第六話「素人、古参の背中を盗む」
初陣から三日。市松の腕には、まだ布が巻かれている。
その朝から、夜明け前に起きることにした。
昼は飯炊きに薪割り、下働きの用が切れ間なく続く。夜は手元も見えない。体を鍛え直せるのは、空が白む前のわずかな間だけだった。
走った。槍を担いで、陣のまわりを。
畦道を一周しただけで息が上がった。あっけないほど早く。膝が震え、草鞋の縁が足の甲を擦り、三日もすると皮が破れて血が滲んだ。一歩ごとに、じんと沁みる。
前の世界で走るといえば、駅までの百歩きりだった。
その柔さの代を、いま、足の裏が払っている。
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だが、走るだけでは足りなかった。
槍の握り方ひとつ、分かっていない。どこを持てば安定するのか。どの角度で突けば力が乗るのか。形を知らずに振れば、ただの棒きれだ。権蔵の言った「突くだけでええ」の、その突くさえ、まともにできない。
教えてくれ、と乞える相手はいなかった。下働きが侍に物を願えば、それだけで分をわきまえぬと打たれる。武芸は、上の者だけのものだった。
ならば、盗む。
見て、盗む。それなら、誰の許しもいらない。
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目をつけたのは、弥市という男だった。
組で一番、槍がうまい。背は低く、肉も薄い。俺と変わらない痩せた体だ。なのに、突きが速い。初陣のあの混乱のなか、瞬きの間に二人を地に伏せていた。
なぜ、あいつだけ速いのか。
知りたかった。
仕事の合間、目で追った。飯を掻き込む手つきから、槍を担ぐ肩のかしぎ方まで。鍛錬らしい鍛錬は、している様子がない。だが槍を構えたとき——握る手が、ほかの連中と違った。穂先のほうへ伸ばさない。柄を体のすぐ脇まで引きつけている。
そこだけが違う。
夜明け前、真似た。
手を脇に引き、そこから突き出す。
——抜けた。
腕で押していたものが、腰から背、肩を通って穂先へ流れていく。体ぜんぶが、一本の棒になる。
まだ、まぐれかもしれない。
だが、さっきまでとは別物だった。
もう一度。もう一度。三十、数えるまで突いた。
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五日目の暗がりで、背後から声がした。
「なんだ、そのぐにゃぐにゃは」
振り返ると、弥市だった。小便に起きたのか、寝ぼけた目で俺の手元を見ている。
「腰が抜けとる。腕だけで突いとるで、重さが乗らん」
言い捨てて、闇へ戻っていった。慰めでも、見下しでもない。見えたものを、口にしただけだ。
腰。
その一言で、また突き方が分からなくなった。腰を入れるとは、どういうことか。摑めるまでに、幾朝もかかった。摑めた朝は、誰にも言わなかった。ただ、突く音が変わった。
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市松が来るようになったのは、十日ばかり過ぎてからだ。
腕の傷は、まだ塞がりきっていない。それでも俺が暗いうちに抜け出すのに気づいて、ある朝、黙ってついてきた。
「一人で、こそこそとよ」
「寝てろ」
「やだね」
地べたに座り、傷の腕を抱えて、俺が槍を振るのを眺めている。口は挟まない。ただ、見ている。
見られていると、手が抜けない。それだけで、背筋が伸びた。
あの戦場で目を逸らした男が、いまは隣で胡座をかいている。
詫びも礼も、もう要らないらしかった。
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二十日あまり経った朝、権蔵に呼び止められた。
「お前、毎朝なにをやっとる」
見られていたか。
「体を、作っています」答えた。「この前、動けなかったので」
権蔵は黙って、「やってみい」と顎をしゃくった。
突いて見せた。盗んで、真似て、幾度もやり直した突きだ。古参に並べれば、まだ無様だろう。だが、初めて槍を渡された日の棒振りとは違う。それだけの覚えは、体に残っていた。
権蔵は、何も言わなかった。
長い間があって、ぽつりと落とした。
「明日から、組の稽古に出ろ」
組の稽古は、一人前と認められた足軽の場だ。下働きの混じる席ではない。
いいのか、と訊こうとした。
権蔵は、もう背を向けていた。
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その夜、弥市のところへ行った。
腰のことを教わった、その礼を言いたかった。何を言いに来たか察したらしく、弥市は手の甲をひらりと振った。
「俺も、人の背中から盗んだくちよ」
それだけ言って、寝返りを打った。
暗がりで、その一言を、しばらく転がした。
誰に授かったわけでもない。見て、盗んで、体に刻む。この国の男も、そうやって強くなってきた。
ずっと、よそ者の頭ひとつで生きてきた。
今朝の突きの音だけは、この土地の男たちと、同じだった。
その夜は、久方ぶりに深く眠った。
もう、暗いうちに一人で抜け出すことはない。
明日からは、組の稽古に出る。




