第二十話「素人、最後の砦に挑む」
夜が明けると、寺はぐるりと囲まれていた。一面の霜が、朝日に白く光っている。
幾重もの柵、水を落とした空堀、屋根の上にまで組まれた矢倉。門徒のこもる最後の拠り所を、松平の手勢が隙間なく取り巻いている。ここが落ちれば、戦は終わる。誰もが、そう言った。
朝から、攻め太鼓が鳴りやまない。
どん、どん、と腹の底を突いてくる。その音に背を押されて、足が前へ出る。
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市松が、いちばん前にいた。
「新兵衛、見とけよ」石突きで、どんと地を突く。「今日は、でかいのを獲る。こつこつ手柄を重ねたって、足軽は足軽のままだ。今日ここで、皆が振り向くようなやつを一つ、立ててみせる」
いつもの大言だ。市松の声は、いつだって誰より大きい。
俺は、苦笑いを返した。
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法螺が、鳴った。
鬨の声が、地を揺らす。数えきれない足が、いっせいに寺へ向かって駆けだした。俺も、その奔流に呑まれて走る。
空堀へ、転がるように降りる。底は、先に降りた者の血と水で、ぬめっていた。足を取られ、何人もが折り重なって倒れる。その上を、また次の足が踏んでいく。
堀の底から、柵を見上げた。丸太を組んだ壁が、すぐ頭の上に立ちはだかっている。とりつき、よじ登る。腕を引き上げるたび、利き腕の付け根がひきつる。傷は塞がってきたが、まだ思うように力が入らない。手のひらに、ささくれが食い込む。
上から物が降ってくる。
石が、丸太が、突き落とされてくる。すぐ右で、登りかけた男が顔を割られ、声もなく堀へ落ちた。槍が、柵の隙間から突き出される。登る端から、突き落とされる。
それでも、退かない。柵の上で得物を振るうのは、門徒ばかりではなかった。具足をつけた侍が、まじって指図している。主家を割って出た者たちの、最後の意地だった。
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何度落とされても、また登る。
数で押す。一人が落とされても、その肩を次の者が踏んで、さらに上へ。
柵の一角が、内と外から押されてついに折れた。
雪崩れ込むと、怒号と悲鳴、鉄のぶつかり合う音。柵の内は、堀よりもひどい押し合いだった。
市松が、人垣を肩で割って前へ出る。手柄のふた文字しか、目に入っていないみたいに。
寅吉が、その背を必死に追う。傷の癒えきらない体で、もつれる足を引きずって、離れまいと食らいついていく。
弥市は舌打ちひとつ、二人の脇へ回った。古参の足どりで、突き出される穂先をいなし、横なぐりの槍を柄で払い落とす。市松の無茶を、後ろから黙って拾っていく。
俺も遅れまいと、その渦へ踏み込んだ。
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堀際で、それは起きた。
寅吉が、足を滑らせた。まだ本調子に戻らない体だ。崩れた土に、膝をつく。
そこへ、門徒の槍が来た。
「寅吉っ」
市松が、間に割って入った。
寅吉を、力いっぱい突き飛ばす。たたらを踏んだ市松の背が、こちらへ、まる裸にさらされた。
そこへ——
人込みの間を縫って、横合いから穂先が伸びた。
それが、市松の背の、まんなかへ吸い込まれていく。
鈍い音だった。濡れた俵に杭を打ち込むような、重く湿った音。
市松の体が、ぐ、と前へ撥ねた。つま先立ちになって、行き場のない両手が、宙を掻く。
背を破った切っ先が、具足の合わせ目を割って、胸の前に、つき、と顔を出した。赤いものを、したたらせながら。
喚声も、太鼓も、急に遠のいた。市松の胸から突き出た、その切っ先だけが、目に焼きついた。
弥市が、吼えた。市松を刺した門徒へ、横から飛びかかる。その喉の脇へ、下から槍を撥ね上げた。男が血を噴いて、のけぞった。倒れる体へなおも一突きをくれてから、弥市はようやく手を止めた。
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俺は、崩れていく市松を抱きとめた。背中の傷へ、両手をあてがう。
指の下で、布も肉も、温かいものでぬめっていた。力を込めても、手のひらが滑るだけだ。あふれる血の速さに、両手がまるで追いつかない。
「市松。市松、しっかりしろ。傷は、浅い。浅いから」
嘘だった。背中から胸まで、まっすぐ抜けていた。
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市松が、俺を見た。
血の気の引いた顔で、それでも、笑おうとした。
「……寅吉は」
「無事だ。お前が、庇った」
「そうか」
安心したように、息をついた。その息が、ひどく浅い。
市松の手が、動いた。俺の腕を探り当て、袖を、握る。力の入らない、それでも必死の握りだった。濡れた指が、布越しに、しがみついてくる。
俺を、まっすぐに見ていた。渡さなければならないものがある——そういう目だった。今朝、石突きで地を突いて言ってのけた夢を。
口が、動く。だが、声にならない。血が、邪魔をする。喉の奥で、言葉が、溺れていく。
「……いっ……ぱしの……」
いっぱしの侍に。
あいつの、たった一つの夢だ。聞こえなくても、分かった。
俺は、市松の手を、両手で握り返した。傷を押さえていた手が、血で滑る。それでも、力いっぱい、握った。
「分かってる」声が、震えた。「いっぱしの侍に、なる。お前も、俺も。寅吉も、弥市も。——お前が、言い切れなかった夢だ。その夢は、俺が、口にしつづける。何度でも。だから——」
だから、安心して聞いていろ。
その先は、言葉にならなかった。
市松の口の端が、わずかに、上がった気がした。聞こえたのか。それとも、ただ、こと切れる前の、最後の動きだったのか。確かめる間は、なかった。
口の動きが、途中で止まる。目から、光が、すうっと引いていく。
握り返した手から、力が、こぼれていく。手の中の重みが、ふいに、ぜんぶ、こちらへ預けられた。
市松の火が、消えた。
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寅吉が、泣き叫んでいた。市松の名を、何度も。
弥市は、立ったまま動かなかった。握りしめた槍が、小刻みに震えていた。
俺は、声が出なかった。涙も、出なかった。ただ、もう動かない市松の体を抱えたまま、いつまでも、そこに座り込んでいた。
守れなかった。
すぐ隣にいた、いちばん大事な男だ。その命を、この手は、つなぎとめられなかった。
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砦が落ちたのは、その日のうちだった。
三河を二つに裂いた戦が、これでようやく終わる。陣のあちこちで、生き延びた者の声があがる。功を数える者。酒を回す者。声を上げて、ただ笑う者。
勝ちいくさだ、と皆が言う。
その勝ちの真ん中に、市松だけがいない。皆が振り向くような手柄を、誰より欲しがっていた男が、それを掴む前に逝った。
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その夜。
市松を、燃やした。
名のある侍ではないから、立派な弔いはない。土に埋めるのが、ならいだ。だが、嫌だった。火のような男を、冷たい土の下に、置いてきたくなかった。
炎が、夜空へ昇っていく。
市松。お前が言いかけて、言えなかった、あの一言。
たしかに、受け取った。
胸の底に、ずっと名前のつかない熱があった。何のためのものかも分からず、ただ持て余してきた。
市松の火が、その熱に名前をくれた。
いっぱしの侍になる。あいつの夢が、行き場のなかった俺の熱と、ひとつに重なる。
もう、ただ熱いだけじゃない。何をすべきなのか、はっきりと分かる。市松が遺していった、俺の目指す先だ。
俺は、燃える火を、長いこと見ていた。
涙は、そのときになって、ようやく流れた。




