第七話「素人、谷で声を上げる」
組の稽古に出て十日が過ぎた。
古参に混じって槍を合わせる。打ち込まれれば、たいてい地に転がされる。それでも棒を抱えて突っ立っていた男とはもう違う。腰から突く一本だけはどうにか形になってきた。
弥市が時々横で鼻を鳴らす。
「まだ硬い」
それが悪くなかった。
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次のいくさの触れが回ったのは、稲の色づくころだった。
今度は運ぶ側ではない。槍を持って出る。
水を運び糞を捨てていた手が、いまは槍を握っている。
茂助がそれを見ていた。
「……預かりが、ご出世なことで」
唾を吐き捨てるような声だった。半月前まで俺を顎ひとつで使っていた男だ。その頭を飛び越えて、下働きあがりが槍を担いでいく。
茂助はそれきり黙った。だが隊が動きだしても、刺さるような目だけがいつまでも背を追ってきた。
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権蔵の組を含む三十ほどで、北の村へ向かった。
今川の崩れ残りが居着いて、稲を奪っているという。追い払う。ただそれだけのいくさのはずだった。
谷あいの道を行く。両側に木の繁った斜面がせり上がっている。日は高い。蝉の声がまだ残っていた。
ふと右手の斜面が気にかかった。
雀ほどの小鳥が繁みから湧いては散る。一度ではない。何度も。湧いて、散って、また湧く。どの枝にも落ち着いて止まらない。
なぜだ。
風はない。鷹の影もない。なら何があの鳥を立たせ続けている。
足を緩めて、斜面の裾に目を落とす。下草が踏み倒されている。まだ青いまま、折れて寝ていた。今朝大勢がそこを通った跡だ。
心の臓が鳴りはじめた。
あの繁みに、人がいる。
こちらが谷の真ん中まで伸びきるのを息を殺して待っている。
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言うべきか、一瞬迷った。
俺はつい先日まで糞を担いでいた預かりあがりだ。口を開けば笑われる。隊列を乱したと、罰されるかもしれない。
だがこのまま谷の奥へ進めば、組は真ん中で伸びきり、横から食われる。目の前で皆が死ぬ。
それを知っていて、黙っていられるか。
——いや。言わなければ。
俺は権蔵の袖を引いた。
「あの斜面を見てください。鳥が湧いては散って、止まらない。何かが繁みに潜んでいます。……人かも。伏兵かもしれないです」
声が上ずった。覚えたての三河訛りを真似ても、急くとそれが剥がれる。どこの言葉でもない平らな喋りに戻ってしまう。
近くの古参が鼻で笑った。
「鳥がどうした。臆病風に吹かれたか、尾張の小僧」
その嘲りに構っている暇はなかった。
だが組頭が足を止めた。
俺と斜面とを見比べる。
「確かな証はあるか」
確かな証はない。
だがしるしなら、ある。鳥が湧き続けている。そして——斜面の下草が朝のうちに大勢の足で踏み倒されている。その二つが揃う理由はひとつしか思いつかない。
あの繁みに、敵が大勢潜んで息を殺している。
言わなければ、組が危険に晒される。それなら笑われようが罰されようが構わなかった。
「証は立ててみせます」腹を決めて、まっすぐ組頭を見た。「弓の者にあの繁みへ射かけさせてください。何もなければ、鳥が驚くだけ。人がいれば——必ず出てきます」
言い終わらぬうちに、組頭が顎をしゃくった。
弓を持った足軽が二人、斜面へ向けて放つ。
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矢が葉を裂いて消える。
一拍。
繁みが、爆ぜた。
怒号。葉と土を巻いて、人が斜面を雪崩れ落ちてくる。十、二十。数えきれない。射かけられ、見つかったと思い込んだのだろう。堪えきれず、飛び出してくる。
だがこちらは谷の真ん中で固まってはいない。
伸びきる、その手前。
間に合った。
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ぶつかった。
今度は足が止まらない。
一人、来る。
でかい男だ。背丈は俺より頭ひとつ高い。泥と汗で光る顔。目を血走らせて、まっすぐ俺だけを見ている。口を大きく開けて、何かを喚いている。だが声は聞こえない。耳の奥で、自分の血の音ばかりが大きく鳴っている。
手には、刃こぼれした槍。それを高く振りかぶっている。
逃げたい。膝から下が、自分のものでないみたいに重い。
それでも槍を構えた。穂先がひとりでに震える。腰を落とせ。体ごと乗れ。弥市に叩き込まれた言葉を、必死でなぞる。
男が、目の前まで来た。
いまだ。
突いた。
穂先が相手の肩口に食い込む。骨に当たって、跳ねる。手のひらの奥までぐしゃりと痺れが走る。命を突いた手応え。吐きそうだ。
だが、刺さった。
そこまでだった。横ざまに肩を打たれ、背中から地に叩きつけられる。息が飛ぶ。空がぐるりと回る。
俺の上に影が落ちてくる。
市松がその影を槍で払った。
「立て、新兵衛っ」
泥を掴んで、身を起こす。膝が笑っていた。
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伏せ勢は半端なところで飛び出していた。
下り斜面の勢いだけで、ばらばらに。構えて待つこちらに順に討たれ、押し返されていく。囲んで叩く、いつもの形に戻っていた。
息が整うより早く、あたりは静まっていた。
谷の真ん中で食らっていれば、こうはいかない。三十のうち半分は死んでいた。
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戦が済むと、権蔵が俺の前に立った。
血と泥にまみれた顔で、しばらく俺を見ている。
「おまん……なんで、分かった」
掠れた声だった。
「鳥です」
それだけ言った。湧いて散る小鳥も踏み倒された下草も、もう繰り返す気にならない。言葉にすれば、たわいもない。誰の目の前にも同じものがあったはずだ。
だが、見ていたのは俺だけだった。
権蔵はすぐには何も言わない。ただ俺を見つめている。
「おまん、何者だ」
答えられなかった。
俺が何者かは知っている。ただ、それを口にしたところでどうなるものでもなかった。
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血の臭いがまだ抜けない。手の震えも。
一人突いて、すぐに転がされて、市松に拾われた。槍を取っての働きは今日も何ひとつなかった。
それでも何かが変わっていた。
権蔵の目が。組頭の目が。「尾張の小僧」と笑った古参の目さえも。
昨日まで俺は誰の目にも映らないよそ者だった。水を運び、糞を捨て、いてもいなくても同じ男だった。
いまは違う。
その俺を、皆が見ている。槍では何ひとつ手柄を立てていない、ただ谷で声を上げただけの男を。
見られるというのは、こんなにも落ち着かないものか。
それでも俺はもう、誰の目にも映らない男ではなくなった。




