第四話「素人、祟りを疑う」
岡崎の城下に転がり込んで、半月。
飯を炊き、薪を割り、糞尿を運ぶ。夜明け前から日暮れまで、その繰り返しだ。預かりでよそ者の下働き。組ではただの下っ端だった。
半月でわかったことがある。
この世界の身分は、空気に似ている。目に見えないのに、どこにでもあって、誰もがそれを吸って生きている。下働きは足軽に頭を下げ、足軽は侍に、侍は上の侍に頭を下げる。俺はその底。誰の前でも頭を下げる側だった。
逆らえば、預かりの俺が消されるだけじゃ済まない。請け合った権蔵の首も飛ぶ。
その陣で、人が死に始めた。
戦でではない。腹を下してだ。
水のような糞を垂れ流し、痩せ細り、動けなくなって死ぬ。下働きから、足軽から、順に。桶狭間を生き延びた男が、こんなつまらないことで。
古参は慣れていた。
「陣場の祟りよ」と誰かが言った。「毎度のことだ。夏場はこうなる」
祟り。誰もなぜとは問わない。昔からそういうものとして、受け入れている。
俺は疑った。祟りなんて、ない。原因が必ずある。
前の世界で習ったわけじゃない。だが知っていた。手を洗わなければ腹を壊すこと。汚れた水が人を殺すこと。煮れば、たいてい防げること。現代なら子供でも知っている、ただの常識だ。
水を見た。みんなが飲み、米を研ぐ水を。
組の水は川から汲んでいた。そのすぐ上手、土手の陰に用を足す場所がある。病人の汚物も、そこへ流していた。
……これだ。糞と水が混じっている。みんな、自分の汚れを飲んでいる。
だが俺は下働きだ。「水を変えろ」と言える立場じゃない。言えば、生意気な預かりと叩かれて終わる。
だから手の届く範囲で、黙ってやった。
市松と二人、組の水甕を一度煮立てた。「腹に効く」と、それらしい嘘をつけて。傷で寝ている権蔵にも、その湯冷ましを飲ませた。汲む場所も、糞の流れる下手から、ずっと上手へこっそり移した。
手を洗え、と市松にもしつこく言った。「いちいち、こまけえ奴だ」と市松は笑った。それでも、やらせた。
十日。
俺と、市松と、権蔵と、煮た水を飲んだ数人。誰も腹を下さなかった。まわりがばたばた倒れていく中で。
権蔵が、横になったまま俺を見た。
「……なんでだ。なんで、お前らだけ腹を下さねえ」
ただ不思議で、そう訊いただけだ。
「水を煮てます」俺は答えた。「権蔵さんに飲ませてるのも、それで。汲む場所も変えました。糞の混じらない、上手から」
権蔵はしばらく黙り、それから低く言った。
「……それを、組頭に言え。俺が口添えしてやる」
半信半疑の組頭の前で、説明した。煮た水を飲んだ者は無事だと。糞と水は分けるべきだと。
横で、古参の下働き頭——茂助という男が鼻を鳴らした。
「預かりの分際で。陣の水を勝手にいじって。祟りを舐めとるのか」
言い返さなかった。言い返せば、こいつの言う通り、生意気な預かりになる。
代わりに、組頭へ言った。
「お試しを。明日から、半分の組だけ水を煮て、汲む場所を変えます。十日後、どちらが倒れているか」
組頭は、試させた。
十日後、答えは出ていた。煮た組はほとんど倒れず、煮ない組は、いつも通り減っていった。
陣の水汲み場が上手へ移され、糞を流す場所は、ずっと下手へ離された。俺が言ったからではない。組頭が決めたこと、として。それでいい。
暮らしも、少しだけ変わった。糞尿の運び役を外され、飯も、硬い焦げではなく真ん中をもらえるようになった。
たったそれだけ。だが——「今よりちょっとマシな暮らし」。確かに、一歩だった。
ただ。
茂助の目つきが変わった。見下していた預かりが、自分の頭ごしに組頭へ届いたのだ。もう、ただの侮りじゃない。憎しみに近い目だった。
組頭も、去り際に俺をちらりと見た。「妙な奴だ」とでも言いたげに。
——下の者に、見つかること。それは引き上げられる芽であり、同時に、目をつけられるということでもある。
頭ひとつ抜けるのは、芽であり、的でもある。
俺はその両方を、いっぺんに、手に入れたらしい。




