第二章
──翌朝。
目が覚めると窓の外は灰色だった。雲ではない。遠方の区域で発生した爆撃の煙だ。薫が生まれた頃から空が青い日の方が珍しい世界だった。
薫は眠そうに目を擦る。
「……ん」
どうやらソファで寝落ちしていたらしい。あちこち身体が痛い。
身体を起こした時に生じた布ズレで、毛布が掛けられていることに気付き、薫は驚きで瞬きをした。
「……ベル?」
部屋の隅、そこにはいつも通りベルが立っていた。微動だにせず、静かにだ。
『おはようございます、薫』
「もしかして毛布掛けてくれた?」
『夜間時、体温低下を確認したため、防寒行動を実行しました』
「そっか」
薫は微笑みを浮かべた。
「ありがと」
ベルは返答しなかった。だがその視線が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
──
学校へ向かう途中、地下通路には人が溢れていた。
空襲警戒区域にあたる日は、地上での移動が制限される。少し湿った地下空間の中を、人々は無言で歩いていた。
「よぉ、藤本」
同級生の男子が声をかけてきた。
「またその旧型連れてんのか?」
「うん」
「珍しいよなあ。普通とっくに新型に替えるだろ」
「でも壊れてないし」
「いやでも性能やばくね?反応遅いって聞くぜ」
男子はちらりとベルに視線を寄せる。ベルは無表情のままで、まるで置物のようだった。
「それにさ……」
男子は聞かれると困るかのように少し声を潜めた。
「近くで見るとちょっと怖くね?」
薫の眉が少しだけ寄る。
「怖くないよ」
「えー……なんか人間っぽくないじゃんよ」
それは事実だった。新型と違い、ベルには生っぽさが足りない。人間特有の“揺らぎ”がなかった。だから近づくと逆に、人ではないと分かる。
薫は小さく息を吐いた。
「ベルはベルだから」
「……変わってんなお前」
男子は苦笑して去っていった。その背中を見送りながら、薫は歩き出す。隣ではベルが静かに追従していた。
──数分後。
『質問があります』
「ん?」
『"怖い"とは、拒絶を意味しますか』
薫はベルの言葉に少し目を丸くした。
「なんで?」
『先程の会話内容を分析しました』
薫は歩きながら少し考える。
「うーん……人によるんじゃないかな」
『……』
「でも僕は、ベルのこと怖くないよ」
その瞬間、内部処理装置に高負荷がかかった。ノイズが増幅していき、優先的に保存された未定義だった感覚。
ベルは微かに視線を下げた。
『……了解しました』
その声は、いつもより少しだけ静かだった気がした。
──
──放課後。
薫は工具箱を開きながら床に座っていた。ベルは椅子へ腰掛けている。
旧型は定期的に整備しなければならない。昨日言っていた左腕部駆動遅延の修理だった。
「左腕見せて」
ベルが静かに腕を差し出す。袖をまくると、皮膚下に細い継ぎ目が見えた。人間なら存在しない境界線。
薫は慣れた手つきでパネルを外していくと、内部の金属が露出した。
銀色の骨格に細い駆動線、そして淡く点滅する内部光。
「やっぱり部品摩耗してるなあ」
『稼働年数による経年劣化と思われます』
「そっか、もう古いもんね」
『はい』
ベルは淡々と答えた。そこに寂しさはない。……普通なら。
薫はドライバーを回しながら小さく呟いた。
「……でも僕は好きだよ」
『……?』
「この古い感じ」
ベルは薫に視線を固定し、意味を解析する。
『質問してもよろしいですか』
「うん」
『理由はありますか』
薫はどこか恥ずかしそうに笑った。
「何となく……ずっと一緒だからかな」
内部温度が上昇し、ノイズが走る。また生じたあの未定義の感覚に、優先すべき処理は混線した。
ベルは返答できなかった。代わりに、薫の横顔を見つめ続ける。
静かな部屋に工具の音だけが響く。その時間を、ベルは“終わってほしくない”と感じていた。
だが、その感覚の名前を知らない。
──
──夜。
珍しく停電が起きた。部屋の電気が落ち、街全体が暗闇へ沈む。
「うわ」
薫が小さく声を上げる。窓の外は闇が広がっていた。遠くの爆撃による光だけが空を照らしている。
『予備電源へ切り替えます』
ベルの瞳が淡く発光した。暗闇の中、瞳だけが静かに浮かぶ。その光景に薫は微笑んだ。
「なんか綺麗」
『視覚補助モードです』
「知ってる」
薫はソファへ座り込む。
「ねぇベル」
『はい』
「こっち来て」
ベルは数秒停止したあと、静かに隣へ座った。ソファが僅かに沈む。
近くで見ると、やはり人間とは違う。肌の質感や
体温の低さ、呼吸音の無さが物語っていた。
それでも薫は自然に隣へ寄りかかった。
「停電されると嫌なんだよな」
『暗闇への恐怖ですか』
「うーん、それもあるけど」
薫は静かに目を伏せる。
「……独りみたいで」
ベルは返答できなかった。慰め方を知らないからだ。
だがしかし内部で発生していくノイズ、あの未定義な感覚だけが、少しずつ増えていく。
薫の肩がベルに触れており、近いと感じる。優先対象で保護対象の薫。
――離れたくない。
その瞬間、ベルの指先が僅かに動いた。薫の服の裾を掴みかける。
だが直前で停止した。なぜこの行動を示したのか理由は不明である。
ベルはゆっくり手を戻した。
「……ベル?」
『問題ありません』
そう答える声が、ほんの微かに動揺が混じっていたように思えた。
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