第八章 優等生の家
水曜日の朝、セレスの元に手紙が届いた。
わたしがそれを知ったのは放課後だった。旧資料棟に着くと、セレスが机の前に座ったまま、封を開けた封筒を手に持っていた。読み終えたのか、紙を畳んで封筒に戻すところだった。
モコは棚の上にいた。わたしが入ってきても飛んでこなかった。セレスの方を見ていた。
「手紙ですか」
「九条家から」
セレスは封筒を机の引き出しに入れた。
「座って。今日の作業を始めましょう」
いつも通りの声だった。でも、いつも通りではなかった。
何かが違う、と思いながらわたしは椅子を引いた。
今日の陣は昨日の続きで、感応型の術式を参照しながら六層の構造を組み直したものだった。先週末に試みた形より、感応型の特徴をより強く取り込んだ設計になっていた。
「読みます」
陣に向き合った。
気配を辿る。外周から順番に流れを確認する。一層、二層、三層。流れは滑らかだった。先週の修正が効いていて、渋滞していた第五層の密度も整っていた。四層、五層。
六層目に入ったところで、少し引っかかった。
「六層と中心の接続のところ。流れが来ているんですけど、受け取る側の準備が足りない感じがします。入り口は広くなったんですが、中心の構造が少し閉じている」
「閉じている?」
「入ってきたものを受け取る前に、はじく準備になっている、というか。防御の構造に近い組み方になっています」
セレスが陣を見た。
「意識していなかった」
「無意識にそうなったんだと思います。でも召喚は受け取る側が開いていないと届かない。ここを少し変えてみてください」
セレスが修正を始めた。
わたしはその間、手紙のことを考えていた。
九条家から。公開試験には家からも視察が来る、という話をセレスから聞いていた。そのことだろうと思った。内容は聞かなかった。聞いていいものかどうか、分からなかった。
修正が終わって、もう一度読んだ。
「良くなりました。中心が少し開いた。試してみる価値はあると思います」
「分かった」
詠唱の準備をする前に、セレスが一度止まった。
「少し話してもいい」
「どうぞ」
セレスが椅子に座り直した。
「今日の手紙は、公開試験についてだった。家から視察者が来ること、継承者としての結果を求めること。それだけではなく」
少し止まった。
「試験のあとに、正式な継承確認の儀式を行う予定を立てている、という内容だった」
「継承確認の儀式?」
「九条家では、継承者が継承魔法を完全に使えることを家の前で示す儀式がある。本来は成人後に行うものだけど、公開試験がその機会になると家が判断したらしい」
「つまり、公開試験で召喚を成立させるだけじゃなくて」
「儀式として、正式に認められる形でやらなければならない。条件が上がった」
わたしは少し考えた。
「家には今のことを話していないんですよね」
「話していない。研究していることも、旧資料棟のことも、あなたのことも」
「話さない方がいいですか」
「話せない。研究の内容を話したら、今の九条家の形式と違う術式を使おうとしていることが分かる。それは家への反逆に近い意味を持つ。承認を得られない可能性が高い」
「承認がなければ」
「儀式として認められない。形式を外れた召喚は、九条家にとって召喚ではない」
窓の外で風が鳴った。
セレスが手紙を引き出しにしまった動作を思い出した。素早くて、でも力が入りすぎていた。
「ルカ」
初めて名前で呼ばれた。気づいたのは少しあとだった。
「はい」
「私が試している方向は、正しいと思う?」
真っ直ぐな問いだった。
わたしは少し考えた。誤魔化さずに答えようと思った。
「正しいかどうかは、まだ分からないです。でも、間違っている方向には見えない。失敗痕から読んでいる限り、セレスさんの術式は感応型の構造と相性がいい。記録の内容とも一致している。問題は、それが家の認める形かどうかで、術式としての正しさとは別の話だと思います」
「術式として正しくても、家に認められなければ意味がない」
「儀式としては、そうかもしれない。でも召喚そのものとしては、意味があると思います」
セレスがわたしを見た。
「あなたは楽観的ね」
「よく言われます」
「さっきも言ったけど、褒めていない」
「知ってます」
モコが棚から降りてきた。机の前まで飛んできて、セレスの方へ向かった。セレスの前に降りて、上を向いた。
セレスはモコを見た。
先週の記録で読んだ言葉が、頭の中にあった。歪みは、術式が完成した際に本来の形に戻ることがある。
セレスも同じことを考えているかもしれないと思った。
「励まそうとして空回りしている気がしたから聞きましたけど。だいたいセレスさんの方がわたしより色々分かっているので、わたしが言えることはあまりないです。ただ、陣を読む限りは、続けた方がいいと思います」
「続けるつもりよ。止める理由がない」
「そうですね」
「止めたら終わり。だから続ける。それだけのこと」
それだけのこと、という言い方の裏に、それだけのことではないものが詰まっていた。
わたしは陣の準備を始めた。
詠唱が始まった。
今日の陣は、今まで試してきた中で一番感応型の構造に近かった。中心が開いていて、外から内へではなく、内から外へ向かう流れが螺旋を描く。
一層、二層と順番に起動した。
わたしは陣の横に立って、流れを読んでいた。今日は崩れていない。三層、四層と続いていく。
五層に入った時、モコが鳴いた。
棚の端に乗って、陣の方を向いて鳴いていた。いつもの鳴き方より少しだけ鋭い、何かに反応している時の鳴き方だった。
六層目に入った。
中心への接続が始まった。先週崩れたのはここだった。今日は中心の構造が変わっている。受け取る準備ができている。
流れが届いた。中心に光が現れた。先週より形がはっきりしていた。輪郭がある。ぼんやりした光の集まりだったのが、今日は少し違った。中に何かがある気配が、前よりずっと強かった。
セレスの詠唱が続いていた。
光が揺れた。揺れながら、少しだけ大きくなった。
そのまま、十秒近く続いた。
わたしは息を止めていた。崩れない。今日は崩れていない。
十二秒目に、揺れが大きくなった。
光が広がろうとして、陣の構造が追いつかなかった。外周の一部がほどけ始めた。
セレスの詠唱が一瞬乱れた。
陣が崩れた。
今回は一層ずつ消えるのではなく、外周から一気に消えた。中心の光が最後まで残って、それからひっそりと消えた。
部屋に静寂が戻った。焦げ跡が残った。でも今日の焦げ跡は、先週より中心に近かった。そこまで届いた証拠だった。
セレスが一歩下がった。わたしは彼女の顔を見た。今日の詠唱が乱れた瞬間のことを確認しようとして、やめた。
「十二秒、持ちました」
セレスは答えなかった。
「先週は一瞬だった。今日は十二秒。形も先週より明確でした」
わたしがそう言ったら、セレスはこう呟いた。
「最後に乱れた」
「詠唱が乱れたのは、陣の構造が追いつかなくなってから。先にほどけたのは陣の方です。詠唱の問題じゃない」
「陣の構造が追いつかなかったのはなぜ?」
「中心に届いてから、向こうの応答が予想より大きかったんだと思います。受け取る準備はしていたけど、それ以上の応答があった。構造が対応しきれなかった」
セレスが焦げ跡を見た。
「向こうの応答が大きかった」
彼女は繰り返した。
「はい」
モコが机から降りてきた。焦げ跡に近づいて、匂いを嗅いだ。それからセレスの近くに降りた。いつもより近い場所だった。
セレスはモコを見た。しゃがまなかった。手も出さなかった。ただ見ていた。
「完璧でいなければ」
セレスの声が低かった。
「私には何も残らないの」
わたしには、その言葉が今日の手紙から来ているのか、今の陣の崩れから来ているのか、もっと前からずっとあったものが出てきたのか、分からなかった。
たぶん全部だと思った。
モコが一度鳴いた。
小さな音だった。でも静かな部屋に、ちゃんと届いた。
セレスはモコを見たまま、しばらく動かなかった。
帰り道、わたしは旧校舎の廊下を歩きながら考えていた。
今日の陣で、向こうの応答が大きかった。
それは何を意味するのか。感応型の召喚は、術者の感情状態と連動する。今日のセレスは、手紙が来た日だった。家からの手紙。継承確認の儀式の話。それを受け取った日に、今まで一番長く陣が持ちこたえた。
これは偶然じゃない気がした。感応型の召喚では、術者の切実さが応答に影響する。今日のセレスは、何かを強く抱えていた。それが陣に出た。
でもセレス自身は、それを「完璧でいなければ」という言葉に閉じ込めていた。
わたしは校舎の電灯がついていく廊下を歩いた。
次の陣をどう組むかを考えながら、もう一つのことも考えていた。
向こうが応えている。毎回、確かに応えている。
それだけは、嘘じゃないと思った。




