第二話「素人、落武者狩りを出し抜く」
雨が上がると、世界が静かになった。
それが、いやだった。
雨の間は、誰も動かない。足跡も声も、雨が流してくれる。晴れれば、人が湧く。現代の知識じゃない。ただの勘だ。獲物が隠れられなくなる時間、というやつ。
窪みには、五人いた。
俺。腿を縛った権蔵。湿地までついてきた、三人。
ひとりは若くて、やたら声がでかい。市松、と名乗った。
ひとりは年嵩で、さっきからずっと震えている。
ひとりは無口で、もう半分、死んだ目をしていた。
権蔵が、潰れた声で言った。
「岡崎まで、五里はある」
五里。二十キロ近い。藁も脱げて血の滲む足で。腿を縛った男を抱えて。
……正気か。
「で、どうする、新兵衛」
市松が俺を見た。なんで、俺なんだ。さっき名乗っただけの、どこの者とも知れない男に。
たぶん——湿地で、こいつらは見たんだと思う。みんなが走る方じゃなく、誰も走らない方へ、迷わず行った奴を。
厄介な信用だ。
日が落ちるのを待った。昼は動けない。動けば、追っ手に見つかる。
負けて逃げる兵を、勝った側が追う。捕まれば、殺される。——俺が恐れていたのは、その、敵の追っ手だった。
この土地で本当に怖いのが、敵でも味方でもない連中だと知るのは、もう少し後のことだ。
半里も行かないうちに、それを見た。
道の脇。裸の男が転がっていた。
具足も刀も小袖も、何もない。きれいに剥がされている。首から上も、なかった。
年嵩の男が、小さな声で念仏を唱え始めた。権蔵が吐き捨てる。
「落武者狩りだ。土の者が、出とる」
落武者狩り。
聞いたことのない言葉だった。だが、目の前の屍が、その意味を教えてくれた。戦に負けて逃げる兵を、土地の百姓や地侍が狩る。具足は売れる。刀も売れる。首は、勝った方に差し出せば褒美になる。——戦の後片付けは、勝者だけのものじゃない。負けた肉を、地べたが食う。
権蔵が街道を指した。「あれをまっすぐ行きゃ、岡崎だ」
俺は首を振った。
「だめだ。そこは、行っちゃいけない」
全員が、俺を見た。喋りが、また浮いたらしい。市松が眉を寄せる。「……お前、ほんと、変な喋りだな」
今は、いい。
「考えてくれ。負けた兵は、どこを通る? いちばん楽な道だ。街道。だったら——ヤツらは、どこで待つ?」
市松の顔が強張った。
「……街道で、待ってる」
「そういうことだ」
楽な道は、罠になる。みんなが通る場所で、みんなが待たれている。
「畦を行く。田と藪の際を。遠回りでも、人の通らない方を」
夜の田は、地獄だった。
月のない夜で、足元は墨だった。畦は細く、何度も踏み外して、膝まで泥にはまった。腹が鳴る。朝から——いや、生まれ直してから、何も食っていない。権蔵は、市松と代わる代わる背負った。重い。人ひとりが、こんなに重いとは。
火が見えたのは、夜半だった。
遠く、点々と。揺れながら、こっちへ来る。松明。
ひとつ、ふたつ……数えて、やめた。十は、ある。
「……来やがった」権蔵が呻いた。
市松が槍を握り直した。「やるしか、ねえだろ。来るなら——」
「やめろ」
俺は市松の腕を掴んだ。我ながら、力の入らない手で。
「十人だぞ。戦える奴は、お前ひとり。権蔵さんは動けない。俺は棒も振れない。正面でやったら、全滅だ」
市松が睨んだ。「じゃあ、どうしろってんだ! 逃げきれねえぞ、この足で!」
——その通りだった。足では、逃げきれない。
だったら、足以外で。
俺は、火を見た。揺れ方も、進み方も——俺には、ただ怖いだけだ。
「……兵じゃねえな」
権蔵だった。腿を縛られたまま、目だけが、鋭く火を追っていた。
「あの足の運び。揃っちゃおらん。落武者狩りだ。畑の百姓と地侍が、銭になる落とし物を拾いに来とる。命を賭ける連中じゃねえ」
兵じゃない。拾いに来てる。
——その一言が、俺の頭の中で、形を変えた。
戦いに来た者と、拾いに来た者は、動かし方が違う。後者は、欲で動く。なら。
「だったら、二つ、効く」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。怖いのに。
「ひとつ。『こいつらは危ない、骨が折れる』と思わせる。ひとつ。『あっちに、もっと楽な儲けがある』と教える。——人は、危ない上に儲からない方へは、来ない」
権蔵の具足を脱がせた。湿地で拾った、欠けた兜も。それを用水路の向こう——火が当たって、よく光る畦の上に並べた。餌だ。
市松には、声を任せた。こいつの馬鹿でかい声を。闇の中から、いるはずのない部隊の号令を撒く役だ。
残りは権蔵を担いで、深田を渡る。胸まで浸かる、冷たい泥水。だが、火を持った連中は、夜の深田には入ってこない。
「合図したら、思いきり、それっぽく怒鳴れ。右だ左だ、弓だ、と。大勢に聞こえるように」
市松が、にやりとした。怖がってない。こいつ、こんな時に。
「得意だ。声だけは、村一番だった」
火が近づいた。聞き取れない訛りで、誰かが喚いている。
俺は息を殺した。隣で、年嵩の男の震えが伝わってくる。止まらない震えが。
——いやな予感がした。
手を上げた。合図。
市松の声が、闇を引き裂いた。
「右備えっ! 回り込めっ! 弓、構えよぉっ!」
別の方からも聞こえた。市松が、走りながら位置を変えている。一人を、何人にも聞かせている。たいした奴だ。
火が、止まった。揺れた。迷っている。
そして、誰かが餌に気づいた。光る具足に。声が、欲でざわついた。
——いける。
そう思った、その時だった。
年嵩の男が、走り出した。
深田の、逆へ。火の方へ。
「——っ、待て!」
声を、殺せなかった。男は止まらない。震えが限界を超えて、足が勝手に、明るい方へ。人は、暗闇より火を選ぶ。怖くて怖くて、たまらなくなると。
計算に、なかった。
俺は地形を読んだ。敵の欲を読んだ。だが、味方の恐怖は、読めなかった。
火が、男に集まった。
竹槍が、いくつも。
声は、すぐ止んだ。
市松が、息を呑むのが分かった。動こうとした。助けに——
俺はその腕を、全体重で掴んだ。
「行くな。もう遅い。今動いたら、俺たちも終わる」
「離せっ!」
「——あの人の死を、無駄にするな」
ひどい言葉だと、言いながら思った。利用したのは、俺だ。
火は、男と餌に群がっていた。今しか、ない。
俺たちは深田に沈んだ。胸まで、冷たい泥に。声を殺して、一歩ずつ。背中で、火が遠ざかっていった。
夜明け前。
藪の奥で、倒れるように座り込んだ。逃げ延びたのは、四人。ひとり、足りなかった。
誰も喋らなかった。あの声のでかい市松さえ、ずっと黙っていた。
やがて、市松が低い声で言った。
「……お前、すげえよ。十人を、刃も交えずに出し抜いた。——けどよ」
濡れた目が、俺を見た。
「あの爺さんの名、お前、知ってたか」
知らなかった。
ずっと隣で、その震えを感じていたのに。名を、聞きそびれたままだった。
助けられなかった、んじゃない。そもそも俺は、あの男が誰かも、知らない。
空が、白み始めた。
岡崎は、まだ遠い。




