第二十三話「素人、馴染む国に立つ」
尾張へ来て、ひと月。
藤吉郎の下で俺は半士分の端くれとして働いている。半士分とは名ばかりで、やることは現場の雑務だ。人足の割りを差配し、運び込む木や石を検め、足りない道具を走って都合する。一日じゅう土と汗にまみれている。
ここでは誰も俺を知らない。名もない新参の、そのまた末席。
落ちるところまで落ちて、また一からだ。本当なら惨めなはずだった。
——なのに、不思議と惨めじゃない。
なぜだろう。はじめのうちはそれをうまく言葉にできずにいた。
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ひとつには連れがいたからだ。弥市と寅吉。二人とも付いてきてくれた。
弥市は相変わらずだった。見も知らぬ国へ放り込まれても、眉ひとつ動かさない。黙って働き、黙って飯を食う。夜になると無精髭を撫でて、ふっと笑う。「悪くねえな、ここは」とだけ言う。
寅吉はまだ本調子ではなかった。
腹の傷なんてとっくに塞がっている。槍も前のように握れる。体はもうどこも悪くない。あの日から笑い方をどこかへ置き忘れてきたみたいだった。働く手を休めない。休めば考えてしまうからだろう。あのとき自分が足を滑らせなければ、と。
俺は何度か声をかけようとして、やめた。何を言っても薄っぺらく聞こえる気がしたんだ。
それでも三人で同じ釜の飯を食い、同じ藁で眠っている。考えてみれば、この時代へ放り出されてからずっと俺はどこへ行ってもよそ者だった。尾張がはじめての土地だろうと、いまさら心細くも何ともない。心細さを薄めてくれるのは場所じゃない。隣で寝息を立てている、こいつらだ。失くしたものは大きい。でも手の中に残ったものも、たしかにある。
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惨めでなかった、もうひとつの理由は——この国そのものにあった。
城下の市を初めて歩いたときのことだ。味噌を買いに寅吉を連れて出た。
市はふくれ上がっていた。米、塩、魚、布、鍋、刃物。見たこともない遠国の品が土の上にじかに並ぶ。声と、銭の音と、人いきれ。歩くだけで肩がぶつかる。
ひとりの商人が刀を差した侍を相手に、一歩も引かずに値を争っていた。その値では売れんと笑って、侍の袖を払う。侍のほうが舌打ちして銭を足す。
寅吉がぎょっとして俺の袖を引いた。
「新兵衛様。あれ…」
声がうわずっている。あんな口をきいて無事で済むのかと、本気で案じる顔だった。
俺も同じことを思った。生まれた家がものを言う国なら、商人の首はとうに飛んでいる。
だが——誰も振り向きもしない。
侍は足した銭でものを受け取り、何ごともなく去っていく。商人はもう次の客と笑っている。
ここでは生まれが人を縛らない。
侍だろうと百姓だろうと、市に立てば同じ商い相手だ。刀があるからといって、ただで物が手に入るわけじゃない。ものを言うのは物の値打ちと、それを見抜く目と、引かない度胸——そっちだった。
道の真ん中では、前掛けひとつの小僧が算盤を弾いて釣りを返していた。指の速いことといったらない。あんな子どもが銭の流れのまんなかに、当たり前みたいに座っている。
関所がないのだという。
村と村の境ごとに関を立てて、通るたびに銭を取る。そういう国なら、いくらでもある。関で取られれば荷は痩せるし、手間を嫌って物そのものが動かなくなる。でも尾張は殿がその関を根こそぎ取り払ったらしい。
その話で俺は前にいた世界を思い出した。道という道に料金所が立っていて、進むたびに銭をむしられる。そんな国で物が安く出回るわけがない。逆に、料金所をぜんぶなくせばどうなる。物は安く、速く、どっと流れだす。
たぶんそれと同じことがこの市で起きているんだろう。物が流れ、人が集まり、金が回る。
奇妙な心地だった。
この国の回り方は、どこか現代に似ている。歴史を全く覚えちゃいない俺の頭が、なぜだかこの尾張にだけはすっと馴染んだ。
うつけ、と人は言う。
でも、この賑わいを見ればただの変わり者じゃないことくらい、下から見ている俺にもわかる。城の奥にいる殿は誰より速く、誰より遠くを見ているんだろう。
帰り道、寅吉がぽつりと言った。
「三河とは、まるで違いますなあ」
あっちでは生まれた家でぜんぶが決まった。下の者はどこまで行っても下のまま。それがこの国では、と寅吉は市のほうを振り返る。
「ここなら……俺らみたいなのでも、何かに、なれますかね」
なれる、と俺は答えた。半分は寅吉に。半分は自分に言い聞かせるように。
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藤吉郎の働きぶりは、近くで見るとなお凄かった。
普請場で何十人もの人足を、一人で回している。誰がなまけてどこで人手が足りないか、ぜんぶ頭に入っている。怒鳴らない。笑い、おだて、いつのまにか人を動かしている。
ある日、一人の人足が明らかに力を抜いていた。叱るかと思えば、藤吉郎は近づいて肩に手を置き、何やら耳打ちする。
男の顔がぱっと変わった。それからは誰より働いた。
後で、藤吉郎がにやにやしながら種を明かした。
「あいつにゃ、嬶と、生まれたばかりの餓鬼がおる。だで、銭の話をちらつかせりゃあ、誰より働く。あっちの若いのは、見栄っぱりよ。皆の前で褒めりゃあ、倍動く」
誰が何を欲しがり、どこを押せば動くのか。藤吉郎はそれを息をするように読んでいた。読んで、すぐ使う。ためらいがない。一人ひとりの泣きどころをはじめから掌に乗せているみたいに、迷わず押してくる。
——その手際のよさが、ほんの少しこわかった。
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藤吉郎には弟がいた。
小一郎、という。三つ下の弟だ。兄と似ているのは小柄なところくらいだった。
——あの晩、藤吉郎の隣でひとことも喋らず、黙って俺たちの椀に飯をよそってくれた——あの読めない男だ。
兄が陽なら、弟は陰。兄が前へ出て笑い、人を動かし、大きな絵図を広げる。その後ろで小一郎は黙って算盤を弾き、人足の飯の数を数え、銭の帳尻を合わせている。
兄の派手な働きは、この地味な弟が裏で支えていた。誰もそのことに気づかない。たぶん本人も気づかれたいとは思っていない。
俺が雑務に割り振られた先も小一郎だった。
「兄が引き受けた者は、しまいにわしのところへ回ってくる」帳面から目も上げず、小一郎は言った。「飯を食わせ、寝床を宛がい、働き口を決める。それが、わしの役よ」
淡々としていた。それでいて冷たくはない。
兄の愛嬌が人の心を掴む熱なら。弟の地味は、その熱が空回りしないよう足元を固める、重しだった。
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その普請場で厄介ごとが起きた。
仕事が捗らない。
川べりに土を盛り上げて、堤を築く。土取り場で掘り、もっこで担ぎ上げ、上で突き固める。それだけのことが日に日に遅れていく。盛りは決めた高さの半分も上がらない。
組と組がいがみ合いはじめた。
掘り方の組は言う。運び方が手を抜いとる、と。運び方の組は言い返す。掘り方が要らん場所に土を放るから二度手間になるんだ、と。どっちも汗だくで働いている。なのに盛りは上がらない。だから互いの怠けを探しはじめる。
組頭たちは人足を怒鳴った。急げ、もっと運べ、と。怒鳴られた者はいっそう道へ殺到する。するとよけいに遅れた。
ある昼、掘り方と運び方の若いのがもっこを放り出して掴み合った。止めに入った者まで巻き込んで、現場が一気に殺気立つ。
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俺もはじめは人を見ていた。誰がなまけている、と。
いや——本当は、それが違うことくらい薄々わかっていたんだ。皆が息を切らして働いている。なまけ者なんてどこにもいない。
だったらなぜ遅れる。誰のせいでもないなら、何が現場を詰まらせているのか。そこを突き止めない限り、いくら怒鳴っても山は動かない。
だから人を見るのをやめた。代わりに時を計ることにした。
半日、土手のわきに立ってただ見ていた。荷を負った男が一本きりの細い上り口を登る。空荷の男が同じ道を降りてくる。狭い坂で両方がはち合わせる。そのたびどちらかが脇へよけて、足を止める。前が詰まれば、後ろもつかえる。ぬかるみに足を取られれば、列がまるごと止まる。
俺はその止まっている間を、ひとつずつ数えた。一人がどれだけ担いで、そのうちどれだけをただ待つことに費やしているか。
数えてみて、はっきりした。皆働いていないんじゃない。働く以上に、待っているんだ。順番が来るのを。道が空くのを。
——詰まらせていたのはたった一本きりの、あの坂だった。道が足りていなかったんだ。
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道を分ければいい。それはすぐにわかった。
でも人足をどこに就けるか、坂をどう使うか——現場の割り振りを決めているのは俺じゃない。帳面を握る、小一郎だ。それに自分の目だけでは心もとなかった。本当に道のせいなのか。確かめるには毎日の荷の数がいる。その数を持っているのも小一郎だった。
だから小一郎のところへ行った。
帳面の前に、半日かけて自分で数えた紙を一枚置く。
「運び方は、半分の時を待つのに使ってます。なまけてるわけじゃない。一本道で、つかえてるんです」
一人が一日に運べるはずの数と、本当に運べた数。その差を並べて見せた。
小一郎はしばらく紙を見ていた。やがて自分の帳面を開き、見比べる。算盤に、指がのびた。
「……合うとる」
ぽつりとそれだけ言った。
情でも義理でも、こいつは動かない。でも数が合ってしまえば、放ってはおけない男だった。
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直し方は拍子抜けするほど簡単だった。簡単すぎて、かえって言い出しにくいくらいに。
道を二筋に分ける。片方を登り専用に。もう片方を下り専用に。すれ違いをまるごとなくす。そうすれば、誰もよけて立ち止まらなくていい。
幸い、土手の裏にもとからなだらかな斜面があった。少し均せば、空荷で降りるには十分だ。掘り直す手間もほとんどいらない。
小一郎が割り振りを書き換えた。組頭たちに、たった一言申し渡す。
「明日から、上りはこっち、下りはあっち。守れ」
それで現場が動いた。
俺ひとりでは、土の山はびくともしない。俺の見立てに小一郎の帳面と組頭の手が加わって、はじめて現場が動いた。
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次の朝から、道が流れはじめた。
すれ違いがない。立ち止まる者がいない。荷が途切れずに上がっていく。空荷の者は裏の斜面を、軽い足どりで駆け降りてくる。
盛りが見るまに伸びた。半分も上がらなかった土が、その日のうちに決めた高さへ届く。
いがみ合っていた二つの組はぽかんとしていた。掘り方も運び方も、急に手が空いてしまう。誰のせいでもなかったと飲み込むのに、しばらくかかったようだった。
足りなかったのは、人の性根じゃない。坂が、一本。それだけのことだった。
それまで帳面の数を追っていた小一郎が、ふと顔を上げてちらと俺を見た。何も言わない。だけど、その目が一度だけ俺を留めた。——こいつは、何者だ。そう確かめる目だった。
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藤吉郎も、それを見ていた。
その晩、飯のときだ。にやにやしながら寄ってきて、俺の椀に菜をひとつ放り込んだ。
「お前、堤の件、収めたんだってな」
「……たいしたことでは」
「たいしたことよ」藤吉郎の目が、笑っていた。「掴み合いになりかけとったのを、お前は拳の一つも振らせずに収めた。しかも、仕事まで前へ進めた。誰かを悪者に仕立てて、殴って黙らせるのは、阿呆でもできる。お前のは、そうじゃねえ。そういう頭を、俺はいちばん買うとるんだ」
猿そっくりの顔を、くしゃっとさせて笑う。
「前にも言うたがな、新兵衛。この国じゃあ、生まれは関係ねえ。頭と、足と、愛嬌よ。お前にゃ、頭がある。足も、ようできとる。あとは——」
藤吉郎は城のほうを、顎で示した。
「上の、目に留まるかどうかだ」
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その晩、土と汗の染みた手を握ったり開いたりした。
節くれだって、爪に土の詰まった手だ。でも、この国では——この手の働きがそのまま値打ちになる。
なら、登れる。この国でなら、登れる気がした。
いっぱしの侍になる。その先の景色まで、いつか俺はたどり着けるかもしれない。この尾張の国でなら。
まだ何者でもない。でも、もう流されてはいない。
その手始めが明日もまた現場の土にまみれることだとしても。
上へ続く道は、たぶんこういう土と汗の先にある。いまは、そう思えた。




