第三話「素人、三河に流れ着く」
歩いた。ただ、ひたすら、歩いた。
道は使わない。山の際、田の畦、藪の陰。人の通らない方ばかり選んで、東へ。三河へ。
二日。三日。日の数も、曖昧になった。
腹は、とうに鳴らなくなっていた。鳴る力も、ないらしい。
市松が、田の縁で、蛙を捕った。手で、器用に。火は焚けない。煙は、落武者がりを呼ぶ。だから生のまま、皮を剥いで、食った。
俺は、吐きそうになった。前の世界なら、二十四時間、明かりのついた店が、いくらでもあったのに。
吐きそうになりながら、食った。残さず。吐くほうが、もったいない。腹の底が、それでも、少しだけ温かくなった。
権蔵の腿は、悪くなっていた。
縛った布の下が、熱を持って、膿んでいる。本人は、何も言わない。だが背負うと、体が、前より熱い。歩くたび、低く、呻く。
膿んでいる、と頭の中の俺が言う。化膿だ。前の世界なら、薬でどうとでもなった。ここには、何もない。綺麗な布も、消毒するアルコールも。
俺の頭にある知識は、道具がなければ、ただの、役に立たない記憶だった。
あの爺さんのことは、誰も口にしなかった。
ただ、市松が、時々、来た道を振り返った。誰もいない、後ろを。
四日目の朝、権蔵が顔を上げた。
「……境川だ」
川の向こうが三河。権蔵の国だった。声に初めて張りが戻った。
帰れる、と思ったんだと思う。だが——待っていたのは、安堵じゃなかった。
川を渡った先。槍を持った男が、三人。物見だった。
桶狭間で勝った織田の間者を、警戒している。負けて流れてくる、今川方の敗残兵も。
権蔵が名乗った。三河の言葉で、すらすらと。「三河衆、権蔵だ。桶狭間より、戻った」
物見の顔が、緩んだ。「権蔵か。生きとったか」
——通じる。同じ言葉が、こんなにも人を、安心させる。
そして、男の目が、俺に来た。
「……そっちの若いの。見ん顔だ。どこの者だ」
黙っているのも、怪しい。地名を、ひとつでも口にするしかない。
だが、俺がこの世で知っている土地の名は、ひとつきりだった。
「……尾張の、足軽です」
言った瞬間、空気が、凍った。
その尾張が、よりによって織田の国だとは——知らなかった。知っている名が、それしか、なかっただけだ。
男たちの手が、槍に戻った。「間者か。織田の」
訛りのない、間延びした、奇妙な喋り。それが、疑いに油を注いだ。
何を言っても、この口は、俺を“よそ者”だと暴く。俺は、言葉を継げなかった。
権蔵が、間に入った。
「待て。こいつは——桶狭間で、俺の命を救った男だ。落武者狩りの十人を、刃も交えずに出し抜きやがった。喋り方は、確かにおかしい。だが頭は、俺が見た中で、いちばん切れる」
物見が、俺と権蔵を、見比べた。
長い、沈黙。
「……権蔵が言うなら」
預かりだ、と男は言った。権蔵の預かり。何かあれば、権蔵の首も飛ぶ。
俺は、頷くしかなかった。
この世界で、俺はまだ、自分の足では立てない。誰かが「こいつは大丈夫だ」と請け合って、ようやく、立っていられる。
岡崎は、まだ戦の匂いがした。
主を桶狭間で失った松平の城下は、それでも、ざわめいて、動いていた。負けても、暮らしは、止まらない。
俺に与えられたのは、その、いちばん下だった。名もない、よそ者の下働き。飯炊き、薪割り、糞尿の始末。権蔵の組の、最底辺。
桶狭間でも、ここでも、結局、いちばん下からだ。
それでも、あの泥の中とは違った。ここには屋根がある。粥がある。明日が、ある。
市松も残った。
「お前といりゃ、飯にありつける気がすんだよ」と、笑って。
行き場のない足軽が、二人。妙な縁だった。
その夜。薪を割りながら、まわりを見ていた。
飯炊きにも、下働きにも、何年も同じ場所にいる男たちがいた。みんな、いちばん下のまま、歳を取っていく。この世で、下から上がるのが、どれほど難しいか——それが、嫌というほど、わかった。
武もない。家柄もない。俺には、上がる手立てなんて、どこにも見当たらない。
なら、考えることはひとつだ。この世界で、どうやって生きていくか。
いきなり上をなんて望まない。
まずは——今より、ちょっとマシな暮らし。粥がもう一杯。寒くない寝床。それを目指す。
俺は、薪を、もう一本、割った。




