第七章 呼べないはずのもの
翌日、灰崎クロード教師の授業があった。
古代魔術史は週に一度、火曜日の四時間目だった。教室に入ってくる灰崎先生は、いつも少し遅れてきた。遅れてくる割に怒られているのを見たことがないのは、先生という立場がそうさせているのか、それとも誰も何も言えない雰囲気があるからなのかは分からなかった。
灰崎クロードは、見た目からして少し変わっていた。背が高くて、猫背で、いつも気だるそうだった。黒縁の眼鏡をかけていて、授業中も外さない。ローブの着こなしが微妙に乱れていて、それが故意なのか無頓着なのかも分からない。授業は脱線が多かった。教科書を開いても、気づけば全然関係ない古い術式の話になっていることが頻繁にあった。
「では今日は」
灰崎先生が黒板に向かいながら言った。
「召喚術の歴史的変遷について。教科書の百四十二ページを開けてください」
わたしは教科書を開いた。
「ただし教科書に書いてあることは半分しか正しくないので、残りの半分は自分で考えてください」
クラスからぼんやりした笑いが起きた。いつもの前置きだった。
灰崎先生が黒板に年表を書き始めた。
「召喚術は大きく三つの時代に分かれます。一つ目は感応期。術者と召喚対象が感情を媒介にして繋がる方法が主流だった時代。二つ目は定型期。術式が標準化されて、誰でも同じ手順で同じ結果を得られるようにした時代。三つ目が現代、これは定型の改良期とでも呼ぶべきで、標準術式をより効率よく運用する方向で研究が続いている」
わたしはノートを取りながら聞いていた。
感応期、という言葉が引っかかった。
「感応期の召喚は、現代から見ると非効率に見える。術者によって結果が全然違う。同じ対象を呼ぼうとしても、術者の精神状態や感情の種類によって応答が変わる。つまり再現性が低い」
再現性が低い。
でも応答は確実にある、と古い記録には書いてあった。
「定型期になると、術式が標準化される。誰でも同じ手順を踏めば同じ結果を得られるようになった。これは大きな進歩と評価されています」
灰崎先生が一度止まって、チョークを置いた。
「ただし、何かを標準化するとき、必ず何かが失われます。何が失われたか、教科書には書いていない。自分で考えてみてください。はい、今日の本題はここまで」
まだ授業時間は三十分以上残っていた。
案の定、そこから脱線した。今度は古代の術式記号の変化について話が流れていって、わたしはノートを取る手を止めて聞いていた。
失われたもの、という言葉が、頭の中に残っていた。
放課後、旧資料棟へ向かう前に、わたしは図書室に寄った。
召喚術の感応期に関する資料を探した。教科書に書いてある内容と、灰崎先生が授業で言った内容の間にある空白が、気になっていた。
棚を探すと、古い参考書が一冊見つかった。改訂前の版で、現在の教科書より記述が詳しかった。感応期の召喚について、現代版より数ページ多く書いてある。
読んだ。
感応期の召喚は、術者の感情状態と強く連動していた。喜び、悲しみ、切実な願い、これらが召喚の媒介になった。対象との感情的な繋がりが、物理的な術式の不完全さを補うことがあった。
そして一つの記述に目が止まった。
感応期の召喚において、術者が強い感情のもとで召喚を試みた場合、術式の完成前に応答が現れることがあった。これは「先応答」と呼ばれ、不完全な召喚の証拠と見なされることが多かったが、一部の研究者はこれを感応型召喚の特徴として肯定的に評価していた。先応答を受けた召喚者が術式を完成させた場合、対象との結びつきが通常より強固になる事例が報告されている。
先応答。
わたしは本を閉じた。
旧資料棟へ急いだ。
部屋に入ると、セレスは机ではなく床に座っていた。
昨日の陣の残骸が広げてあって、その前に膝を抱えて座っている。モコが隣に丸くなっていた。
「セレスさん?」
わたしが呼ぶと、セレスが顔を上げた。
「来たの」
「はい。どうかしましたか」
「別に」
セレスはそう言って立ち上がった。
「座って。今日は少し違う作業をしたい」
わたしは椅子に座った。セレスが床の残骸を片付けて、机の前に戻った。
「昨日また崩れた。六層目の接続の直後。形が現れかけたところで、また同じ場所で消えた」
「先に聞いてもいいですか」
「なに」
「感応期の召喚について、知っていますか」
セレスが少し間を置いた。
「今日の古代魔術史で出てきました。授業のあと、図書室で調べたんですが、古い参考書に先応答という言葉が載っていました」
「先応答」
「術式が完成する前に、対象から応答が来ること。感応型召喚の特徴で、術者の感情状態が強い時に起きやすい」
セレスがわたしを見た。
「それが」
「セレスさんの失敗記録に、毎回“応答あり”と書いてありました。術式が崩れる前に、必ず応答がある。それがこれと同じものじゃないかと思って」
セレスはしばらく黙っていた。
「感応型の召喚は、現代の形式とは根本が違う。今の九条家の術式は定型期以降のものだから、感応型の特徴が出ること自体がおかしい」
「おかしい、というよりも。古い記録に戻っているんじゃないですか。さっき言ったら先生に遮られましたけど、六層目まで届いたのは、あの日にセレスさんが何か切実なものを抱えていたからじゃないか、と思っていて」
セレスが目を細めた。
「それは私の感情状態が術式の出来を左右するということ?」
「感応型の召喚では、そうだったみたいです」
「それは、不安定すぎる」
「でも、毎回応答はある」
「応答があっても、完成しなければ意味がない」
「完成しないのは、今の定型形式と感応型の特徴が噛み合っていないからじゃないですか。古い記録の術式に変えようとしているのは、その方向として正しいと思います。ただ、形式を変えるだけじゃなくて、感応型の召喚がどういうものかを理解した上で組む必要があるかもしれない」
セレスはしばらく考えていた。
モコが机の上に乗ってきた。古い参考書の写しをくわえようとしたので、わたしはそっと遠ざけた。
「旧資料棟に、もう少し古い資料があるはずです。禁書区画に近い棚に、感応期の研究記録が残っている可能性がある。今まで確認していなかった」
「確認しに行きますか」
「今から。モコが案内するかもしれない」
わたしはモコを見た。
モコは机の上で耳をぴんと立てていた。
「モコ、古い召喚の記録、知ってる?」
モコが鳴いた。それから棚の奥へ向かって飛んでいった。
「答えた気がします」
「気のせいかもしれない」
セレスはそう言ったけど、立ち上がって、モコのあとを追い始めた。
旧資料棟の棚は、奥に行くほど古くなった。
通常の棚を抜けると、壁際に低い棚が並んだ区画があった。この辺りは埃が厚く積もっていて、灰崎先生以外に最近誰かが来た様子がなかった。
モコは迷わず進んだ。棚の間の狭い通路を抜けて、一番奥の壁際まで行った。
そこには、他の棚と少し違う作りの棚があった。扉がついていて、錠前がかかっている。でも錠前は古くて、よく見ると錆びていた。
「禁書区画?」
「区画の手前、というところ。完全な禁書は別の場所に管理されている。これは制限資料。許可なく閲覧することを推奨しない、という程度のもの」
「推奨しない、という程度なら」
「自己責任で見ることはできる」
セレスが錠前を確認した。鍵は差さったままだった。長い間、誰も施錠しに来ていないらしい。
扉を開けた。中は棚が三段あって、古い巻物と羊皮紙の束が並んでいた。埃が舞い上がって、モコが小さくくしゃみをした。
「くしゃみするんですね」
モコが鳴いた。
セレスが棚の前に立って、背表紙を確認し始めた。わたしは別の段を確認した。
しばらくして、セレスが一冊の綴じた羊皮紙を取り出した。
「これ」
表紙に、古い字体で「召喚の歪みについての記録」と書いてあった。
二人で机に戻って、広げた。
内容は、感応型召喚の失敗事例の記録だった。術者が強い感情のもとで召喚を試みたが、術式が完成しなかった事例がいくつも載っていた。
そして一つの記述に、わたしは目が止まった。
術式の不完全な状態で応答が現れ、召喚対象が形を取りきれずに留まった事例がある。これを召喚の歪みと呼ぶ。歪みとして現れた存在は、術者の感情や願いを媒介にして不完全な形をとり、術者の近くに留まる傾向がある。これは失敗の証拠として否定的に評価されることが多いが、一部の研究者は歪みの存在が術者と召喚対象の間の繋がりの証明であると主張している。歪みは、術式が完成した際に本来の形に戻ることがある。
わたしはその段落を二度読んだ。
それから、モコを見た。
モコは机の端に座って、羊皮紙の上に書かれた文字を見ていた。じっと見ていた。いつものようにちょこちょこ動かず、静かに、ただそこにあるものを見ていた。
セレスも同じ段落を読んでいた。
「これが」
「分かっている」
セレスの声が少し違った。平静を保とうとしている、でも保ちきれていない、そういう声だった。
「歪みとして現れた存在は、術者の感情や願いを媒介にして不完全な形をとり、術者の近くに留まる」
わたしは読み上げながら、モコを見た。
モコがわたしを見た。
それからセレスを見た。
セレスはモコを見ていた。今まで見てきたどの時とも違う目で、ただモコを見ていた。
「セレスさんがモコを呼んだのは、いつだと思いますか」
「分からない。入学してから、ずっと研究してきた。最初の頃は今より陣式が荒かった。でも応答は、最初の頃からあった」
「最初の頃から」
「入学して間もない頃に、初めて応答を感じた。あの時が」
セレスが止まった。
続けなかった。
わたしも聞かなかった。
部屋が静かだった。
モコが一度、小さく鳴いた。それからセレスの方へ少しだけ動いた。いつものような素っ気ない距離ではなく、少しだけ近い距離に。
セレスは動かなかった。モコを見たまま、動かなかった。
帰り際、わたしは資料を閉じながら、最後のページに目が止まった。
記録の末尾に、学園長印の押された文書が一枚挟まっていた。
「閲覧制限指定。本資料の内容は学園外への持ち出しおよび生徒への開示を禁ずる」
日付は、三十年以上前だった。
「セレスさん」
セレスが見た。
「誰かがこの記録を隠していました。意図的に。三十年以上前に」
セレスは文書を見た。
学園長印。三十年前。
誰が、何のために隠したのか。
セレスが穏やかな声で言った。
「続きを調べる必要がある」
窓の外はもう暗かった。
モコは資料の上で丸くなって、目を細めていた。まるで、ずっとここにあったものが、ようやく誰かに見つかったことを知っているように。




