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第二十二話「素人、尾張へたどり着く」

尾張は、相変わらずざわついていた。


 清洲きよすの城下。市が立ち、銭が飛び交い、声が大きい。荷車がきしみ、物売りが怒鳴り、誰かが値をまけろと笑っている。前に来たときと、何ひとつ変わらない。


 変わったのは、俺たちだけのようだ。


 あのときは和睦の使いだった。帰る場所も、果たす役目もあった。いまは、そのどれもない。連れは二人きり、ふところも寒い。


 誰も三河で何があったかを知らない。知っても、気に留めない。


 その無関心が、妙にありがたかった。ここでは俺は、ただの薄汚れた流れ者のひとりだ。誰も憐れんでこない。


---


 藤吉郎の居所を探すのに、半日もかからなかった。


 城下で猿の名を出せば、誰もが知っていた。木下藤吉郎。下働きあがりのくせに、近ごろめきめき頭角をあらわしている、と。妙に人好きのする、忙しない小男。


 あの男は、登っていた。


 俺が三河で躓いて転げ落ちているあいだに、こいつは着実に段を上がっていた。ひところは、ほとんど同じ底にいたのに。


 ねたみがない、と言えば嘘になる。胸の奥がちりっとした。でも、それ以上に——いまの俺には、その男を頼るほか道がなかった。


---


 川べりの普請場で、藤吉郎は泥にまみれていた。


 人足にまじって、自分も土を運んでいる。そのくせ、動いているのは手より口のほうだ。あっちを怒鳴り、こっちをおだて、笑いながら何十人もの男をいっぺんに回している。土を掘るのは人足だが、それを掘らせているのが、この小男だった。


 俺に気づくと、藤吉郎は手を止めた。


 しばらく、こちらを見ている。


 俺の垢じみた身なりを。後ろの、痩せた二人を。その目が、何があったかをぜんぶ読み取っていく。


 来るぞ、と身構えた。何があった、なぜこんな姿になった——その問いが。


 いちばん触れられたくないところを、いちばん先に突かれる。三河であったことを、自分の口で語らなければならない。その一言を、俺はまだどこにも出せずにいる。


 「……三河は、ひどかったか」


 訊くというより、確かめるような声だった。


 俺は頷いた。それ以外に、言いようがない。


---


 藤吉郎は、それ以上を訊かなかった。


 手についた泥をぱんぱんと払い、近づいてくる。そして俺の肩を、ぽんと叩いた。


 「腹、減っとるな」


 それだけ、言った。


 慰めも、同情もない。死んだ仲間のことも、失った身分のことも、ひとことも訊かない。ただ、腹が減っているだろう、と。


 覚悟していたものが、ぜんぶ空振りになった。


 憐れまれたら、はね返すつもりだった。根掘り葉掘り訊かれたら、黙り通すつもりだった。身構えていたものが、行き場をなくす。


 その不器用な一言が——なぜか、いちばんこたえた。


 喉の奥が熱くなる。張りつめていた糸がふっと切れて、足から力が抜けそうになる。ここまでよく、倒れずに歩いてきたものだ。気を張っていられたのは、この男に会うまでだった。


---


 飯を食わせてもらった。


 藤吉郎のかたわらに、地味な顔の男がひとりいた。歳は藤吉郎と近い。あれだけ喋り倒す藤吉郎の隣で、この男はひとことも口をきかない。ただ黙って、俺たちの空いた椀に飯を盛り足してくれる。


 藤吉郎が一声かけさえすれば、飯を出し寝床を整えるのは、この男の役らしい。兄貴分が拾ってきた厄介者の世話は、ぜんぶこの無口な男に回ってくるようだった。


 飯をよそうあいだも、その伏せがちな目は一度だけこちらを窺う。何を考えているのか、まるで読めない男だった。


 寅吉が泣きそうな顔で掻き込んでいる。弥市も、黙って椀を空けている。


 藤吉郎は自分の分をすごい勢いで掻き込みながら、ぽつりと言った。


 「うちで、働かんか」


 顔も上げずに。まるで明日の天気でも訊くように。


 「銭はたいして出せんよ。俺もまだ、ええ身分じゃねえでな」


 そこで箸を止め、はじめてこっちを見た。からかう色は、もうない。


 「だがな、糞は担がせん。お前に運ばせてえのは、土でもこえでもねえ。その頭よ」


 「半士分だ。俺の下で、その頭を回せ。——それで、ええか」


 俺は、椀を置いた。


 いつかこの男は、寝言のように言った。気が向いたら来い、と。口先だけの誘いだと思っていた。


 違った。あの男は、ちゃんと覚えていた。一度、目をかけた相手のことを。落ちぶれて転がり込んできた俺へ、当たり前みたいに手を差し出してくる。


 その手が、いまの俺には何よりあたたかかった。


 「……よろしく、頼む」


 声が、掠れた。


 藤吉郎は、にいっと笑った。歯の抜けた、子供みたいな笑顔で。


 「決まりだがや」


---


 こうして、俺は藤吉郎のもとへ身を寄せた。


 空っぽの手で来たわけじゃない。連れがいて、預かった夢がある。


---


 その晩、ひとりで城を見上げた。


 清洲の城。あのやぐらの奥に、うつけと呼ばれる変わり者の殿がいるという。


 うつけ。


 思い浮かべただけで、胸の奥がかすかに疼く。


 桶狭間の朝。坂の上から、味方の十倍の敵へ、笑って駆け下りていったひとつの影。あれを、俺はこの目で見た。いまも、目の裏に焼きついて離れない。


 なぜ疼くのか、自分でもわからない。


 わからないまま、俺はこの国へたどり着いた。また、何もないところからだ。


 だけど、今度はひとりじゃない。背中では、弥市と寅吉が寝息を立てている。


 もう一度、城を見上げた。


 遠い。あの櫓も、その奥にいる男も、気が遠くなるほど遠い。手を伸ばして届く高さじゃない。


 それでも——あの影とは、いつかまたどこかで出くわす。なぜだか、そんな気だけが消えずにある。

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