第二十六話「素人、教えを乞う」
又左に、いいように転がされた。
一晩寝ても、痣は痛みで在り処を教えてくる。肩、腿、脇腹。あの男の木槍が置いていった数だけだ。これがもし本物の刃だったら、俺は何度も死んでいた。
寝床で、天井へ槍を突く形をつくってみる。何万と繰り返した、いつもの一突きだ。これの全部をぶつけても、あの男の喉には半歩届かなかった。
だから、起き上がった。
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まず向かったのは、又左のところだった。
井戸端で水を浴びていた又左に、頭を下げて「槍を教えてくれ」と頼む。又左はけらけら笑った。
「気は確かか。おれは、手習いの師匠じゃねえぞ」
それでも引かずにいると、又左は濡れた手で俺の腰のあたりをぴしゃりと叩いた。
「腰が高え。足ができてねえんだよ、お前は。そんなナリで間合いだの先だのを教わったって、ざるに水だ」
顎を、しゃくる。
「まずは土台だ。手近に、お前より槍の達者な古参くらい、おるだろう。そいつに足腰から叩き直してもらえ。——それができたら、相手をしてやる。この前の続きだ。今度は、おれをひやりとさせてみろ」
ぐうの音も出なかった。又左の見ている"先"の景色は、いまの俺の足では受け止めきれない。
手近にいる、俺より槍の達者な古参。顔は、ひとつしか浮かばなかった。
弥市だ。そもそも俺の槍は、入りの形からしてあの男の背中から盗んだものだ。勝手に盗んで勝手に磨いて、届くところまでは届いた。なら、この先は。
誰かが槍一本に費やした年月を、分けてもらうしかない。盗むんじゃなく、頭を下げて。
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その足で、弥市のところへ行った。
「弥市。俺に、稽古をつけてくれ」
薪を割る手が止まった。けれど弥市は、振り向きもしない。
「嫌だ」
にべもなかった。
「俺は誰にも教わっちゃいねえ。古参の背中を盗んで盗んで、ここまで来た。槍ってのはな、教わるもんじゃねえ。盗むもんだ」
……教える義理も、貰える筋合いもない。頭ではわかる。
でも、引けなかった。
「見て真似できる分は、もうやり尽くした」
振り上げた斧が、下りてこない。
「その我流も、又左にあっさり底を見られた。足ができてない、土台からやり直せと言われた。——だから、あんたに教わりたい。足腰から、叩き直してくれ」
弥市はこっちを見もしなかった。ただ黙って、また薪に斧を振り下ろす。返事は、なかった。
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翌朝。
俺は稽古場の隅で一人、藁束を突いていた。教われなくても、やることは変わらない。突いて、突いて、突くだけだ。
的は決めてある。藁束を締めている縄の、拳ほどの結び目。そこを狙って突く。掠める。外れる。何百と突いて、まぐれでしか入らない。
腰も直そうとはした。又左に言われたまま落としてみる。これでいいのか深すぎるのか、突いてみても分からない。自分の形ってのは、自分じゃ見えないんだ。
弥市が薪を割りながらこっちを見ているのには、気づいていた。何も言ってこない。俺も、声はかけない。ただ、突く。
次の日も、来た。その次の日も。
朝の稽古場は、まだ息が白い。かじかむ指に息を吹きかけて柄を握り直す。突きつづければ汗が凍えを追い出して、そのころには掌の豆がつぶれている。
弥市の薪割りの音は、いつも背中で聞いていた。近づきも遠ざかりもしない。ただ俺が突きをやめるまで、あの音も止まなかった気がする。
それでも庭先の梅がひとつふたつ、ほころびかけている。冬が、明けようとしていた。
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五日目だったか。六日目だったか。もう数えていなかった。
その朝も腰を探しながら突いていた。深く沈める。腿が震えて、続かない。なら浅く。突いた拍子に上体が泳いで、藁束へつんのめりかけた。
「ああ、もう見てられん!」
薪が転がる音がした。振り返る間もなく弥市がずかずかと歩いてきて、俺の腰を手のひらでばしんと押し下げる。
「高えと思や今度は落としすぎだ。ここだ、ここ。膝じゃなく骨で立て」
そこまで言って、はっと口をつぐんだ。ちっ、と舌打ちがひとつ。弥市は俺の顔も見ずに、転がった薪のところへ戻っていく。
教わったのか、いまのは。……まあいい。言われた高さのまま、突く。——なるほど。穂先の伸びがさっきと違う。
次の日は、握りだった。
「力みすぎだ。卵を握るみてえにしろ。強く握りゃ、穂先は走らねえ」
「……はい」
握りをゆるめる。突く。——柄が手の中で泳いで、穂先があらぬ方へ流れた。
「ゆるめるのと、放すのは違え」
言うだけ言って、弥市はまた薪に向かう。加減は誰も教えてくれない。突いて、外して、握り直して、また突く。一度に全部は直せないから、頭の中で決めた。いまは握りだけを数える。腰はもう、体が覚えはじめている。
その次の日は、足だ。
「足を開きすぎだ。お前は頭でっかちだから、上から物を考える。槍は足で突くんだよ。腰から下でな」
「はい」
柄がふっと軽くなったのは、握りを言われてから三日も経ったころだ。
その朝、穂先が結び目に吸い込まれた。
「……入った」
思わず声が漏れた。次は外れる。その次も外れた。それでも昼までに、もう二度入った。まぐれなら、続かない。
一言が、二言になる。二言が、三言になる。気づけば俺が突くあいだだけ、薪割りの音が止むようになっていた。
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ある朝、寅吉が握り飯を抱えて覗きにきた。薪を割る弥市の横にしゃがんで、しばらくこっちの稽古を眺めている。それから、首をかしげた。
「……なあ。弥市さん、新兵衛様に槍を教えとるのか?」
斧の音が、一拍飛んだ。
「教えとらん」
「でも、いま腰がどうとか、足がどうとか言うとったぞ」
「見てりゃ口が出る。それだけだ」
寅吉が握り飯を頬張りながら、俺と弥市を見比べる。心底ふしぎそうな顔だ。
俺は突きながら、笑いをこらえた。教えとらん、と言い張る割に、弥市の目は俺の足の運びから一度も離れない。
寅吉は握り飯を平らげると、思い出したように言った。
「そういえば新兵衛様。又左さまが、組の者に訊いとったらしいですよ。あの新入りはどうしとる、って」
……まだ、見てくれてるのか。手の中の柄を知らず握り込んでいた。力むな、と習ったばかりなのに。
水を汲みに、その場を離れた。戻りかけた足が、二人の声で止まる。
「なあ弥市さん。ほんとは教えとるんじゃろ」
「…………放っといたら、死ぬだろうが」
薪の割れる音が、また続いた。俺は聞かなかった顔で藁束の前へ戻った。その日の突きは、我ながらよく伸びた。
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その日の暮れ方。腕が上がらなくなって、槍を置いた。
弥市はもう薪を束ね終えて、帰り支度をしている。俺はその背中へ頭を下げた。
「弥市。……ありがとうございました」
手が、止まった。
「礼なんざ、要らねえ」
そっけない声だ。けれど弥市は、束ねた薪を置くと、こっちへ歩いてきた。
「槍を、貸せ」
言われるまま、握っていた木槍を渡す。弥市はそれを無造作に提げた。構えた、という感じすらしない。ただ、立っている。
次の瞬間、弥市の体が沈んだ。腰が落ち、足の裏が地を噛む。穂先が、伸びる。
目が、追いつかない。突き出されたと思ったときにはもう引き戻されていて、ひゅっという風の音だけが遅れて届いた。
藁束は、ほとんど揺れていない。なのに縄の結び目——俺が何日も狙って十に一つしか入らなかったあの一点だけが、ざっくりとえぐれている。
俺の突きとは、音からして違った。同じ木槍だ。さっきまで俺が握っていた、なんの変哲もない木の棒。それが弥市の手の中では、別の得物みたいに伸びて、走る。
……同じ槍なのに。
声も出ない俺に、弥市は槍を返してよこした。
「これが、土台だ。間合いも、先も、この上に立つ」
薪を担いで、背を向ける。そして振り返らずに言った。
「——明日も、来い」
「……はい!」
返事が、ガキみたいに弾んだ。弥市はもう振り返らなかった。それでいい。
一人残った稽古場で、木槍を握り直す。
井戸端で笑っていた又左の顔が、ふいに浮かんだ。今度会うときは、一度だけでいい。あの男をひやりとさせてやる。
だったら、まずはこれだ。
——卵を、割らないように。




