第九章 落ちこぼれ魔女の、たった一つの才能
木曜日の二時間目に、事故が起きた。
実技棟の第三演習室で、三年生の術式演習中に魔力の暴発があった。わたしのクラスは隣の第二演習室で授業を受けていたから直接は見ていないけれど、廊下に響いた音と、少しあとに漂ってきた焦げた匂いで分かった。
授業が一時中断になって、担当の先生が様子を見に行った。しばらくして戻ってきた先生は、「問題ない、続けます」と言ったけれど、顔色が少し悪かった。
昼休みに食堂へ行くと、噂がすでに広まっていた。
「三年生の術式演習で複合陣が暴発したらしい。怪我人は出なかったみたいだけど、演習室の壁が一部焦げたって」
リオが教えてくれた。
「複合陣の暴発?」
「誰かが接続を間違えたとか。先生たちが後処理で大変みたい」
わたしは少し気になった。
複合陣の暴発は、単純な操作ミスで起きることもあるけれど、陣式の設計自体に問題がある場合もある。どちらかによって、対処の方法が全然違う。
「演習室、今も使えないの?」
わたしはリオに尋ねた。
「先生たちが点検中らしい。午後の授業は別の部屋になるって」
食堂を出て、わたしは少し遠回りして実技棟の方を通った。
第三演習室の扉は閉まっていた。廊下から見える窓越しに、先生が数人、演習室の中を確認しているのが見えた。
扉の前に立って、廊下から気配を辿った。
焦げた術式の残滓が、扉の外まで漏れていた。壁越しでも読める程度に強い残滓だった。
読んだ。
複合陣の残骸から、何をしようとしていたのかが流れてきた。属性制御の応用演習、いくつかの術式を同時に展開する練習だったらしい。三つの術式を並行展開しようとして、二番目と三番目の起動タイミングが重なった。そこで干渉が起きた。
干渉が起きたのは、接続のミスではなく、展開順序のプログラムに問題があったからだと分かった。術式の設計段階で、二番目と三番目が同時に起動し得る条件が残っていた。
わたしは廊下に立ったまま、それを頭の中で整理した。
修業を終えた先生が扉から出てきた。眼鏡をかけた女性の先生で、実技科の主任だった。
「倉橋さん?」
「あ、すみません。通りがかりで」
「授業は?」
「昼休みです」
先生が少し疲れた顔でわたしを見た。
「何か見えた?」
実技科の先生は、わたしの特技を知っていた。授業で何度か役に立ったことがあったから。役に立った、と言っても、毎回「変なところだけ器用」と言われて終わったけれど。
「展開順序のプログラムの問題だと思います。接続は正しかった。でも二番目と三番目の術式が同時に起動できる条件が残っていた。そこで干渉が起きた気配があります」
先生が少し間を置いた。
「壁越しで分かるの」
「残滓が強かったので」
先生はわたしを見てから、演習室の方を見た。
「そういう可能性は考えていたけど、確認中だった。もう少し詳しく聞かせてもらえる?」
わたしは廊下で先生に説明した。干渉が起きた場所と、その原因として考えられる設計上の問題を、残滓から読み取った範囲で話した。
先生は途中でメモを取り始めた。
説明を終えると、先生が言った。
「助かった。原因の特定が早くなる」
「お役に立てましたか」
「十分に」
先生は、それから少し考えるような顔をして伝えた。
「次の査定の評価に加点できるか確認してみる。こういう分析は正式な科目にないから保証はできないけど」
「いえ、そんな」
「あなたの読みは正確だから。使わないのはもったいない」
それだけ言って、先生は演習室に戻っていった。
わたしは廊下に一人残った。
その日の五時間目は座学だった。
わたしは教科書を開きながら、午前中のことを頭の中で反芻していた。
役に立った、というのは何度かある。でも今日みたいに、先生に「助かった」と言われることは少なかった。たいていは「変なところだけ器用」か「面白い読み方をするね」で終わる。評価には繋がらない。
でもそれで良かった、と今まで思ってきた。
誰かの役に立てたなら、それで十分だと。
ただ今日は少しだけ、違う感覚があった。
自分の力が、ちゃんと何かを解決した。先生が困っていたことに、答えを出せた。加点があるかどうかは関係なく、それ自体が、今日初めてしっかりした輪郭を持った気がした。
その感覚を、どう説明すればいいか分からなかった。
放課後、旧資料棟に着いた。
モコが飛んできた。今日は廊下まで出迎えに来ていた。
「廊下まで来るんですか」
わたしが突っ込むと、モコが鳴いた。
「何かあった?」
モコは返事の代わりに部屋の方へ戻っていった。わたしはついていった。
部屋に入ると、セレスが机に向かっていた。今日は陣を書いていなかった。代わりに、先週の感応型の記録と、昨日の陣の残骸の分析をまとめた羊皮紙が広げられていた。
「昨日の陣の分析を続けていた。十二秒持って崩れた理由。向こうの応答が大きかったというのは分かった。次の陣でそれに対応するためには、中心の受容構造をもう一段大きくする必要がある」
「受容構造を大きくすると、安定性は?」
「下がる。でも応答が来た時に受け取れなければ意味がない。安定性と受容量のバランスを探っている」
わたしは椅子に座った。
「今日、少し話してもいいですか」
「どうぞ」
「実技棟で暴発事故があったので、廊下から残滓を読みました。先生に伝えたら、原因の特定が早くなったと言われました」
「聞いた。職員室で話題になっていた」
「そうですか」
「先生が助かったと言っていたのも聞いた」
わたしは少し意外だった。
「早いですね」
「学園は狭いから」
セレスは羊皮紙から顔を上げて、わたしを見た。
「どういう気持ちで話しているの」
「どういう気持ち?」
「役に立ったことを報告したいのか、何か別のことを言いたいのか」
正確に聞かれた、と思った。
「少しだけ、自分の力に輪郭ができた気がして。今まで変なところだけ器用、と言われることが多かったので、役に立てたのは嬉しかったんですけど、それだけじゃなくて。ちゃんと何かを解決した、という感覚が、今日は少しはっきりしていた気がして」
「それを私に言いに来た」
「話したかっただけです。他に話せる人がいないので」
セレスが少し間を置いた。
「リオさんには話さないの」
「旧資料棟のことを話すわけにはいかないので。でも今日の話は旧資料棟と関係ないから話せるんですけど、なんか、ここで話したかったです」
セレスはわたしを見ていた。
それから羊皮紙に目を戻して、「続きを聞かせて」と言った。
命令形だったけど、今日は少し違う温度だった。
「廊下から読みました。壁越しでも、残滓が強ければ読める。複合陣の干渉だったので、どこで干渉が起きたかが流れてきた。展開順序のプログラムに設計上の問題があって、二番目と三番目が同時に起動できる条件が残っていた」
「それを壁越しで」
「はい。残滓が強かったので」
「壁越しで読めるなら、旧資料棟の棚の奥の残滓も、棚の外から読める?」
「試したことないですけど、たぶん読めます。残滓が残っているものなら」
「それは使える」
セレスは少し考えるような間を置いて、伝えた。
「先週見つけた制限資料の棚の奥に、まだ確認できていない資料がある。全部取り出すのは目立つけど、棚の外から読めるなら時間が省ける」
「やってみます」
セレスが立ち上がった。わたしもついていった。モコも後ろからついてきた。
制限資料の棚の前に立って、扉は開けないまま、棚に向かった。
気配を辿った。
棚の奥から、複数の残滓が流れてきた。古い術式の記録が何冊か、それから、一つだけ他と少し違う気配のものがあった。
「一番右の奥の段に、他と少し違うものがあります。術式の記録じゃない。人物の記録に近い気配です」
わたしは伝えた。
「人物の記録?」
「誰かの研究日誌か、報告書に近いものだと思います。術式の残滓じゃなくて、感情の残滓がある」
セレスが扉を開けた。一番右の奥の段を確認すると、薄い綴じ物が一冊あった。羊皮紙ではなく、普通の紙を綴じたもので、表紙に名前が書いてあった。
セレスがそれを取り出して、表紙を見た。
少し間があった。
「名前が読めますか?」
「読める」
セレスの声が少し変わった。
「九条、という名前がある」
わたしは見た。古い字体で、九条、という文字のあとに別の文字が続いていた。セレスと同じ家名だった。
「親族の記録ですか」
「分からない。ただ九条家のものが、学園の制限資料の棚にある」
机に戻って、綴じ物を広げた。中は日誌の形式で書かれていた。日付と、その日の研究内容と、感じたことが書いてある。
召喚の研究日誌だった。
読み始めると、すぐに分かった。この記録を書いた人も、召喚ができなかった。九条家の形式で何度試みても成立せず、独自に研究を続けていた。旧資料棟で、一人で。
セレスが黙々と読んでいた。
わたしは隣から読み進めた。日誌の中盤に差し掛かった頃、一つの記述に目が止まった。
今日も成立しなかった。しかし応答はあった。いつものように、一瞬だけ向こうが触れた。この感覚を誰かに話したことがない。話せば、欠陥の証拠として見られるだけだから。でも私は、この応答が本物だと思っている。形式が間違っているのではなく、私の呼び方が、今の形式と合っていないだけだと。
わたしはセレスを見た。セレスは同じ段落を読んでいた。
「同じ人がいた」
わたしは呟いた。セレスは答えなかった。
「応答があった、という記録。形式が合っていないだけだという認識。全部、セレスさんと同じです」
「…………」
「この人は、そのあとどうなったんですか?」
セレスが日誌の後半を繰った。
日付が飛んだ。何ヶ月分かが空白になって、また始まった。
再開した記録には、研究をやめるという内容が書いてあった。家からの圧力で、独自の研究を続けることができなくなり、今の形式に従うことを求められた。
最後の一行に、こう書いてあった。
応答は本物だった。でも私には、それを形にする時間が残っていなかった。
部屋が静かだった。
モコが日誌の上に乗ってきた。最後の一行の上に、ちょこんと座った。
セレスは最後の一行を見ていた。長い間、見ていた。
わたしは何も言わなかった。
やがてセレスが口を開いた。
「この人が形にできなかったものを」
それ以上、続けなかった。
「セレスさんが形にします」
言い切った。
セレスがわたしを見た。
「根拠は?」
「失敗痕は嘘をつかないから。昨日の陣でも、今日の演習室でも。残滓から読めるものは本物です。セレスさんの陣から読んだ気配も、本物です。向こうが応えている。それは確かです」
セレスはしばらくわたしを見ていた。
「あなたの力がなければ、私はここまで来られなかった」
真顔だった。
褒めているのか確認しているのか判断できない声だったけど、どちらでもある気がした。
モコが日誌の上でしっぽを揺らした。
窓の外で、夕暮れの光が傾いていた。




