第一話「素人、桶狭間を生き延びる」
歴史を、何ひとつ知らない男が、戦国の戦場のただ中に、名もなき足軽として生まれ落ちる。
どん底から始まる物語です。
どうぞ、最後までお付き合いください。
最初に思ったのは(スマホ、どこだ)だった。
ポケットを探る指が、ポケットを見つけられない。あるのはざらついた麻の布と、腰に巻いた縄。指先が震えてる。いや、全身が震えてる。寒い。
雨だ。横殴りの、痛いほどの雨。
俺はぬかるみの中に立っていた。
両手にやたら重い棒──いや、槍。穂先が雨にぬめって光ってる。足元を見る。藁。足に藁を巻いてる。その藁ごしに、冷たい泥が指の股まで入り込んでくる。気持ち悪い。
(コスプレ……? いや)
匂いが本物だった。濡れた草と、汗と、口臭。その奥にうっすら糞の匂い。何百人ぶんかの。視界をあげると男たちがいた。何百、何千。ずぶ濡れで、ぬかるみにしゃがみ込み、槍にもたれ、雨をやり過ごしている。誰も何も警戒していない。
頭の芯がぐらぐらした。
俺は──大学の二年。バイト帰りの自転車。横から、ヘッドライト。それが最後の記憶だ。
なのに、いま立っている。
いや──立っていられない。
膝が笑った。腕が槍の重さに震える。肩も腰も手足の長さも、何もかもが寸法の合わない借り物だった。重心がつかめない。ぐらりと前に泳いで、慌てて踏ん張る。穂先が隣の男の肩をかすめた。
舌打ちが返ってきた。
俺の体じゃない。この濡れて重たい知らない体を、これから俺が動かさなきゃいけないらしい。
口がひとりでに動いた。
「……寒ぃ」
俺が言葉を選んだわけじゃない。勝手に出た。低くて訛った、知らない男の声で。なのに「寒い」のところだけ、やけに今っぽく浮いて聞こえた。
隣の男が落ちくぼんだ目で、もう一度こっちを見た。今度は長く。
まわりの誰も緊張していなかった。濡れた飯をかき込む奴。槍にもたれて目を閉じる奴。低い声で笑っている奴。戦の張りつめた気配は、どこにもなかった。
俺だけが何もわかっていなかった。ここがどこか。この何千人が何なのか。なんで俺がその中にいるのか。
何ひとつわからない。それでも動けなかった。前にも後ろにも人がいて、その隙間に挟まっているだけだった。
雨の向こう、山のてっぺんが白く煙っていた。さっきまで馬鹿みたいに暑かった。それが急に、墨を流したみたいに空が暗くなって、この雨だ。前のほうで偉そうな声がした。「狼狽えるな、にわか雨よ! 御大将の御前ぞ!」──御大将。誰だよ、それ。どっと笑い声が起きた。なんで笑えるのか、俺にはわからなかった。誰も彼も妙に余裕がある。
俺もつられて息を吐いた。
──そのとき、空が割れた。
雷じゃなかった。
山の斜面の、白い雨の幕を内側から突き破って、何かがこっちへ転がり落ちてきた。馬。旗。喊声。雨をぶち撒けながら、黒い塊が坂をありえない速さで駆け下ってくる。
少ない。こっちのほうがずっと多い。なのに止まらない。止まる気がまるでない。
「て……敵っ! 織田だ! 織田勢──」
声が言い終わらないうちに、列の前のほうがぐにゃりと潰れた。人が宙に飛んだ。馬がぶつかって、槍衾が内側から弾けて。
俺の横で、落ちくぼんだ目の男が嗄れた声で呟いた。
「……うつけが。うつけが、降りてきよるぞ」
うつけ。意味はわからなかった。でもその黒い塊のいちばん先頭。雨と泥を蹴立てて、味方の十倍の中へまっすぐ突っ込んでいく騎馬の影が一つ。
そいつ一人だけが、笑っているように見えた。
俺はその影から目が離せなかった。
どれくらいそうしていたか。たぶん、ほんの十数秒。
後ろから波みたいに声が伝わってきた。近づくにつれ、はっきりした。
「御大将が、」
「今川治部大輔さま、お討ち死に──」
今川。その名前だけが、なぜか耳に引っかかった。授業で聞いた気がする。何かの有名な戦で。……でも、それが何の戦で、その人が何をしたのかは、まるで出てこない。
顔も知らない。名前もうろ覚え。たぶん、すごく偉い人。その人が死んだ。それだけで──世界が崩れた。
それまで「軍」だったものが、一瞬で逃げ惑う獣の群れに変わった。槍を捨て、旗を捨て、仲間を踏んで、みんなが谷の出口へ雪崩を打って走り出す。
俺も走った。考えるより先に足が。柔い足はすぐ攣った。藁が脱げた。泥に何度も突っ伏した。横を馬が駆け抜けて、さっきまで喋ってた誰かが声もなく消えた。
谷の出口。みんながそこへ向かってる。細い、一本道みたいな出口へ。
(……だめだ)
走りながら、頭の冷たいところが勝手に言った。
(あんな細いとこに全員で突っ込んだら──絞られる)
待ち伏せがいたら、一番殺しやすい場所だ。映画でもゲームでも何度も見た。逃げ道が一本しかない群れは狩られる。袋の鼠だ。
俺は足を止めた。止めるのに全身の意志が要った。流れに逆らうのはこわい。でも──右手の低い藪のほう。誰も行かないほう。水の音がする。湿地だ。足は取られる。けど、馬は来れない。
「──そっちは、行くな」
声が出た。誰に言ったわけでもない。でも、すぐ足元で呻き声がした。
倒れた男が一人。腿から血。置いていけば踏み殺される。
考えるより先に動いてた。バイトで酔い潰れた先輩を運んだ、あの感じで。男の腕を自分の首に回して引きずり起こす。落ちてた槍を一本、腿の縄に噛ませてねじる。止血で合ってるかも知らない。でも、何もしないよりは。
「立て。死にたくなかったら、こっち。馬の来ないほう」
男が血の気の引いた顔で俺を見た。それから、しわがれた声で言った。
「……おまん、どこの言葉だ」
(あ)
しまった、と思った。何が「しまった」かもわからないまま。俺の喋りはどうやら、ここの誰とも違うらしい。訛ってもいなくて、それが逆に訛っていた。
答えてる暇はなかった。
俺は男を引きずって、藪へ、湿地へ踏み込んだ。膝まで泥。最悪だ。でも振り返ると、二人、三人──逃げ場を失った男たちが、わけもわからず俺のあとをついてきていた。
たぶん、彼らも見たんだと思う。みんなが走るほうじゃなく、誰も走らないほうへ迷わず行く奴を。混乱の中で一人だけ、叫んでいない奴を。
谷の出口のほうから、悲鳴が束になって上がった。さっき俺が、行くな、と言ったほうから。
雨が小やみになった頃。
湿地を抜けた雑木林の窪みで、俺たちは息をひそめていた。腿を縛った男はまだ生きていた。荒い息で、ずっと俺を見ていた。さっきとは違う目で。
「……小頭だ。三河衆の」と、男は名乗りなのか譫言なのか、そう言った。三河の訛りだった。
それから、
「おまん、名は」
名前。
この体の名は知らない。前の俺の名を言いかけて──なぜか飲み込んだ。それは言っちゃいけない気がした。
代わりに、口をついて出たのは、
「……新」
男が眉を寄せた。「あらた……?」
通じてない。いや、この世界の名前は、こんな響きじゃない。
俺は言い直した。
「……新兵衛。新兵衛、です」
同じ新の字に、それらしい尻尾をつけただけの、出まかせだ。
男は頷いた。「新兵衛か」
誰かに名を訊かれたのは、ここへ来てから初めてだった。たったそれだけのことが、なぜか胸に小さく残った。
窪みの縁から、来たほうをそっと振り返った。
雨に煙る谷の向こうで、さっきまで「軍」だった何千人が、ただの染みになって地面に広がっていた。勝った側も負けた側も、ここからじゃもう見分けがつかない。
なのに。
目の奥から、あの影が消えなかった。坂の上から笑って駆け下りてきた一騎。味方の十倍へまっすぐ突っ込んでいった、たった一人。
うつけ、と誰かが呼んでいた。
……何なんだ、あれは。
わからない。わからないことだらけだ。自分の名前も、ここがどこかも、明日があるのかも。
ただ──寒くて、腹が減って、足がちぎれそうに痛くて。それでも胸の奥のほうが、さっきから変に熱かった。
なんで、だろう。
その熱の名前を、このときの俺はまだ知らなかった。
こまでお読みいただき、ありがとうございました。
新兵衛の戦国は、ここから動きだします。次回もよろしくお願いします。




