第八話「素人、素性を訊かれる」
伏兵を見抜いた話は、思ったより早く広まった。
鳥がどうの、踏み草がどうの。尾ひれがついて戻ってくるころには、俺が斜面の人数まで言い当てたことになっていた。そんなことは言っていない。
だが、組の中での扱いは変わった。
飯のとき、横が空く。古参が訊かれもしないのに槍の握りを直してくれる。
「尾張の小僧」と笑った男まで、ばつの悪い顔で頷いてよこす。
居心地は悪くなかった。
悪くないことが、少し怖かった。
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十日ほどして、権蔵に呼ばれた。
「組頭がお前を上に出すと言うとる」
上。意味がすぐには飲み込めなかった。
「預かりを解く。下働きからも抜く。半士分だ」
半士分。聞いたことのない言葉だった。
俺の顔を見て、権蔵が補った。「侍と、足軽の境い目よ。槍を持つ。人別に名が載る。わずかだが、扶持も出る」
人別。扶持。どちらも、輪郭がぼやけている。半年ここにいても、こういう言葉だけは、いつまでも他人のものだった。
それでも、ひとつだけ、はっきり飲み込めたことがある。
糞の桶から、離れられる。
下働きから、足軽から、半士分へ。三河に流れ着いて、半年だった。
飛び上がるほど嬉しいはずだった。
なのに、最初に浮かんだのは権蔵の顔だった。預かりの俺を請け合って首をかけてくれた男。
「権蔵さんのおかげです」
権蔵は鼻を鳴らした。
「俺は桶狭間で止血してもらった借りを返しただけよ」
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人別に名が載る、その日。
帳面を広げた書役の前に、男たちが列んだ。
順に告げていく。「上和田の、太郎兵衛」「同じく、弥八が子、五助」。在所と親の名。みな、どこの誰の子かすらすらと言える。
俺の番が来た。
「名は」
「新兵衛です」
「在所は。親の名は」
筆が止まって、待っている。
言葉が出なかった。
在所を、親の名を——本当は持っていた。前の世界に、ちゃんとあった。名も、親も、生まれた町も。
だが、その何ひとつ、ここでは口にできない。言ったところで、この世のどこにもない地名と、誰も知らぬ親の名だ。正直に答えれば、戯言を並べる男にしかならない。
言える真実が、ひとつもない。
背がじっとり湿った。筆は止まったまま、俺を待っている。
「……尾張の、ほうから」かろうじて、それだけ。
書役が眉を寄せた。「尾張の、どこだ。誰の子だ」
答えられなかった。
まわりがざわついた。在所も知れぬ。親も知れぬ。そんな男が人別に載る。
書役はしばらく筆を宙で止めていた。それから一言記した。
「新兵衛」
ただ、それだけ。在所も知れぬ、誰の子でもない、新兵衛。
帳面の上で、俺はたった三文字だった。
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ほかの男には書ききれないほどの来し方がある。土地があり、親があり、死んだ祖父さんの名まである。
俺には何もない。
ここまで生きてきた証が、どこにも残っていない。
一段、上がった。
上がってはじめて、自分の足元に何もないことがよく見えた。
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半士分になって人がついた。
権蔵が三人ばかり俺の下につけてよこした。
市松は、もちろん。弥市が、なぜか自分から俺の下に来た。「お前の下なら退屈はせんだろ」と、あくびまじりに。あとは飯炊き場で一緒だった若いのが一人。寅吉という。まだ声変わりも済まない、痩せた体つきだ。虎の名のくせに、妙に俺へ懐いていた。
ただ、人を使うのは槍より難しかった。
「右へ寄れ」と言えば、左に三人。古参のような号令は口がまわらない。所作も知らない。
だから、やめた。
一人ずつ名を呼んで手で示した。「市松は右。弥市は俺の後ろ。寅吉は、ここ」。号令でも、なんでもない。だが、それなら間違えずに動く。
市松が笑った。「侍の号令とは、似ても似つかんな」
似ていなくていい。動けばいい。
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茂助とはあれきり口をきいていない。
名を載せた日も遠くから見ていた。預かりが士分の側へ抜けていく。下働きの頭のまま歳を取っていく男の目に、それがどう映ったか。
すれ違いざま、低い声が落ちた。
「……根無し草が。いつまでもつかのう」
返さなかったというよりも。
返せなかった。半分は、図星だったからだ。
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その夜、下についた三人と同じ火を囲んで飯を食った。
市松がしょうもない話で笑わせる。弥市はもう寝ている。
寅吉が、俺の槍の握りを生真面目に真似ようとしていた。
「新兵衛様。握りは、こうですか」
「違う」
「……また、違うのか」
しょげた顔でもう一度、握り直す。声だけは、いっちょまえに真剣だった。
市松が噴き出した。「新兵衛様、だとよ。お前、いつから様になりやがった」
「俺は、なってない」
言うと、寅吉はきょとんとして、それから、また握りを直しはじめた。新兵衛様、と、もう一度。直し方は、まだぜんぶ間違っていた。
帳面に載っても、書けることは何も増えなかった。
だが、この火のまわりにはたしかに俺の居る場所があった。
名もない、四人ばかりの小さな火。
その明かりだけは、たしかに暖かかった。




