている。権蔵が死んだことに、ではない。
権蔵はついさっき、この手の中で息を引き取った。それなのに、涙の一つも浮かばない。泣きたいのに、泣けない。あの人が死んだということが、まだ本当だとは思えなかった。
吐く俺の背を、市松が黙ってさすっていた。
その目は真っ赤だった。それでも声には、まだ張りがある。
「……権蔵さんの分も、だ。俺たちで、のし上がる。あの人に、いいとこ見せてやろう」
こんな日でさえ、市松の芯は折れていない。権蔵を喪ったというのに。
俺のほうは、空っぽだった。両手に、まだ権蔵の血の温さが残っている。立ち上がる力も、見返してやるという気概も、どこを探しても出てこない。
ただ、隣にいる市松の声だけが、うつむいた俺の肩を辛うじて支えていた。




