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第十九話「素人、炎の中で出くわす」

 一揆の力も、尽きかけていた。


 あの蜂起のころ、野はまだ枯れ色だった。それが、いまはすっかり凍てついている。攻めあぐねるうちに、季節がひとつ過ぎたわけだ。


 門徒の砦は、ひとつ、またひとつと落ちていく。残った拠り所も、日に日に削られていった。


 その日に攻めた砦も、もう半ば、炎に呑まれていた。堂が燃えている。黒い煙が低くたれこめ、念仏と、悲鳴と、火のはぜる音が、ごちゃ混ぜになっている。


---


 崩れかけた土塀の内で、その男と出くわした。


 茂助だった。


 まわりに人影はない。味方も、敵も。崩れた塀と燃える堂のあいだに、俺と茂助だけが取り残されていた。


 茂助は笑わなかった。睨みもしない。ただ、いつものように、俺を見た。


 「……根無し草が。まだ生きとったか」


 「あんたこそ」


 「お前さえ、おらんかったら」茂助が槍を構えた。「俺は、まだあの陣の頭でおられた」


 預かり者の俺が下働きを抜け、半士分に手が届いた。その一段ぶん、自分が頭の座から弾き出された——茂助は、本気でそう思い込んでいる。


 その執念のぶんだけ、構えは本物だった。三十年、ただ槍をぶら下げてきた男のそれではない。穂先の据わりが俺のよりずっと低くて、重い。腰が地に根を張っている。


---


 仕掛けてきたのは、茂助だった。


 突きが、速い。穂先を払うたび、利き腕の付け根がうずく。浪人の槍をまともに食らった場所だ。傷口はもう塞がってきた。だが、肩の力はまだ戻らない。重い突きを受けるたびに芯が軋んで、腕がすぐにばてる。それでも払って、いなして、半歩を盗む。同じ林で転がされながら、体に覚え込ませた間合いの取り方だ。


 茂助の口が、動いた。


 「逃げ場を読むのだけは、達者になったの」息も乱さず、また突いてくる。「だが、根は変わらんな。糞桶担いどった頃の、おどおどした目のままだ」


 図星だった。穂先の前で、足が半歩、勝手に退こうとする。その半歩を、茂助は見逃さない。


 石突きが跳ね上がり、顎をかすめた。歯の根が鳴る。口の中が、すぐ鉄の味で満ちる。


 退くな。腹に力を込めた、その時だった。


 茂助の手が、ふいに地を払った。


 砂が、目に飛んでくる。


 視界が、白く灼ける。まぶたを閉じても、内側でちかちかと火花が散る。涙があふれて、もう何も見えない。


 手が、地の砂をさぐり当てた。握って投げ返せば、同じ目に遭わせられる。


 戦場で、砂のひとつふたつ、誰も卑怯とは言わない。生き延びた方が勝ちだ。


 でも、こいつにだけは、その手で勝ちたくなかった。茂助のやり方で倒したところで、勝った先に立つのは、茂助と同じ顔をした俺だ。


 握りかけた砂を、こぼした。


 ——正面から、勝つ。


---


 目をつむったまま、息を殺す。見えないなら、見えるものに頼らなければいい。


 茂助の荒い息。土を蹴る、爪先のこすれ。具足の、革の軋み。見えないぶん、音が、やけにくっきりと届く。


 ——来る。


 右だ。たぶん、右。


 確信なんて、ない。外せば、次はこっちが地に這う番だ。でも、迷っているうちに突かれる。なら、賭けるしかない。


 息を吸うのもやめて、音のした方へ、腰ごと槍を送り出した。


 空を裂く。手応えは、ない。長い。長すぎる——


 固いものを穂先が擦った。逸れると思った先で、切っ先が何かに食い込んで、ぐっと止まった。


 柄を握る手に、遅れて衝撃が来る。肘まで撥ね上がる。低い、くぐもった呻き。


 涙でぼやけた目を、無理にこじ開けた。


 茂助が、槍を取り落として片膝をついていた。突き込んだのは、利き腕の付け根だ。継ぎ目を割られた肩から、だらりと手が下がっている。あれでは、もう槍は握れない。指の隙間から、黒いものが滲んでいた。


 倒した。あの茂助を。


 ずっと陰で俺の隙をうかがい、足を掬おうとしてきた男を。柄を握る両手が、まだ細かく震えている。


 俺は、穂先を茂助の喉元へ突きつけた。


 突け、と頭が言う。寅吉を死地へ追い、権蔵の骸を見下ろした男だ。ここで断たなければ、また誰かが狙われる。理屈は、ぜんぶ突けと言っている。


 だが——突けなかった。


 穂先の先で、茂助がこちらを見上げている。


 その顔に、覚えがあった。薪の山の陰で、ひとり縄をなっていた、あのときの茂助だ。こいつと自分を分けたものが何なのか、あのとき俺は、答えを出せなかった。


 いまも、出せない。


 出せないまま、この喉を突けるわけがない。


 穂先が、止まる。


---


 茂助が笑った。肩の痛みを噛み殺すような、低い笑いだった。


 「……何を、迷っとる」


 「とどめも、刺せんのか。だから、お前は——甘い」


 言うなり、茂助は落ちた槍へ、左手を伸ばした。


 とどめを刺さなかった俺へ、その情けごと突き返してやるつもりだ。


 「お前の情けで、生かされてたまるか」


 血の気の失せた顔で、それでも茂助は槍を掴み、左腕一本で立ち上がりざまに突いてきた。


 俺は、身を引いてかわす。


 退いた背に、熱があった。崩れかけた堂の梁が、すぐ後ろで火の粉を吹いている。これ以上は、退けない。退けば、今度は俺が呑まれる。


 なのに茂助は、まだ来る。


 落ちかかる火にも、軋む足場にも、目もくれない。下がった腕はそのままに、ただ俺ひとりを突き殺すためだけに、燃える堂の口へ、自分から踏み込んでくる。


 止まれ。そう言いかけて、やめた。この男は止まらない。止まれるなら、とっくに止まっている。


 俺は、横へ跳んだ。


 茂助の穂先が、俺のいた場所の炎を貫く。その勢いのまま、燃える堂の中へ倒れ込んだ。


 直後、軋んでいた梁が、火の粉を散らして落ちた。


 炎と煙が、茂助を、まるごと飲み込む。


 煙の中で、最後に一度、こちらを睨んだ気がした。


---


 とどめは、刺していない。刺さずに、済んだ。


 それでも、勝ったのは俺だ。あれだけの相手に、退かずに勝ちきった。それだけは確かだ。


 ただ——勝ったことと嬉しいことは、別だった。


 火に飲まれる間際まで俺を睨んでいた、あの顔が瞼から消えてくれない。憎んだ相手のはずだ。それなのに、こいつが死んだことを、どうしても喜べない。


 背中の棘は、抜けた。ずっと抜けないと思っていた棘だ。


 なのに、抜けた今になっても軽くなった気はしない。


---


 俺は燃える堂を背に、歩きだした。


 煙の向こうで、いくさの喚声が、まだ続いている。この砦が落ちても、戦はまだ終わらない。落とすべき拠り所は、まだ残っている。終わったのは、俺と茂助の、長い因縁のほうだけだ。


 戻れば、また弥市がいる。寅吉がいる。市松も。


 市松はきっと、いちばん前で槍を振り上げているだろう。今日こそ手柄を、と、あの高い声を張り上げて。


 その背中が、ふいに見たくなった。


 俺は、煙をかき分けて、皆のいる方へ足を速めた。

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