第三章
季節はゆっくり冬へ近づいていった。戦争が続くようになってからというもの、雪はあまり降らないようになった。空気中の塵や煙のせいで、まともな気候は何年も前に壊れてしまったらしい。
それでも時々、冷たい風だけは昔と同じように吹いた。
「寒……」
通学途中、薫は肩を竦めながら息を吐いた。その息は白くはならない。気温が低いのに、空気はあまりにも汚れているからだろうか。
隣ではベルが静かに歩いていた。コート姿の人々とすれ違う中、ベルだけは薄着のままだ。
「ベルはいいなあ、寒くなくて」
『内部温度は一定に維持されています』
「羨ましいや」
薫が楽しそうに笑った。その横顔を、ベルは数秒見つめた。
視線を優先対象である薫に固定し確認する。それにより内部のノイズが微増した。またあの未定義な感覚がする。
最近、その頻度が増えていた。理由は不明である。
護衛するためだけの機械にとって邪魔でしかないノイズ、しかしベルはまたもや削除対象にできなかった。
──
その日の帰宅途中、地下通路の片隅に、小さな花屋の出店が出ていた。こぢんまりとした店だった。こういったものは戦時下では珍しいものだ。
薫はそのお店の前で立ち止まる。
「……花」
従ってベルも停止した。
『……確認しますか』
「いや、ちょっと見るだけ」
店先には色褪せた花ばかりが並んでいた。正直綺麗とは言い難い。それでも、この色が無くなってしまったように感じる世界では、妙に目立って見える。
「昔さ……」
薫は柔らかい笑みを浮かべながら呟く。
「母さん、花が好きだったんだよね」
ベルは薫の表情に注視しながら、静かに聞いていた。
「だからちょっと懐かしくて」
薫は目の前の一輪の白い花を手に取り、少し迷ったあと、それを買った。
家までの帰路、薫は買った花を眺めながら歩く。
「ねぇベル、綺麗だと思う?」
薫とベルの間に数秒の沈黙が生まれる。
「……評価基準が存在しません」
「そっか」
薫はその返答に苦笑した。
「まあ、そうだよね」
そこで会話は終わった。だが、ベルの視線だけは花へ向いたままだった。
白い花弁、時折風で揺れるその輪郭、そしてそれ見つめながら笑う薫。
その情景が内部記録媒体に保存された。不要なデータ、普通なら真っ先に削除候補である。
しかしベルは、また削除を実行できなかった。
──
家に着いた薫は花を小さなコップへ挿していた。この家にまともな花瓶なんてない。
「よし」
机の端に置いて薫は満足そうに言った。その様子を、ベルは部屋の隅から見ていた。
「ねぇ、なんか部屋明るくなった気しない?」
『照度変化は確認されていません』
「いや、そういう意味じゃなくてさ」
薫が笑って言う。
「気分の話!」
気分とは……検索をかけてみるが、ベルの中で該当する事柄がない。つまり人間の感情と似ているのだろうか。数値化不可能で、あまりにも曖昧なもの。
機械のベルには理解できない。──理解できないはずなのに。
薫が笑っていると、内部に走るノイズの具合が安定する。沈黙が長くなると、ふと視線を向けたくなる。 危険区域へ入ると、通常以上に警戒優先度が上昇する。
全てが理由不明で、あの未定義な感覚。
「ベル?」
『はい』
「どうしたの」
『……問題ありません』
ベルは事実から目を背けるように視線を逸らした。
──
──数日後。
珍しく平和な日だった。警報も鳴っていないし、空も薄くだが青く見える。
薫は学校帰りに、公園跡地へ立ち寄っていた。遊具は半分壊れていて、地面には爆撃跡も残っている。それでも小さな子どもたちが遊んでいた。
その光景を、薫はベンチからぼんやり眺める。その隣にはベルがいた。
「ねぇベル」
『はい』
「笑える?」
ベルは一瞬では理解出来ず、停止した。
『質問の意図を確認します』
「そのままの意味だよ」
薫は頬杖をついて真っ直ぐにベルを視界に捉えてもう一度言った。
「笑顔」
数秒の沈黙が2人の間で流れる。
そしてベルはゆっくり口角を動かした。ぎこちなくて、不自然で、人形のようだった。
その表情に薫は吹き出す。
「あははっ、なにそれ」
『失敗しましたか』
「いや、ごめん、変じゃないけど……なんか固いなって」
ベルは数秒停止したあと、再び表情を動かす。 今度は少しだけ自然だったが、まだ硬いように思えた。
そんなベルの様子を見て、薫は肩を震わせるように笑った。
「練習してるみたい」
『表情模倣を実行しています』
「真面目だなあ」
薫はしばらく笑ったあと、不意に静かになり、信じて疑わないかのように呟く。
「でも、今の方が好きかも」
『……?』
「完璧じゃない方」
ベルの黒髪を撫でるように風が吹いた。
それに伴うかのように内部処理装置に遅延が生じ、ノイズが増幅する。またあの未定義な感覚した。
そして薫の言葉が、優先保存媒体へ固定される。
――好き。
意味は理解している。
だが今発生している現象を、ベルは説明できなかった。
──
公園から出て家に向かう道中、空襲警報が激しく鳴った。街中の街灯が赤色に変化し、人々が足を速め地下へ流れ始めた。
「またか……」
薫は小さく息を吐く。
『地下避難区画への移動を推奨します』
「うん、わかった」
ベルが周囲を警戒しながら歩く、──その時だった。上空で妙な音がする。低く、近いところから鳴ったような気がして薫が反射的に空を見上げた。
黒煙の向こうには戦闘機の影。
次の瞬間、地面が揺れた。あたりからは悲鳴が聞こえはじめ、視界は赤や黒に染まっていく。
地下入口付近で爆撃が起き、人の流れが崩れた。
「っ……!」
薫の身体がよろめき、その腕をベルが掴んだ。金属の指は冷たい感触だった。
『護衛行動を開始します』
ベルは薫を庇うように前へ出る。
爆音や熱風、そして崩れていく建物たち、赤い警告表示がベルの視界へ次々浮かんでいった。
そんな中ベルの最優先すべき対象は、ただ一人。
──薫を守らなければ。
その時、視界上空に落下物を検知した。あまりにも巨大で回避不可能の表示がでる。
予測着弾地点は……、──薫。
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