第二十一話「素人、燃ゆる志を立てる」
戦が、終わった。
朝から鳴りやまなかった攻め太鼓も、法螺の音も、もうない。残ったのは、荷をまとめる男たちのぼそぼそした声と椀の触れ合う音くらいだ。
人は、それぞれの持ち場へ帰っていく。その当たり前の物音のなかで、俺はさっきから、聞こえないはずの声を探していた。
市松の声だ。
「新兵衛、何ぼさっとしてる」と飯の湯気の向こうから飛んでくる、あの調子の高い声。耳が、ひとりでにそれを探してしまう。どこにもいないと、知っているのに。
いや、市松だけじゃない。
「死にたくなけりゃ、まわりをよく見ろ」と、低くぶっきらぼうに叱る権蔵の声も、もうどこにもない。
名もない俺を、初めて『人』として見てくれた男だった。その権蔵と、市松が、つづけて逝った。
帰る持ち場は、俺にはもうない。
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権蔵の組は、消えた。
頭の権蔵が死に、古参の幾人かは門徒として一揆の側へ去り、残りはちりぢりに別の組へ引き取られていく。
俺は、引き取られなかった。
組分けの日、俺は陣の隅に立っていた。侍が帳面を片手に名を呼ぶ。呼ばれた者から、新しい組へ移っていく。
弥市の名が呼ばれた。寅吉も、別の組へ振り分けられた。
俺の名だけが、最後まで呼ばれない。
半士分とはいえ、後ろ盾の権蔵を失った寄る辺のない新参だ。おまけに——尾張で織田の者と親しくし、間者の疑いまでかけられた男。あのとき庇ってくれた権蔵は、もういない。
誰も口には出さない。だが帳面を持つ侍の目を見れば、わかる。
こいつをどこへ入れたものか。引き受ければ、面倒ごとまで一緒に背負うことになる。だから、誰もそんな貧乏くじは引きたくない。
かつて権蔵に拾われたときは、なぜか胸が温かかった。それなのに、ここで俺を突き返す目は、こんなにも冷たい。
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数日して、達しが下りた。
俺の半士分を解く、と。
告げたのは物頭のひとりだった。悪い男ではない。声を荒げるでも嘲るでもなく、ただ言いにくそうに目を伏せた。
「お前に咎があるわけではない。ただ……置く場所が、ないのだ」
それだけのことだった。
罪なら、言い返せる。筋違いなら、筋を通せる。だが「置く場所がない」には、抜く刃も返す言葉もない。
わかりました、と頭を下げた。声は、存外しっかり出た。
糞桶を担ぐところから、ここまで這い上がってきた。下働きを抜け、殿に名まで覚えられ、半士分に手が届いた。たいしたものだと、自分でも思っていた。
それが、ひと続きの戦と、二人の死で、振り出しに戻る。
平気だ。俺はもともと何も持っていなかった男、失うものなどたかが知れている。——そう言い聞かせたそばから、握った拳が勝手に固くなっている。
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弥市と寅吉が、俺のところへ来た。
「お前、これからどうする」弥市がいつもの調子で訊いた。
わからない、と答えた。本当に、わからなかった。
寅吉は俺の半歩後ろで、地面を見ていた。目はまだ腫れている。市松を燃やした晩から、ろくに眠っていないのだろう。
こいつは知っている。自分が堀際で足を滑らせなければ、市松は前へ割って入る必要がなかったことを。庇われたのが自分で、死んだのが市松だったことを。
誰も寅吉を責めない。だからこそ、こいつは自分で自分を責めつづけている。俺にはそれがわかる。掛ける言葉が見つからない、それだけだ。
三河には、もう用がない。市松と権蔵を喪ったこの場所に、これ以上いたくはなかった。
ふと、ひとつの声を思い出した。
——気が向いたら、尾張へ来い。お前みたいなのと、肩を並べて働いてみてえ。
藤吉郎の、声だった。
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「尾張へ、行こうと思う」
口にすると、不思議と迷いはなかった。
あの男のことを、深く知っているわけじゃない。会ったのも、ほんの数えるほどだ。それでも、素性を知らない俺に『来い』と手を振ってくれた相手は、後にも先にも、あの人だけだ。
「ついてくる必要はない」二人に、そう言った。
「俺は半士分でもなくなった。お前たちの食い扶持を、約束できる立場じゃない」
弥市が、鼻を鳴らした。
「お前の下なら、退屈はせん。最初からそう言うとろうが」
古い男だ。組が割れるのも、頭が死ぬのも、これが初めてではないのだろう。後ろ盾をなくした者がひとりでどうなるか、いやというほど見てきたはずだ。退屈はせん——そんな憎まれ口の裏で、この男は結局、放り出される俺を、見過ごせなかったのだ。
寅吉は、目を腫らしたまま、それでもしっかり頷いた。
「新兵衛様の行くところへ。どこへでも」
その声には、ほんの少し力がこもっている。償いのように聞こえた。俺は何も言わず、頷き返した。
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発つ朝は、冷えた。
冷えは、塞がりかけた肩にも染みてくる。林で負った傷も、もう鈍いうずきを残すだけだ。
それでも、風には、もう春の匂いがまじりはじめていた。じきに、田で蛙が鳴きだすころだ。
三河の土を、二度踏んだ。市松の分と、権蔵の分と。
帰る場所は、もうない。
それでも、胸の底の熱だけは、誰にも奪えなかった。冷えた朝風にさらされても、消えるどころか、腹の底でちりちりと音を立てている。
西の空は、まだ暗い。
その暗がりの奥に、尾張がある。何が待っているのかは、知らない。知らないが——構うものか。道がなければ、この手でこじ開けてでも進んでやる。
いっぱしの侍に。いや、市松が見られなかったその先の景色まで、この目で必ず見てやる。
暗いなら、なおさらいい。——その闇のただ中で、この胸の火は、赤々と燃えあがる。
——第一章 了——




