第二十七話「素人、十息を数える」
それから来る日も来る日も、弥市のもとへ通った。
梅はとうに散って、稽古場の隅の桜が気の早い枝からほころびかけている。
教わるのは相変わらず土台ばかりだ。腰。足。握り。弥市の口から出るのは一日に一言あるかないかで、出ても「昨日と同じだ」か「まだ浅え」のどっちかだった。一度だけ間合いのことを訊いてみたら、こっちを見もせずに「十年早え」と返された。それでも通った。直されるところが減っていくのが、自分でもわかったからだ。
けれどある朝、突きを出した拍子にふと気づいた。
穂先が、勝手に伸びていく。手で当てにいったんじゃない。腰が沈んで、足の裏が地を蹴って、その力が柄を伝い、穂先まで素直に抜けた。
——突きが、変わった。
手応えが前とまるで違う。これが弥市の言う土台ってやつなのか。
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その日の昼下がりだった。
稽古場の隅に、見覚えのある伊達男がぶらりと立っていた。
前田又左衛門。わざと着崩した小袖。誰かに用があるふうでもなく、俺が突いては直されるのを面白そうに眺めている。あの日「足腰から叩き直してもらえ」と焚きつけたのを律儀に見にきたのか。それとも、ただの気まぐれか。
ひやりとさせてやる——ひとりで息巻いた、あの相手だ。息がひとつ、深くなった。
「ほう」又左がぶらぶらと近づいてくる。「少しは、足が地についてきたじゃねえか」
俺は突く手を止めて、頭を下げた。
「又左どの。——もう一度、お願いします」
又左が片眉を上げる。言い出したのは自分だ。追い返す気はなさそうだった。
「いいぜ。ちょうど退屈してたところだ」転がっていた木槍をひょいと拾う。「十息だけ、付き合ってやる」
十息。短い。でも、文句を言える立場じゃない。
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一息め。
突いた。又左は、動かない。穂先が届く、その寸前。すい、と半身を引いた。穂先は、むなしく空を切る。
やっぱり当たらない。間合いの底が、まるで見えない。
二息め、三息め。踏み込みを変え高さを変えて突いたが、結果は同じだった。あの体には届く道がそもそもない。そう思えてくる。
でも——転ばなかった。
以前なら、いなされた勢いのまま体が泳いで無様に地を舐めていた。なのに今日は違う。崩れかけた体が、腰でぐっと止まる。足の裏が地を噛んで、踏みとどまる。土を、足の指で掴んでいる。沈めろと言われ続けた腰の上に、体がちゃんと乗っているんだ。
「ほほう」
欠伸でも出そうな顔で穂先をかわしながら、又左が小さく声を漏らした。
四息め、力が入った。肩が上がって、突きが腕だけの突きに戻る。穂先の伸びが、目に見えて死んだ。
——力むな。卵だ。
肩を落とし、握りをゆるめる。次の一本は、またまっすぐ走った。
五息め、六息め。当たらない。当たらないが、崩れない。突いて、外されて、腰で堪えて、また構える。残りの息は減っていくのに、焦りのほうは不思議と薄れていった。やることは変わらないんだ。突いて、立て直す。それだけだ。
ふと気づいた。
薪割りの音が、止んでいる。
七息め。
いなされた体が、崩れずに戻った。戻った分だけ、次の突きが早い。突こうと思うより先に、腰が次を作っている。
「ん?」
又左の半身が、間に合わない——わけじゃないんだろう。でもあの男は初めて、かわす代わりに柄を立てた。
乾いた音が鳴って、俺の穂先が弾かれる。
受けた。あの又左が、避けずに。
八息め。突きが伸びて、又左の柄がまた鳴る。二度目だ。それでも又左の足は、最初の位置から一歩も動いていない。
「おい、見ろ」
稽古場の端で、誰かの手が止まっていた。「……又左さまが、受けとるぞ」
又左の顔から、笑いが消えていた。真顔だ。受けながら、目だけが妙に低いところを見ている。
俺の顔でも、穂先でもない。——足だ。
九息めを吸いかけた、そのとき。
又左の手が、ぴたりと止まった。
「——終えだ」
構えたままの俺を残して、又左は槍を下ろした。
「まだ、二息……」
「もう見えた」
言いながら、又左が俺をのぞき込む。さっきまでの面白がる目つきじゃない。何かを見定めるような、静かな目だ。
沈黙。
目が俺の顔から足へ下りて、また顔へ戻ってくる。
「……誰だ」
「……え?」
「誰に教わった」
「……弥市、です。同じ組の、古参の」
「弥市」又左がその名を口の中で転がした。それから、ふっと笑う。さっきとは別の笑い方だった。
「知らねえ名だ。……だが、なるほどな」
それだけだった。知らない相手の何が「なるほど」なのか、俺にはさっぱりわからない。
又左は槍を投げてよこすと、くるりと背を向けた。そして、肩越しに言い残す。
「次は、十息じゃ済まんぞ」
「……はい」
来たときと同じ足取りで、又左は帰っていった。
稽古場のあちこちから、こっちを窺う視線が刺さっていた。誰だあいつ、と小声が聞こえる。ほんの少し前まで、誰も俺なんか見ていなかったのに。
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薪割りに戻っていた弥市のところへ行った。
「弥市。誰に教わったって訊かれた。あんたの名前を出したら——なるほどな、って笑ってた」
斧が、一瞬止まった。
「……そうか」
弥市はまた薪に向き直る。斧を一度振り下ろしてから、ぼそりと言った。
「ああいう手合いは、人の型を見る」
「型?」
「見てたのは、お前じゃねえ。——お前の槍の向こうにいる、俺だ」
……そういう、ことか。
なんだ、それ。見られてたのは、俺じゃないのか。一瞬、そう思った。
いや、違う。この前までの俺の槍は、型なんて透けようもないただの我流だった。いまは、弥市の型が透ける。それだけのものが、この体に入ったってことだ。
弥市はそれきり何も言わない。でも、薪を割る背中が心なしか得意げに見えた。……心なしか、どころじゃないな。斧の振りが、いつもよりひと回り大きい。
ひやりとさせてやると息巻いて、結局は掠りもしなかった。でも——二度、受けさせた。あの欠伸面に、槍を上げさせたんだ。
俺はもう一度、槍を握り直した。力まず、遊びを残して。
次は、十息じゃ済まん。
——なら、その十一息めで、あの男の足を動かしてやる。




