表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第二話「素人、落武者狩りを出し抜く」

雨が上がると、世界が静かになった。

 それが、いやだった。


 雨の間は、誰も動かない。足跡も声も、雨が流してくれる。晴れれば、人が湧く。現代の知識じゃない。ただの勘だ。獲物が隠れられなくなる時間、というやつ。


 くぼみには、五人いた。

 俺。ももを縛った権蔵。湿地までついてきた、三人。

 ひとりは若くて、やたら声がでかい。市松、と名乗った。

 ひとりは年嵩としかさで、さっきからずっと震えている。

 ひとりは無口で、もう半分、死んだ目をしていた。


 権蔵が、潰れた声で言った。

 「岡崎まで、五里ごりはある」

 五里。二十キロ近い。わらも脱げて血のにじむ足で。腿を縛った男を抱えて。

 ……正気か。


 「で、どうする、新兵衛」

 市松が俺を見た。なんで、俺なんだ。さっき名乗っただけの、どこの者とも知れない男に。

 たぶん——湿地で、こいつらは見たんだと思う。みんなが走る方じゃなく、誰も走らない方へ、迷わず行った奴を。

 厄介な信用だ。


 日が落ちるのを待った。昼は動けない。動けば、追っ手に見つかる。

 負けて逃げる兵を、勝った側が追う。捕まれば、殺される。——俺が恐れていたのは、その、敵の追っ手だった。

 この土地で本当に怖いのが、敵でも味方でもない連中だと知るのは、もう少し後のことだ。


 半里も行かないうちに、それを見た。

 道の脇。裸の男が転がっていた。

 具足ぐそくも刀も小袖こそでも、何もない。きれいにがされている。首から上も、なかった。

 年嵩の男が、小さな声で念仏を唱え始めた。権蔵が吐き捨てる。

 「落武者狩りだ。土の者が、出とる」


 落武者狩り。

 聞いたことのない言葉だった。だが、目の前のしかばねが、その意味を教えてくれた。戦に負けて逃げる兵を、土地の百姓や地侍じざむらいが狩る。具足は売れる。刀も売れる。首は、勝った方に差し出せば褒美ほうびになる。——戦の後片付けは、勝者だけのものじゃない。負けた肉を、地べたが食う。


 権蔵が街道を指した。「あれをまっすぐ行きゃ、岡崎だ」

 俺は首を振った。

 「だめだ。そこは、行っちゃいけない」

 全員が、俺を見た。喋りが、また浮いたらしい。市松が眉を寄せる。「……お前、ほんと、変な喋りだな」

 今は、いい。

 「考えてくれ。負けた兵は、どこを通る? いちばん楽な道だ。街道。だったら——ヤツらは、どこで待つ?」

 市松の顔が強張こわばった。

 「……街道で、待ってる」

 「そういうことだ」

 楽な道は、罠になる。みんなが通る場所で、みんなが待たれている。

 「あぜを行く。田とやぶきわを。遠回りでも、人の通らない方を」


 夜の田は、地獄だった。

 月のない夜で、足元は墨だった。畦は細く、何度も踏み外して、ひざまで泥にはまった。腹が鳴る。朝から——いや、生まれ直してから、何も食っていない。権蔵は、市松と代わる代わる背負った。重い。人ひとりが、こんなに重いとは。


 火が見えたのは、夜半だった。

 遠く、点々と。揺れながら、こっちへ来る。松明たいまつ

 ひとつ、ふたつ……数えて、やめた。十は、ある。

 「……来やがった」権蔵がうめいた。

 市松が槍を握り直した。「やるしか、ねえだろ。来るなら——」

 「やめろ」

 俺は市松の腕を掴んだ。我ながら、力の入らない手で。

 「十人だぞ。戦える奴は、お前ひとり。権蔵さんは動けない。俺は棒も振れない。正面でやったら、全滅だ」

 市松が睨んだ。「じゃあ、どうしろってんだ! 逃げきれねえぞ、この足で!」

 ——その通りだった。足では、逃げきれない。

 だったら、足以外で。


 俺は、火を見た。揺れ方も、進み方も——俺には、ただ怖いだけだ。

 「……兵じゃねえな」

 権蔵だった。腿を縛られたまま、目だけが、鋭く火を追っていた。

 「あの足の運び。揃っちゃおらん。落武者狩りだ。畑の百姓と地侍が、銭になる落とし物を拾いに来とる。命を賭ける連中じゃねえ」

 兵じゃない。拾いに来てる。

 ——その一言が、俺の頭の中で、形を変えた。

 戦いに来た者と、拾いに来た者は、動かし方が違う。後者は、欲で動く。なら。

 「だったら、二つ、効く」

 声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。怖いのに。

 「ひとつ。『こいつらは危ない、骨が折れる』と思わせる。ひとつ。『あっちに、もっと楽な儲けがある』と教える。——人は、危ない上に儲からない方へは、来ない」


 権蔵の具足を脱がせた。湿地で拾った、欠けたかぶとも。それを用水路の向こう——火が当たって、よく光る畦の上に並べた。餌だ。

 市松には、声を任せた。こいつの馬鹿でかい声を。闇の中から、いるはずのない部隊の号令を撒く役だ。

 残りは権蔵を担いで、深田ふかたを渡る。胸まで浸かる、冷たい泥水。だが、火を持った連中は、夜の深田には入ってこない。


 「合図したら、思いきり、それっぽく怒鳴れ。右だ左だ、弓だ、と。大勢に聞こえるように」

 市松が、にやりとした。怖がってない。こいつ、こんな時に。

 「得意だ。声だけは、村一番だった」


 火が近づいた。聞き取れないなまりで、誰かがわめいている。

 俺は息を殺した。隣で、年嵩の男の震えが伝わってくる。止まらない震えが。

 ——いやな予感がした。

 手を上げた。合図。

 市松の声が、闇を引き裂いた。

 「右備えっ! 回り込めっ! 弓、構えよぉっ!」

 別の方からも聞こえた。市松が、走りながら位置を変えている。一人を、何人にも聞かせている。たいした奴だ。

 火が、止まった。揺れた。迷っている。

 そして、誰かが餌に気づいた。光る具足に。声が、欲でざわついた。

 ——いける。

 そう思った、その時だった。


 年嵩の男が、走り出した。

 深田の、逆へ。火の方へ。

 「——っ、待て!」

 声を、殺せなかった。男は止まらない。震えが限界を超えて、足が勝手に、明るい方へ。人は、暗闇より火を選ぶ。怖くて怖くて、たまらなくなると。

 計算に、なかった。

 俺は地形を読んだ。敵の欲を読んだ。だが、味方の恐怖は、読めなかった。

 火が、男に集まった。

 竹槍たけやりが、いくつも。

 声は、すぐ止んだ。


 市松が、息を呑むのが分かった。動こうとした。助けに——

 俺はその腕を、全体重で掴んだ。

 「行くな。もう遅い。今動いたら、俺たちも終わる」

 「離せっ!」

 「——あの人の死を、無駄にするな」

 ひどい言葉だと、言いながら思った。利用したのは、俺だ。

 火は、男と餌に群がっていた。今しか、ない。

 俺たちは深田に沈んだ。胸まで、冷たい泥に。声を殺して、一歩ずつ。背中で、火が遠ざかっていった。


 夜明け前。

 藪の奥で、倒れるように座り込んだ。逃げ延びたのは、四人。ひとり、足りなかった。

 誰も喋らなかった。あの声のでかい市松さえ、ずっと黙っていた。

 やがて、市松が低い声で言った。

 「……お前、すげえよ。十人を、刃も交えずに出し抜いた。——けどよ」

 濡れた目が、俺を見た。

 「あの爺さんの名、お前、知ってたか」

 知らなかった。

 ずっと隣で、その震えを感じていたのに。名を、聞きそびれたままだった。

 助けられなかった、んじゃない。そもそも俺は、あの男が誰かも、知らない。


 空が、白み始めた。

 岡崎は、まだ遠い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ